マーサ・ナカムラ『狸の匣』
【マーサ・ナカムラ『狸の匣』】
『哲学の余白に』のジャック・デリダは、隠喩=暗喩を、偽りの生産装置(単位)として敵視する。とりわけそれは哲学的言説にあってはならないものだと。デリダが俎上にのせるのは、A is B構文中のbe動詞、つまり繋辞だ。AとBとのひとしさをしめすこの構文は、実際は論証ではなく類似の直観によっている。直観だから恣意的だし、同一性ではなく近似値の誤差もつくる。ひいては類似関係のAとBが干渉しあい、まざりあって奇怪なキマイラを生むし、接合面に隙間の生じることもあるだろう。ひっきょう繋辞構文による暗喩の連続は、世界を、幻影や近似値にあふれかえった非実体にかえてしまう。言語が思考を害した惨禍がみられるだけになる。そこでは個々の存在よりも接合のほうが優勢的になるのだ。
認知言語学の理論書が詩学の定立に役立たないというのはほぼ常識に属するだろうが、そこにはかならず比喩の分析があり、換喩におされているとはいえ暗喩考察のための例文もある。認知言語学のまずしさはこの例文の凡庸さ、みじかさに負っていて、それは暗喩分析のばあいも変わらない。たとえば「彼女は薔薇だ」。これを「彼女は薔薇のようだ」に較べ「ようだ」の直喩提示が隠れているから暗喩だとし、「彼女」と「薔薇」の類似性が示唆されたとするだけで、認知言語学はほぼ議論を終了させてしまう。これを必要な措辞を脱落させ、短絡させた不全な文とはとらえないし、精確さ、ひいてはうつくしさを欠いた圧縮的短躯ともみない。西欧語ではともかく、日本語では表現が陳腐すぎて、詩どころか歌詞にもみられない用例だろう。こういう生きていない例文を厚顔に提示してしまうのが多く認知言語学の弱点なのはまちがいない。
もうすこし詩らしい例文で、偽りの生産装置=暗喩をかんがえてみよう。大手拓次の一節から引く。《あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、》。ここでは「あなた」と「花」に繋辞の等号が懸けられたかにみえるが、実際はそうではない。「あなた」は「花」だけではなく、「蹌踉」にかかわる憔悴相、「よろめく」にかかわる弱い動作停止、それらにも同時に似ており、しかも表記上のひらがなのやわらかさにも、「、」の息もれにも複合的に類似している。ということは、「あなた」の正体とは多様なものに類似線をのばす「自体の非完結性」であって、書き手は「花との一致」ではなく、むしろ「他との一致をみない、それじたいとの一致」のほうにこころをうごかされている気色となる。
しかも一字空白にはさまれた「ひかりのなかに」は、あなたの所在場所をしめすのか、花の所在場所をしめすのか、さらには「あなた」と「花」がともに「ひかりのなかに」いるのか、判断を終始留保させる。「ひかりのなかに」は場所を架橋させる機能をおびながら、関係項の場所をむしろ不在化させてしまうといっていい。結果、この詩句で印象にのこるのは、「あなた」でも「花」でもなく、「さうろう」「よろめく」となぜかむすびついてしまう「ひかり」の憔悴相ということになるのではないか。「一致」をめざす認知言語学ではなく、微差を見とおす詩学ならば、以上のような読みの手順をとるだろう。それでも詩の実作者は大手拓次のこのフレーズに、あまやかであっても「偽り」をみる。「あなた」と「花」の同在化は、反映のような距離をふくまないためだ。
A is Bの繋辞構文は論文や箴言には散見されるだろうが、詩では、とくに日本語の詩では、あまりもちいられない。自己規定や対象規定として「わたしは」「あなたは」を主語に、属性を付与し、情熱の質の限定をおこなう事例が目立つだけだ。暗喩派の典型とみなされているだろう鮎川信夫にしても、ためしに『現代詩文庫9 鮎川信夫詩集』をひもといてさえ、デリダの知見とはことなり、詩篇フレーズから繋辞構文を採取することがほぼできない。「彼女は薔薇だ」的な修辞の陳腐さから離れることで、もともと詩の組成が発想されているのだ。むしろ暗喩は「意味」形成上の迂回性、フレーズが意味それ自体から離れようとするたわみとして多元的に現象しつづけている。「直接言わない」のは短縮形をとる繋辞構文だけではなく、さまざまな構文の型だということだ。それらも暗喩に属する。鮎川のばあいはこれに翻訳文体がからんでいる。ただしデリダのいうように暗喩が純粋な存在提示ではなく、そこにない何ものかとの結合を軸にした偽りの生産であって、書く主体がそうした目くらましに参与的だという事実は変わらない。鮎川というか当時の詩法がそれに自覚的でないだけだろう。
