石川寛・ペタル ダンス
【石川寛監督・脚本・編集『ペタル ダンス』】
2012年春に札幌へ来てから、上映環境の変化によって、映画の見逃しがたしかに多くなった。映画そのものは授業の必要もあってDVDをつうじ依然多くみているつもりなのだが。そんなわけで、ときどき見逃したものを遅れてDVDでチェックしたりする。そのなかで圧倒的にすばらしいとおもえるものが最近あった。2013年4月に東京で公開された石川寛監督の『ペタル ダンス』がそれだ。『tokyo sora.』から注目していた監督の、いまのところの最新作で、宮﨑あおい、安藤サクラ、忽那汐里、さらに吹石一恵が、冬の津軽半島西岸を舞台にやがて捉えられてゆく、ミニマルロードムーヴィーといったおもむきだ。
銀と蒼白をとかしたような、淡い、全体の色彩設計。石川寛監督の特質は、大胆にも空、さらには海といった空漠そのものを背景にして人物を捉え(トリュフォーが回避したことだ)、その身体の輪郭に孤独と色香をみごとにただよわすことだ。人物はうごくから構図は刻刻と変化する。それぞれの瞬刻がうつくしいままつながってゆく。労働が決まった屋敷前の斜面を移動するホーボーたちのさみしいうつくしさをしずかに動態化させた『天国の日々』のネストール・アルメンドロスのようだし、写真美学への意識でいえば、初期のジム・ジャームッシュからの影響もかんじられる。
しかも『ペタル ダンス』では「風そのものはみえる」というのが主題だ。矢崎仁司は『風たちの午後』で風そのものはみえない(誰も風を見た者はいない)とマニフェストしたが、たとえば日向寺太郎は『誰がために』で風の不如意な可視化を主題とした。『ペタル ダンス』でも宮﨑あおいの示唆によって「とある木」のそばに、安藤サクラ同乗、忽那汐里運転のクルマが停められる。津軽半島ちかく。木は冬枯れのすがたで、年中の強風により激しく傾斜したままそれでも息づいている。そのさみしさは、「風のすがた」をそのまま自らのすがたとして固定されたことによっていて、あ、となった。
「かたち」の発見が監督の主眼にある。なんでもない詳細が忘れられなくなるのだ。忽那の勤めていた高橋努店長の立地の悪い、ファサードがガラス張りのブティックが、店長の突然の失踪により閉店する。同僚の後藤まりこが、勤めていた記念を、衣服がもちだされほぼがらんどうとなった店内から拝借する。腹部までの女性トルソが引き出され、それが不完全な人形として、店を去る後藤の自転車に括りつけられる。去ってゆく後藤の後ろ姿を見送る忽那。そのときの後藤、自転車、トルソのつくりあげる「かたち」は、確信はないけれど、やがて夢によみがえってきそうな気がする。
石川監督の「法則」では身体の輪郭は音楽のようにゆれなければならない。構図はまず、鳥取砂丘を舞台に寓意的な写真を撮りつづけた植田正治のように「配剤される」。ところがそれが「映画」として動態化されるためには、さらに「輪郭のゆれ」が加算されなければならない。このときに活用されるのがこの映画では女性の髪なのだった。風間俊介との冒頭から宮﨑あおいの髪はゆたかで、それが風にゆれている。風はそこでも媒介物をつうじ可視化されるが、髪は頬にかかり、宮﨑の丸顔の輪郭を消している。やがて場面がずっと経過してから、宮﨑の正面性にも風が吹き、髪が後ろになびいて、丸くかわいい童顔が露呈してゆく。『害虫』などの初期作品以後、宮﨑がこれほどかわいい映画は稀有なのではないだろうか。
かわいいといえば、愛玩動物との類縁をおもわせる忽那汐里もそうで(このひとの存在はどこかそれじたいが寓意的だ)、ところが宮﨑のロングボブとはちがい、ひたいを露呈したそのロングヘアの髪型は、やはり風により、黒いほのおのようにゆれる。偏差がある。宮﨑の髪のやわらかい軽さにたいし、忽那の髪のうごきは、やや重く、「黒い」のだ(うごきが黒いというのはヘンだけれども)。
それらのものはうごきであって、バンヴェニストふうにいえば、解釈項をもたない「範列それじたい」というべきものだ。「意味以前」が揺曳する、ぎりぎり「単位」であるもの。音楽にみちあふれている要素ともいえる。そういうものが「花びらの舞い」を含意する『ペタル ダンス』には淡く充満していて(「淡い充満」とは気絶的ななにかではないだろうか)、言語化不能性の多さ、しかもそれが感覚的にうつくしいことに、たいがいの観客は戸惑うのではないだろうか。それで感慨をもらす。映画そのものが「少ない」、何もないことそのものが執拗に映っている、と。ところがかたちやうごきの「範列」は作中にみちあふれているのだから、この映画を稀薄ということはできないだろう。
