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吉田大八・羊の木 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

吉田大八・羊の木のページです。

吉田大八・羊の木

 
 
【吉田大八監督『羊の木』】
 
講談社のコミック雑誌「イーブニング」に連載、現在は全五巻の単行本として完結している山上たつひこ原作、いがらしみきお作画の『羊の木』はつとに傑作のほまれがたかいが、不勉強の至りで、未読のままだった(山上『光る風』といがらし『Sink』に熱狂した経験のある自分としては超恥ずかしい)。その長大で枝葉末節に富む原作マンガをエッセンスだけ継承して大胆に換骨奪胎したというのが吉田大八監督の映画『羊の木』らしい(脚本は『クヒオ大佐』以来の香川まさひと——脚本成立にあたっては監督にして旧友の吉田と熾烈な応酬があったという)。
 
殺人を犯し服役していた囚人たちに、刑務所の経費節減と地方への人口流入のため、特例措置として早期出所、十年間の当地居住義務を課し(これが保護観察に当たる)、当地での社会復帰へとみちびくという国家の秘密プロジェクト(としるすと大袈裟だが)=フィクションが前提となる。映画では小規模ながら計六人の老若男女の服役囚が順に登場(登場人物が結集してくるさまは『七人の侍』に似ている)、それを「普通の」市役所職員が秘密でケアする成り行きとなる。もっとも登場者は相互を知らず、生業をあてがわれてのちは個々しずかに土地へ溶け込むことだけが期待されている。住民にも元殺人犯という履歴は秘密にされている。それがやがてある部分で瓦解してゆく、というのがいわば物語の大枠だ。
 
想像だが、刑務所服役者は「神」と間近に、もしくは「神」とともに生活している。自分の犯した罪に覚醒し、敬虔になるというのではない。施設の殺風景さ、いかめしさには、不可視のパノプティコンがひそみ、獄中の「同僚」がいても、孤独にさいなまれ、孤独が膚接することで自己表皮の下に「神」を模様のように蔓延させるのだ。「六人」のひとり、市川実日子が演ずる清美は、女子刑務所ではどんなにいがみあった服役者同士でも深夜になれば子ども会いたさ・夫会いたさですすり泣きが同調的にひびきあうと語る。「神」は空間に降りている。六人のひとり田中泯ふんする元ヤクザの「大野」には左の額から左の口の端にかけての余人を黙らせる刃傷痕がある。それもまた「神」の足跡といえるかもしれない。あるいは当地=魚深で理髪店の徒弟となる水澤紳吾ふんする福元は客の坊主刈りのやりかたから即座に店主の中村有志に、刑務所での理髪師免許取得を見抜かれる。身に着いた技術にも「神」が模様化されているのだった。
 
おどろくべき「顔の映画」だった。黒沢清監督との名コンビでも知られる芦澤明子の撮影は、複雑でもしかすると言語化すらできない俳優の内心を、生きた表情の揺曳として、「うつくしく」捕獲しつくす。すべてが俳優ではなく存在となる。そうすることで映画『羊の木』の人的構造といったものがみえてくる。イエスという人間にして神性をたずさえた者に仕え、みずからの卑劣さに反省をしいられ、イエスの昇天後その教えを伝播させようとした使徒たちが福音(書)の祖型だとすれば、この映画は服役時代の「神」を六人の使徒たちがどう解決するかを、孤独な相互離反状態で身をもってしるした希望の福音なのではないか。そのとき六人の偏差が、顔としてどう表れるかが作品の眼目となるのはとうぜんだろう。
 
庶民的なクリーニング業店主・安藤玉恵のもとで働く田中泯の風情については前述した。神に貫通された彼は寡黙さのもと、自らの風貌と老年の貫禄を怖がる顧客たちにただ耐えるが、やがては出自を告白する(彼は対立する暴力団の組長をワイアーで絞殺していた)。けれども告白を得たことで安藤が田中を「赦す」。結果、田中は服役時代の「神」と永遠共生する生の資格を得たといえる。それは水澤もおなじだ。彼は酒癖がわるく、勢いで自分と折り合いの悪い上司の喉をナイフで掻き切っていた。アル中の彼のフラッシュバック=大狼藉は作中、祭の最中の大テント内で描出されるが、じつは店主の中村有志も刑務所出身、理容師資格もそこで得た共通性をもち、暗示的ながらもこの映画が終わったあとの時制で、店主ともども刑務所時代からずっとつづいてゆく神との共存をわかちあうと予想される。
 