鮎川よりもさらに暗喩型の詩作者だった谷川雁ならば、偽る悪意がよりつよいためだろう、繋辞構文の変型がすこしあるが、それらが無惨なのが逆に注目にあたいする。詩篇「毛沢東」の達成度とはほどとおいフレーズが奇妙に目立つのだ。色欲の世界大の膨張により、色欲じたいを属性変えさせてしまう詩篇「色好み」では、《おお きみたちの黒い毛であるおれ》のフレーズがある。「おれはきみたちの黒い毛である」が倒置・体言化され、それが「おお」の間投詞で括られ、悪辣美学を駆使する雁からすれば「毛」も「陰毛」ではないかと、いろいろ見極めがうまれてゆくが、ここでの繋辞構文がつくりあげる近似値がもともと魅惑的ではないために、行儀悪さを意図したフレーズ自体のいやらしい突出力だけが澱としてのこってしまう。それは、偽りの生産装置としての暗喩を、その虚偽性ゆえにこのみ、そこに習癖的に語調の強意や断定をもちこむ雁の倒錯によるものだろう。すべてが自発参与的なのだ。
詩篇「破船」中の《網をうて 燃える波がおれだ》、詩篇「世界をよこせ」中の《青空から煉瓦がふるとき/ほしがるものだけが岩石隊長だ》などの「おさない」繋辞構文も、その寸詰まり感ゆえにこのまない。これら自発性を消し、文そのものが作者をどこかへ放逐し、類似性だったものを隣接性におきかえ、空間化をおこなうのが換喩だった。暗喩の主体は作者だが、換喩の主体は文――そういうことだ。文がフレーズを「まちがいのように」喚起する。暗喩に隠れていた類似物もろもろの領域が、換喩では隣接連続体として時空展開につながれて「明示」され、詩行はひらきつづける扇をおもわすような運動体へと組成をかえられてゆく。そこでは偽りではなく、現れの一回性だけがその都度あって、真偽の問題からすべてが解放される。このとき構文が変わることで意味もかわる。「である」から解放されれば、たとえば「おれはきみたちの黒い毛」のあとに「に挟まれて在る」「をもやす」などを容れ、詩句から慨嘆を消すかわりに、ぶっきらぼうに存在をしるし、動詞終止形だけをしめすこともできる。その意味で谷川雁の比喩のすばらしさは換喩的に詩句内の連続性がひろがってゆく以下のようなフレーズにあるだろう――《ばくちに負けたすがすがしい顔でおれは/歩道の奥 爆発する冷たい水を飲んでいる》(「破産の月に」部分)。ここには膠着がない。
類似と同一との弁別を無効化する繋辞構文にたいし、真理のための同一ではなく、領域化のための類似のほうが本来的で、そこに詩学を賭けるという手段が一方ではあるだろう。A is Aの同語反復的虚妄を避けるそのことだけに、詩の先験があるとするかんがえ。西洋詩に底流しているのはこれだろうし、とりわけそこに直観の閃光をもちこむのがシュルレアリスムだ。だからシュルレアリスムを生きた瀧口修造の詩にも必然的に繋辞構文が多い。「偽り」を偽りのまま価値化する手立てといえるが、効果に驚愕をともなうか否かに「実験」が傾注されてゆく。A is BのBが形容詞か形容動詞ならば繋辞機能が不全だが、その段階でも瀧口詩にはハッとするフレーズがある。詩篇名を明示せず、フレーズだけをぬいてみよう。
《アフロディテノ夏ノ変化ハ/細菌学的デアル》。不完全繋辞構文だが、認知言語学のいうような、類似の内包はない。夏の季節の到来を感知して、外界が「細菌のように」ふくざつに繁殖しながら、「愛」〔※アフロディテはギリシャの愛の女神〕の様相がふかまっていることがつたわってくる。しかもアフロディテの裸体を微視的にながめたエロスまで揺曳する。ここから少女から大人への変化が、「細菌の殖え」として黒々とおぼえられないだろうか。