とうぜん、方法としてのミニマリズムが想起される。絵画や写真、やがては音楽に適用されたその方法は、映画に転位させるとつぎのようになる――あらゆる局面で「少ないもの」が手をむすびあえばよいのだと。「少ないもの」、それは物語、人物、構図要素、科白、カット数、上映時間などだ。ところが少なさは充満形をなして実際はそれじたい「多い」のだから、空隙に稠密をみるような逆転が起こり、決定不能性が積極的な容積をつくりだすようになる。しかもことは映画なのだから、物語の抽出還元ではなく、ただ「みること」だけが現れの少なさのなかに組織されてゆく。たとえば、静止的ショットのなかで唯一うごくもの。それで空をとおくよぎるグライダーの機影への注視が起こる。それを白昼の流れ星のように祷りの対象にすることは、ちいさな心中の飽満、その不如意と連絡するだろう。作中、宮﨑あおいと忽那汐里はそうした精神傾斜をともにもつことで、同類となる。
ネット上の感想を見ると、雰囲気が良いだけで、内実はスカスカとする3点評価が連続している。「少なさの多さ」「物語以外」を見ていない、たんなる物語還元者たちの述懐にすぎない。少女の生成とは、少なさが多いことからはじまるとドゥルーズは語ったのではなかったか。稀薄性と多包蔵性、この二項の革命的な攪乱。それを石川寛は20代後半の「女子」の風情にもあてはめたのだ。世界観がフェミニンというしかない。しかも出てくる女たちに、みなブルージーンズが似合っているのだから、そのフェミニンなやさしさは手近でもある。
『ペタル ダンス』でも物語の骨子をいうことはできる。大学卒業後、宮﨑あおい、安藤サクラと6年間音信を断っていた元同級生の吹石一恵がとおく津軽の海で入水自殺に失敗し、当地に入院している。彼女を励起しなければならない。それで宮﨑と安藤は見舞いを決意する。もうひとつ物語要素がある。図書館に勤務する宮﨑は、自殺にまつわる本を借りた来館者の忽那汐里の印象がのこっていた(忽那はとつぜん自分の前からすがたを消した韓英恵が自殺したのではないかと気になっている)。その忽那を偶然、駅のホームで見かける。入構する電車に飛び込む気配。咄嗟に飛びついてホームの縁から引きはがすはずみに、宮﨑は指を剥離骨折してしまう(忽那が付き添った病院でそれが判明する)。吹石の見舞いには、安藤サクラの前夫・安藤政信の所有するボロ外車が使用されるはずだったが、運転者の予定が宮﨑だった(安藤サクラは免許をもっていない)。ところが宮﨑は骨折した指に軸木が沿っているのでハンドルがもてず、いきさつ上、失職直後で閑暇のある忽那が運転を代行することになった――。物語の骨子は「ただこれだけ」、あとは吹石の登場以後もふくめ、女たちの不如意で「足りない」ことばのやりとりが、彼女たちの風景内のたたずまいを付帯させ、追われるのみだったといっていい。
ちなみにいえば、忽那は入構する急行列車に飛び込もうとしたのではない。彼女は学生時代、走り幅跳びの選手だった。そのときの名残で、前方を意識したときスタート姿勢をとってしまうのだ――そう彼女は、宮﨑の手当てが終わった病院からの同道帰途で語る。この語りだすタイミングの遅れがすばらしい。しかも「はじまり」が「停止」を内包する姿勢が存在し、しかもそれは他人にとっては「はじまり」にしかみえない、というのは、この作品の女たちのすがた全体ともかかわっている。
宮﨑は骨折した指に軸木を沿わせた手をひらき、その「かたち」を気に入り、手を前にかざし、なにかを濾過するようにして風景の変貌を愉しんでいる。彼女には風間俊介との恋の進展の予感もある。安藤サクラは相変わらず存在感と演技巧者ぶりが分離できない。倦怠があり、やさしさをしめすことそのものへの恥じらいがあり、どんな場所でもそこに身を置くときの居心地の悪さを分泌している。だから風来坊のように風景のなかで身をずらし、それがかわいいのだ。同時に、相手の科白を反復しながら遅い納得をみずからにみちびく発語のありようから、石川監督が女優たちにアドリブを奨励した経緯がつたわってくる。忽那は宮﨑たち同級生のなかでどんなときでも部外者だが、一歩退いて当事者たちのもどかしい動向に意を払っている。眼と耳が積極的に駆動しつつ、全身が消極性を手放なさいその風情がうつくしい。場所にどう立つかの見本を、彼女はしめし、それで賢者になっているのだ。
この忽那からとくにわかる。「あること」と「ないこと」の交響が作中にしるされているのだと。むろんさきに物語を抽出したように、主題は「自殺」をめぐっている。自殺が完遂されれば「ないこと」にすりかわる存在が、そのまえに「あること」をどうしようもなく把持している――ならば「あること」と「ないこと」は時間を圧縮するまえにあらかじめ交響しているはずだと。そう、それがこの作品の伝達事項なのではないか。
