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びーぐる時評 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

びーぐる時評のページです。

びーぐる時評

 
 
季刊「びーぐる」38号(特集=追悼・藤富保男)、その詩書時評に、敬愛する倉田比羽子さんが、ぼくの詩集『橋が言う』について書いてくださった。思索の分光器により内容が乱反射するような幻惑的な書法。そこにあるふくみをどうとらえるかで、集中をしいられた。さすがだとおもう。書かれてあるものの現下性、それから出来する脱全貌性こそが減喩の駆動力だ、とする倉田さんのご指摘は達見だ。しかもそれが祈祷性に変貌するのがぼくの詩の特質だとみておられるようだ。つまり、排中律と同時に、「ないこと」、その箇所が希求のしるしとなる欠落結節の法則とでもいおうか。これは潜勢力にかかわるアガンベンのかんがえに似ているのではないか。「隔絶が膚接している」。ぼくはもしかすると信仰者にちかいのかもしれない。以下、倉田さんを引用――
   
〔…〕「近接」的視点とは、モチーフをあえて持たない詩のありようを指すのではないかと、阿部嘉昭『橋が言う』(ミッドナイトプレス)に感じた。警句のようなことば綴りは、事象、物象を対象化せず、観察-内在化でつめよる、つめよる、時間を俯瞰しないことが守られている。とすればそれは触手の感覚に支えられていることであり、作者のいう「減喩」のことばの真意とは、そのことに通じるのではないだろうかと考える。その瞬間時間がながれる、風が吹きぬける、文字となった情景がただ立ちあがるだけだ。そのとき作者が持たざるをえない書くことの意欲のようなことの色気がそぎ落とされるはずなのだ、と勝手に読んだ。だからわかったような口ぶりで描写してはいけないのだ、人はなにごとも全貌など見えない生きものなのである。ただこうした一詩「八行」に形式づけたのは、なんらかの徴候からきているのか、あるいはことばの方向づけからくるリズム感覚がひそんでいるのか、どうか。〔※詩篇「空葬」全文引用〕。〔※詩篇「呪物」全文引用〕。――ああなにか、なんと人間の起源と終わりはものがなしいものかと知らされる。これはいや、祈りではないのか。
  
 

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2018年02月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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