Bが名詞形だったばあいには、デリダの直観のように、詩想は自由度をやや蚕食され、膠着する。《ヨリ凄艶ナモノソレハ天国ノ園芸術ノ公開デアル》。それでも「天国」の植物的組成がみえ、そこにエロス的好尚物としての禁忌がくわわる。《小麦の石の乳房は鯖の女優の鏡である》。これはイメージどうしが侵食しあって、あまり魅力がない。瀧口は「鯖」になにか特異な思い入れがあるのかもしれないが、一般的には青光りと顔により、女性性にまつわらせるにはグロテスクだろう。《星は遠い椅子である》。これはきれいだ。遠さが価値化されるほか、星にだれかが正体を知らさぬまま坐るイメージのはるかな奥行きをもおもわせ、峻厳な孤独がつたわってくる。《養魚器のなかの紋章は燃える大草原である》。水中と草原、湿潤と燃焼といった矛盾撞着のなかにたしかに紋章がみえ、それが魚になる(ちなみに魚はイエスの象徴として多用された)。むろん「である」を離れれば、瀧口詩はさらに解放される。その達成として以下のフレーズをあげたい――《蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る》。両性具有の天国性が仄見え、かつはそのこと自体が天災化されている。しかも全体に象牙色のイメージをかんじる。蝋はもえたのだろうか。とうぜんここでは何に分類できるかわからないとはいえ喩的な修辞があり、しかも偽りか否かを問題視するのも無意味となる。哲学はともかく、詩に偽りの概念をもちこむことじたいが錯誤だったかもしれない。
――というわけで、いささかながい前置きがおわった。これらはマーサ・ナカムラの詩集『狸の匣』(思潮社、二〇一七年)の画期性を語るための前段だった。まだ二〇代の彼女のもくろみの第一は、暗喩によらない偽りの復権だろう。それは「小さ神」の多く出没する柳田民俗学的な散文空間のなかに、最初は逸脱的散文として顔をだす。綿密に編集構成された詩集、その初期段階ではたしかに飛躍的な詩的フレーズではなく、文の内容が、漫才でいえばツッコミを誘発するボケの色彩をもち、可笑性もあるのだが、そうした文が文脈に侵入する仕方が自走的、空間展開的で、これが換喩の機能と似通っている。それが次段階では偽りが美になろうとして、偽りそのものを内在的に偽って詩化する「換喩の換喩」(ズレのズレ)が複合してくる。こうした複層的な建築性があるから(それでもそれは作者の操作力によって閉じられているのではなく、読者側のゆっくりとした参入にむけてひらかれている)、マーサ・ナカムラが現在的なのだ。換喩/暗喩の領地獲得など、ナカムラは詩作の前提から無効化している。とはいえ「段階変化」を画策するため、ナカムラの詩に「散文」が前提されること、この点が気になる。川田絢音のような、散文内部・散文構造の自己脱落が、そのまま「みじかさの詩」となるような超越性がないのだ。
冒頭詩篇「犬のフーツク」をみよう。その一聯・二聯――
疎開先が決まったのは、一九四四年の六月だったと思う。
埼玉県秩父郡の小鹿野村への疎開希望を問う回覧板が届き、私が覗いたときに
は、すでに「吉田」の欄に鉛筆の丸印があった。
私は初めて汽車に乗った。
受け入れ先の寺の前に一列に並んで、三年生の吉田みどりです、と名前を告げ
たとき、中年の女性(住職の妻か、近所の方だと思う)が大柄な筆を生き物の
如くうごかして、「吉田という名字、縦に書くと「喜」という漢字に似てるね」
と言ってくれたのが大変嬉しかった。
戦前の「時間と具体性」を提示されて、作者マーサ・ナカムラの年齢をかんがえれば、この自叙の形式による穏やかな散文体は、「小説の書き出し」という判断に落ち着くしかない。そう読めばいいものを、詩作経験者たちの好事家的な読みはおそらくそうしない。「疎開先」「一九四四年」「回覧板」といった時代色ある小道具を仕掛けだとかんじてわらい、「マーサ・ナカムラ」という謎めいた筆名をもつ作者の詩中の自称「吉田みどり」のネーミングの地味な絶妙さに膝を打ち、「吉田」を縦書きすると「喜」にみえる、の詳細には、圧縮による錯視という詩法上の実験が自己言及的に仕込まれているのではないかと緊張へみちびかれる。ただし散文の枠にまもられた時空変転・叙述変転のおだやかさは紛れもなく、「三年生」(尋常小学校三年でいいのか)女児のもつ素直さにすこしゆれそうになる。
