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からだのこと ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

からだのことのページです。

からだのこと

 
からだとは何か、と考えることがある。
意識や思考とは別の、アイデンティティの根拠。
田中宏輔さんなどは最近の詩的思考メモ日記で
からだは空間における(移動可能な)固有の場所(容積)、
それだけが第一義、という考えをいよいよ深めているようだ。

からだには一種の「難儀」がひしめいている。

発語の場所と栄養摂取の場所がなぜ重複しているのか。
排尿の場所と精液放出の場所がなぜ重複しているのか。
脳と眼がなぜちかすぎるのか。
乳房と臀部がなぜ相似したのか。
四脚状態から腕と脚が分立して
それがなぜ相似と背反を同時に運動として描くのか。

ひとは、なぜ自分の顔を視認できないのに
ある瞬間の自分の顔をたえず意識できるのか。
対象を愛するとなぜひとの眼が不本意に耀いてしまうのか。



いまロボット工学では、AI(人工知能)を装填して
その知能を無限化するのではなく
配備された電気的神経叢と筋肉の連動によって
AIではなく身体に
経験則を蓄積させる方法が選択されだしている。

人間のように神経と筋肉と骨格と関節を完全配備して
たとえばロボットにでんぐりがえしをしいる。
当然、最初ロボットにはそれができない。
やがて不細工に――ついには完璧に――それが可能になる。
筋肉同士が一瞬のあいだに刺激の電導を成し遂げるのだが
それが筋肉連動として筋肉組織の「内部」で
アフォーダンス的な経験則を蓄積し、
より運動を流暢におこなうよう自己改変を遂げるのだそうだ。

つまりそこにはAIを起点にした
上部→下部ヴェクトルの「指令」が発生していない。
筋肉自律的だということ。
ロボット工学では知能ではなく「筋肉が考える」可能性が
いまこうして追求されている。

産業ロボットが物をつまむだけならば
手のかたちが抽象的にそこにあればいいが
未来型ロボットが人型を選択するのは
べつだん数多のSF作品に敬意が表されているからではない。
ロボットの身体は当然占められる「場所」なのだが
その場所のかたちが恣意、もしくは単なる機能性に終始するなら
ロボットもまた抽象、機能しか表現しない。
むしろそれが人間のかたちをとることで
身体の人間的な思考も実現される、ということだ。
「からだが考える」ということはかくも普遍的なのだった。



美人なら美人のひとの存在感があるが、
それは畢竟するにその思考の型が美人型という点に行き着く。
短躯のひとなら短躯型の思考を研ぎ澄ましているだろう。
身体の個性差が思考の個性差にも行き着くから
たぶん人間世界に無限のヴァリアントができる。
虎の顔に似た者の虎的思考。鼠の顔に似た者の鼠的思考。
僕のルックスなどはやんちゃで
だから僕はやんちゃな思考をするのだともおもう。

このあいだ研究室で僕の授業にもぐっている大中真慶君が
僕が出した評論集『マンガは動く』の感想を述べてくれた。
彼にとっては魚喃キリコの章が圧巻だったそうだが、
彼がとりわけ感動したのは、僕が
魚喃の「日曜日にカゼをひく」で
擬似的三角関係をおりなす男女三人のうち
最も美人の「大田」に同調をしめしている点だったという。

大中くんのいうことはわかった。
彼は僕の身体同調力が無方向で
しかも「強いもの」にも触手を伸ばす点に
一種の力を感じたのだとおもう。

身体はしかし認知の機能だけではない。
それは不透明な多層で、その奥処まで自覚できず
(たとえば生物は自分の内臓の動きを認知できない)、
つまり「忘却」は身体機能のなかに予め装填されている。
意識だけでは窮地に陥ってしまう人間を手助けしているのは
身体に備わっている忘却「能力」なのだということ。

たとえば宿酔は前夜の飲酒意識を「切る」ことで克服されるが
それは味噌汁などを飲んで胃や肝臓が通常性に復し
血中アルコール濃度が減少することによる。
これは意識レベルでは「忘却」としてしか自覚できない。
宿酔をひたすら睡眠によって打開するのも忘却作用に関わる。

こういうものを文学化したのがプルーストだった。
プルーストは身体の複層性を対自的に不分明なものと規定する。
それゆえにこそ無意志的記憶や「心情の間歇」テーマを
その長大な小説細部へ多元的に開花させた。
身体においては自己救出のかたちが受動性を帯びる点が肝要で、
身体を積極的な作用域とする思想はすべてどこかに無理がある。

僕は今度の『マンガは動く』では
プルーストからの援用をさかんにおこなった。
これは現在のマンガ表現が身体的にリアルになったゆえの
必然的な措置だったとおもう。
就中、安永知澄『やさしいからだ』への考察は
身体の本質的な曖昧さによって
対立項が身体内で溶解する意義をつきつめ
そうしたからだを「やさしい」とした安永への賛意をしめした。
ぜひ読んでいただければ。



今期の音楽実践演習では結局、最終的には
授業参加してくれた三村京子さんのラララ音源に
音数に合わせて受講生が「歌の言葉」をはめ込む、
というのが最終課題となった。
三村さんは全11曲のラララ音源を提供してくれた。
僕自身もその課題に参加し、結局幾つかの曲は
三村さんの作曲にたいし幾つかの作詞が競合するかたちとなった。

ラララ音源への作詞は
メロ、コード、リズム、ジャンル、歌声などの「感情」に
どう歌詞を嵌めて一貫性をつくるかだ、と僕は演習で説いた。
相即的、背離的、とりあえずは二つの方法がある、とも
(最終的には「混在価値的」が最も正しい、
だから歌唱の一行も独立すると個人的にはおもっている)。

石川大輝君は例によってのアナーキーな言葉の展開で
三村さんの歌唱パフォーマンスに新機軸をあたえる挙に出る。
青木麻衣子さんはJポップ的な詩法を三村仕様に変え
より間口を広げてみれば、という提案をしたのだろう。
それぞれが僕にはおもいもつかない方法論で、感動した。

僕自身は、20代半ばに達した彼女のなかで
それ以前とはどう歌詞世界に変容を来すべきかを考えた。
一個は唄う身体に苦さを盛ること、
もう一個は普遍的古典性を盛ることで対処した。
俳句的な語の背景展示が大切だと考えもした。

この演習はまさに受講者の全員が
三村さんの個性を考える具体性の磁場のなかにあった。
そうした個性は畢竟、「彼女の身体」でしかない。
随分、逼塞的な成行きだったと反省もするが
「身体」を考えることはそれ自体が「愛」で
だから半面ではすごく滋味もあって、良い演習だった。

惜しむらくはたとえば
パンクバンドで現在活動している、などの受講者がいて、
その者の作詞なども受講生が手がければ
もっと作詞技術に幅が出ただろう、と予想が立つことだ。



そういえば最近、詩は思考ではなく身体が書くという
考えをますますつよめてゆくようになった。
身体が駄目で詩も駄目だという実例はすぐにわかる。
詩も短歌も俳句もすべて同断だ。
なにか「乖離」「無理」のしるしがあって、
これは技術以前の問題だともおもう。

昨日アップした僕の詩篇につき
「なにぬねの?」では倉田良成さんが
僕の身体挙止を髣髴させる、と簡明な言葉で褒めてくれたが、
これがすごく嬉しかった。

さて僕はどうやって身体自覚を錬磨しているのか。
ひとつは歩くことによってだ。
もうひとつはたぶん、身体自体が衰勢していることによってだ。
これらふたつの感覚が蓄積しなければ
詩を書くこともなかっただろうと今更ながら考えている。
 

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2008年07月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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