指を骨折した宮﨑のみならず、女優たちの「手」に眼がゆく。髪が意味以前の範列だとすれば、手は意味以前ながら意味に漸近する単位なのだ。それは髪よりもさらに存在している。あるいはクルマが津軽に向かって進行するときフロントガラス越しの仰角気味のカメラから、電線が空を背景に、交錯しつつ通り過ぎるのが捉えられる。そう、「手」と「電線」、それから女たちの不如意、そのさみしいうつくしさによって、さらには少なさをつうじて、作品はあきらかに魚喃キリコの世界と通底している。さきごろ観た魚喃原作の映画ではそのヒロインがまったく魚喃的ではなかったが、この『ペタル ダンス』での女たちの――とりわけ忽那汐里の魚喃的風情はどうだろう。世界は透明なのに、電線で濾過され、その入れ子性の最終内部が自己再帰的に眺める自らの「手」になる――その自己再帰性が基準となった世界構造に、そもそも不可能性がわだかまっているというのが魚喃マンガの哲学だとすると、石川寛のこの映画もいったんそれに寄り添う。
「いったん」としるしたのはなぜか。作品のクライマックス。病院で海がみたいと語った吹石の望みによって、見舞いの翌日、四人は津軽西岸の冬の海に向かう。雪まじりの荒涼たる風景。それぞれがそのなかを不定形にゆきかう。やがてさらに吹石はいう。入水を企てた場所に行ってみたいと。自己再帰性と時間偏差の交錯。その場所は浜から孤絶に突き出した埠頭だった。さきに海だけがあるその景観は、メカス『ロストロストロスト』の最終場面とも連絡する。四人がそろって、しかもバラバラに埠頭のうえに位置するようすが縦構図でとらえられる。その配置、うごきのうつくしさ。しかも「そろって」「バラバラに」の同時性が得難い。
このとき冬の曇天で黒びかりする海面が捉えられる。それは強風で微細にうごいている。海面の自己再帰性が揺動によって自己再帰的に充満する、光景の圧倒的なゆたかさ。単位が単位でなくなるようにそれじたいをざわめいているのだ。そのものが非-自殺的というしかないこうした「世界の現れ」があって、それこそが彼女たちに隣接している。海面はもう「かたち」ではなく、範列の無限の自己展開にすりかわっている。そのことに彼女たちが気づいていないようすが、せつないのだった。泣きそうになった。
書き落としていたが、ここぞという間隙に響いてくる菅野よう子の音楽、その溶解力もすばらしかった。間隙が溶けることで世界は空間的に連続し、よって時間も連続するのではないか。音楽は、範列を組織しながら、同時に間隙を高度に再組織するのもいうまでもない。そうなったとき時間の本質が、連続性から隔時性にさえすりかわる。ベルクソンからレヴィナスへと読みうつるときのように。付言すれば、吹石一恵の演じていたもの、それは隔時性そのものだった。
寓意性がつよく、わすれられないくだりがひとつある。津軽の海浜公園の休憩所の木の机を囲み、青森のどこかの町の文房具店で買った鉛筆を四人それぞれがもって、風に飛ばされそうな紙の四隅を、拾った石で固定して、みなすわり、筆記に挌闘している。女たちの髪が風でやわらかにゆれ、みだれている。宮﨑の提案。「おもいついた単語=目にみえるもの」を連想ゲームのように百個、紙上に連打して。みなその作業が終わる。また宮﨑の示唆。そうしたら最後に出てきた三つの単語を織り込んでひとつの絵にして。今度はそれぞれが作画と格闘する。最後の三つの単語も報告しあう。たとえば忽那のばあいは「三角」「女子」「蛇」。彼女の手許には、三角の涙をながす、蛇のように首のながい、ロングボブの女子の顔が描かれている。失踪した友人の面影=悲哀がそこにあるのだろうが、西岡兄妹(妹の千晶)のような硬質な装飾性もかんじられる。おそらく忽那自身の作画だろう。絵はみな完成する。なにかの判じだとおもい、それでどうなるの、と質問が出る。宮﨑はわらってこたえる。「それだけ」。カットは変転するが、みな怪訝な面持ちになったとおもう。
この逸話で、体験の綜合は、百の体験のうち最後の三つによってなされ、のこりの九十七など無意識のうちに秘匿されてしまうことが語られているのではないか。この秘匿こそがひとのゆたかさなのだが、ぎりぎりひねりだした最後の三つだけが、痩せた詩句のようにとりつくのだから、ひとは有限を生きるしかない。有限は、じっさいは順番性によってひとをとりかこむのだ。もちろんそれはこの物語結節のはっきりせず、ぜんたいが淡いだけの『ペタル ダンス』が、ひとの感覚にどのようにのこるか、そんなメタレベルの自註でもあるだろう。みたものをみたと言え、といわれ、最後の三つだけを尊重するのは、有限者が体験の綜合そのものを賭に付すことにちかく、その埒外には映画『ペタル ダンス』もない、と言い切られているのではないか。