三聯は二聯の舞台となった「鳳林寺」、その周囲の地勢説明でやはり小説体。そうした堅牢な穏やかさを踏まえて、四聯を読みだすと、叙述が自走して逸脱を犯す渦中に読者が置かれる。ここでの正しい応接は「わらうこと」ではないかとおもう。それまでの語調に騙された失点回復は、笑いによってのみなされるためだ。ただし、逸脱は内容面に集中し、叙述の形式が「詩的に」みだれるわけではない。その四聯――
山に繋がる木々の間で、寺の方を見ている緑色の爺さんがいる。
初めて見つけたのは、外に出られない雨の日で、随分小さいお爺さんだなあと
眺めていた。
彼は漬け物石くらいの高さしかないようだ。
身じろぎせず、にこにこと笑いながら木々と草の間から見ている。
寺の硝子戸の中にいるときには見えるのに、近づいていくと消えてしまう。
見失ってしまうのだろうと言って、友だちを硝子戸の中で見張らせて、走って
向かっていったこともあったが、やはり見えなくなってしまった。
「下、下」と友だちが合図しているのは見えたが、遠く離れた友だちの顔がの
っぺらぼうになっていた。
一寸法師やコロボックルなどに匹敵する「小さ神」の登場。緑色、つまり昆虫色をした老爺がそれだ。近づくと消える詳細は、『となりのトトロ』で妹・メイが家の庭の敷地にトトロの親子をみて、つかまえようと追ったときの部分透明化まで想像させるが、わらえるのは「漬け物石くらいの高さ」。楕円球体のそれは、用途がさだめられているため、長辺ではなく置かれたときの厚みの短辺で高さをしるされる宿命にあると思いがおよんで、笑いそうにはならないだろうか。穏やかにみえた「私」は活発で利発な社交家でもあるのか疎開直後に友だちをつくっている点が自然に付帯され、ちいさな「緑爺」のやさしい怪異は友だちにも飛び火してその顔を「のっぺらぼう」に化けさせている。これを怪異の重畳とみるか、「筆の勢い」によって生じたちいさな比喩とみるかで、読者は吟味をしいられることになる。この一篇に仕込まれているのは「物語」に内在する比喩論なのではないか。
しかもここからがズレの連続となる。物語素が換喩的にズレるのだ。そうして対象がべつのものに移動する。一種の――第一段階の内挿だ。描写の細部にも、「嘘だろう」とツッコミたい軽い驚愕、前提解除、転覆がにじんでくる。読者は内心でツッコミを入れることで詩に参与する。これはすごく「かわいい」ことなのではないだろうか。一読、表面の童話性にからげられそうになるが、作品参与のありかたが読者自身の子ども時代を召喚するのだ。それでも作者はハンドル切りによって読者をちいさくゆらす。そのちいささが絶妙なのだった。五聯――
犬のフーツクは、小さいお爺さんを探しているときに見つけた。
木々の暗い隙間に、あぐらをかいて座っている、茶色に黒いぶちのある犬が見
えた。
「いち、に、さん、し……」
フーツクは、獣で作った押し花を、指を折り曲げて、器用に数える。
「押し花」は、私の手くらいの大きさで、狸や犬や熊などが、固く眼をつぶっ
て紙のような薄さになっていた。
対象移動されて出現した「フーツク」の命名者が誰で、しかもそのいい加減な名にどんな由来があるのか。フーツクはあぐら座りが寓話的でかわいいが、「茶色に黒いぶち」の犬はおそらく誰も見たことがないだろう。そんな純血種はいないし、雑種にも存在しない。そのフーツクが肉球のしばりによって指が自在にひらかない前脚先端ではなく、ほぼ人間の手をもち、しかもものを数える知能を有していると叙述によって付帯的に理解されると、犬と書かれた当初がなにかの比喩ではなかったかと読みがゆらいでくる。しかも栞用なのか「押し花」は花ではなく、獣でつくられ、それが成立するためには狸・犬・熊などがヒナギクていどにちいさく縮小されていなければならず、フーツクの手許がそれほど詳細にみえる「私」の立脚地にも保証があたえられていない。仲良くなって隣に座った、その一文が「脱落」しているとかんがえるのが妥当だろうが、「犬」の語でいったん現れた寓意性が、その後の「狸」「犬」「熊」の寓意性により、「紙のような薄さ」に変異させられている点が重要だ。内挿は既知性への関数モデルの導入だが、「薄さ」をモデルに加味していることにはふかい洞察があるのではないか。いずれにせよ、「偽り」とも名指されよう転覆がそれまでの聯よりも頻繁化する。じつはしずかな加速へとむかうこうしたリズム変転こそが、この詩篇の本当の内実ではないのか。五聯、内挿の質が変化する――
たくさんの本を持っていたフーツクは、タイの昔話を翻訳したものだという絵
本を見せてくれた。
「……帰郷すると、家に誰もいなくなっていた。近所に住む幼馴染みの男が現
れて、「ドアを閉めた方がいい」と言って、私の周りの部屋の扉を閉めていっ
た。火を起こすと、我が家の火の神様である老婆が、家族の写真を見せてくれ
た。私が十歳にも満たないときに撮影したものである。私以外の家族みんなは、
頭に黄緑色の帽子をのせていた。帽子には、草の芽に似た模様が入っている。
先程ドアを閉めにきた男も、黄緑色の帽子をのせていた。黄緑色の帽子をのせ
ている者は、流行病で、みな亡くなったのだ。写真の中で、私ひとり黄色の帽
子をのせていた。帽子の中央には、「◎」の印があった……」
私はこの絵本がとても好きで、よくフーツクに読んでもらった。
この聯の問題は、家だかどこかに多くの本を架蔵しているフーツク→タイの昔話を翻訳した絵本→その中身、というふうに入れ子が進展してゆきながら、その中身も故郷再訪と、老婆のみせてくれた写真のもつ生のうえでの神秘的意味、とさらに内在化してゆく「目くるめき」にまずある。しかも「 」の内容にはやはりたんなる譚ではなく、関数が内挿されている。写真中、黄緑色の帽子を頭にのせた家族はみな流行病で死に、黄色の帽子をのせた私だけが生き残った。私の帽子には◎の印があった――そう語られ、色の黄、あるいは◎が生存の条件(あるいは◎は生存者マークとして事後的につけられたのかもしれない)と「因果法則」がしるされていると一見とらえられるが、その法則を破り、黄緑色の帽子をかぶりながら生存した者が「写真の内側と同時に外側にいて」「しかもそれが絵本の内側である老婆の家にみちびいた幼馴染の男」と設定されているのだ。「例外」なのだが、内挿の材料にはなっている、この不思議な位置どり。しかもナカムラは記述を迷彩化させるためか、あえて冗長に絵本の中身では舌を噛みそうなくらい「黄緑色」「帽子」を反復させている。
おそろしい効果が付帯する。絵本のなかで生存にいたった写真内の「私」は、この詩篇の主体「私」と「十歳にも満たない」という年齢設定により、同一ではないかという錯視にみちびかれるのだ。内部性をきわめるため内部にむかってゆくとそれが外部性に反転する(これは内破だ)クラインの壺的空間。散文性を仕込んだ叙述を貫通しているのは数学的な悪意といえるだろう。この二重性により「偽り」がいわば機械生産のように現象されているのだ。物語、叙述内容、詩法はちがうが藤井貞和のかつてのアルゴリズム的名篇「神の子犬」をおもった。写真をみせた老婆と写真のなかの生存少女、あるいは詩篇の主体「吉田みどり」との関係にもわからないが何かが匂っている、と立ち位置をかえ「言い換える」こともできる。
記述が長くなりすぎているので、つづく最終聯は簡単に「要約」する(ここまで読まれたかたは、詩篇「犬のフーツク」が、かたちは散文でも紛れもない詩だと確信してできているはずだ――詩の特質は要約しようとすると本体よりも長くなる逆説にあるが、便宜上あえて暴挙をおこなう)。緑小爺の姿は失われ、私は犬のフーツクとなんのためか杉の根もとの土を掘る(この掘ることは別の詩篇「発見」にひかりを投げる)。地下世界に星界が現れるように「星」についての会話が始まるのだが、だれの発話によるかわからない。
話は瞬く星と瞬かない星の差異についてで、星は遠く夜空に穿たれた窓、生まれる前の子どもたちが場所を入れ替わって順繰りにこちらをみるときは星は瞬いてみえるが、瞬かない星はたったひとりとおくの窓辺から現世を見つめつづける子どもがいて、その瞳もまばたきしていない、といった内容だが、けっきょく星と眼の弁別まで失わせる魔術性をもっている。
その後フーツクは自分で掘った穴に入り、消える。消えることでカフカの寓話的短篇「巣穴」の「モグラかどうかもわからない」「しかしモグラ的な主体」と接続されてゆく。とうぜん読者は「犬」という形容がフーツクにいつからつかなくなったかを遡行的に確認する。それは「緑色の帽子」を頭にのせるように、初出の一箇所にしかついていない。ツッコミたくて笑い、その寓話性に堪能させられながら、詩篇「犬のフーツク」は偽りの叙述法にアルゴリズム=内挿の測量法、解体をとりいれた、その定義不能性ゆえに詩としかよぶことのできないもの、なおかつ「実際にしずかな詩的昂揚のあるもの」と認識されてゆく。知能のたかい名人芸である点はいうまでもない。しかも詩をとりまいていた神経質な「偽り」の問題に、暗喩圏とはまったくべつのところからメスが入ったのだ。
つづく収録詩篇「柳田國男の死」も、「犬のフーツク」と比肩しうる傑作詩篇だが、詳細な分析は割愛する。ここでも読者はやさしくゆらされる。ゆれは、詩にえがかれている場の意味の把握と、時制の弁別によって起こされる。そして例のごとく動物を中心に寓話的な配剤にみちる。しかも「犬のフーツク」で禁じられていた詩行の改行連鎖が、繊細な余白・余韻を放つようになる。ナカムラは書法も自在なのだ。「蛍になってもどる(死者の再臨)」「蛍が撮影した映画」「映画のなかの座敷牢幻想(むろん柳田が実生活において蔵のなかで勉強していた事実もある)」「映写機とフィルムの動物化」「青森の天狗松が植生の景物なのか「九州小倉の無法松」のような人物なのか結局判断できないこと」「瓶」「フィルムがなくなっても白光を投影していた映写機によってあいだにある瓶中の「あかく きいろ」の液体が金青に変色しながら、エクランに灰色部分が残存していることから柳田の骨壺の実在が予想され、この幻燈会=マジックランタンサイクルが柳田的存在による柳田への法事となっていること」「「次の幻燈は十年後です」の神様の言葉から、いまが七回忌で次が十七回忌と予想されること」などが、記述の偽りを解除した中身としてわかってゆく。回想部分で突然出現した主体「私」の回想内容は不明瞭で矛盾感覚にとんでいるが、一箇所、「膣に投函」という逸脱には驚愕を禁じ得ない。
詩篇「おおみそかに映画をみる」の夜の樹間の幻想性もすばらしいが、池の底にひらける池という視座にたぐいまれな感動をおぼえる詩篇「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」も、詩の立脚点そのものが展開の入れ替わりもあってはっきりせず、その幻惑力がすばらしい。「立方体状に氷の張った鯉」にみられるイメージの偽り、あるいは片言。支倉隆子のすばらしい短詩「麩」(『魅惑』、思潮社、一九九〇年)ととおく交響しているような気もする。支倉「麩」を全篇引用したのち、マーサ・ナカムラの詩篇の後半を引いて終わろう。どちらにも解説は付さない。
【麩】
支倉隆子
湿地帯の
水面から
ほぉいほぉいと水蒸気がのぼりつづける。春の。
昼に。
死んだばかりのひとが
麩をちぎっては水に投げている。
【許須野鯉之餌遣り】(後半)
マーサ・ナカムラ
美しい男が、立方体状に氷の張った鯉を釣り上げたという池を見物しに行った。
見つめていたら、青空が池に沈んでいく。
一層、辺りは暗く濁っていく。
暗闇と水中が同化していく。
見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
そこらは無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麩にして食べて
しまうと見物客は言っている。
江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、
鯉に餌をやりに訪れている。
「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。
地上では若い頃の身体に似せて化粧をする。
水の底では、何もかも終わりがない。
池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に
遊んでいた。
鯉は、口元に寄せる麩にひたすら口を動かし続けている。