六人のうちのふたりの女性。優香ふんする理江子はかつて夫との性愛で快楽のための首絞めをもとめられ、勢いあまって相手を絞殺してしまった、阿部定まがいの愛の殉教徒のような経歴だった。彼女は魚深市では介護士となり老人たちの世話をするうちまたもや愛に殉教する。市役所職員として六人をケアするのは錦戸亮ふんする月末だが、こともあろうにその月末の父親・北見敏之と年齢差を超えた恋に落ちてしまうのだ。赤すぎる口紅、どこか古い母性を感じさせるメイクもあるが、豊満な胸元、北見との煽情的すぎるディープキス、歯磨き運動の背中から密着してのサポートにクラクラした。アラフォーになった優香が自分のもつ物質性に開眼している。それを「神」の基準で語りなおすとどうなるか。「神」は刑務所内部にいながら、同時に「愛」の徹底へと二分化されている。だから作品の六人中最も楽天的な元服役囚にみえる彼女は「神」の二重性に囲まれ窒息化する絶望状態を能動的に生きている感触となる。
 
清美にふんする市川実日子が、作品にアレゴリー変転をもたらす第一要因だった。彼女は恋人のアル中DVに耐え兼ね、衝動的に殺してしまった過去をもつ。なんでもなく内気で凡庸な女が刑務所暮らしをしてその身体に刻まれるのは快癒できない「世間との偏差」だろう。彼女が魚深市で就いた仕事が環境美化のための清掃スタッフだったが、仕事も要領を得ず、その静謐な風情に「流罪」「流謫」の色彩をくわえ聖性を漂わす。彼女はたぶん服役後、魚深に来てこそ、「神とともにいるようになった」。彼女がおこなうのは、清掃の裏で副産物として出現する小動物の「埋葬」だ。
 
この作品は「択一」にかかわるアレゴリーが中心となるが、それを最初に作中に刻むのは彼女だ。彼女は二尾の魚(むろん古代ではキリストの象徴だ)を買い、一尾を焼き魚として食用に付す。もう一尾、未調理の魚はそのまま住居の脇の土のなかに埋葬し、「二つ」を別様に分離するのだ。もっともそのように意義付けされた埋葬はこれだけで、彼女は清掃作業のたびにみつける小動物の死骸をその後は単純に埋葬しつづける。
 
あるとき彼女は樹木に食用・羊毛獲得用の「羊の実」の生る「羊の木」の絵(それは古い缶詰の蓋だ)を浜辺の清掃時に拾い、それを自宅玄関の裏側に飾って護符にしている。樹木は果実を生らす。けれどもときたま動物を生らす。二者択一ではあるのだが、後者は欲望や夢の領域にあることを、彼女が知らぬはずがない。ところが幼稚園児の前で轢死した亀を埋葬した彼女は、亀は死んでいない、その証拠に埋められたこの土から樹木が生え、亀は蘇ると託宣する。植物と動物の順序が逆転されても、植物と動物の輪廻=円環図式が温存されているのだから、彼女にはシャーマニックな位相が宿りつづけることになる。択一はやがて次元が上位化されれば円環につうじる——そう彼女は予感しているのではないか。それにしても市川実日子ほどそばかすが抒情的な女優はいない。これも「神」のこまかい瘢痕だろう。神は分布なのだ。それは秋の花園に似ている。
 
六人のうちただひとり悪相を露呈させている北村一輝ふんする杉山は、暴行傷害致死の罪状をもつ。釣り船屋で働きだしたものの趣味のカメラを手放さず、やがては六人のひとり、松田龍平ふんする宮腰を自分と同様の来訪者だと見抜く。彼だけが、たどり着いた者どうしの連絡を画策できる狡猾さをもちあわせている。なぜか。彼は市川実日子どうように服役中に「神」と同化できず(市川は前述のように服役後に同化した)、服役前の状態の倨傲、軽蔑を温存させているのだ。六人はいずれも地域民にとっては約分不能な他者の側面をもたざるをえないが、北村演ずる杉山は、服役者の更生不能性という、砂を噛むような一側面の現実をつきつける。神がいないことの殺伐がその身に集約されているが、彼はやがて罰を受けるだろう。
 
最後に説明ののこった松田龍平ふんする宮腰が、六人をべつべつに世話する錦戸亮ふんする市役所職員・月末とともに作品の肝となる。松田特有の無表情・無重力はこの作品では邪気のない親密性ともからみあい、月末=錦戸と、ほぼ「友だち」の交流をしるしづけることになる。宮腰の就いた仕事は宅配業者。「ブラック」な勤務状態にも(最初は)音をあげずにいるようにもみえる。ところが彼だけがほかの五人とちがい、「神」との遠近法が形成されない。彼は神に膚接されていないし、北村一輝のように神に反逆もしていない。となると彼自身が神なのではないかという悪い予感がしてくる。髪型はちがうし、髭もないが、イエスの色彩が漂う。
 
誰もが彼に惹かれるというわけではないが、彼はあっさり錦戸の想う昔のバンド仲間・文〔あや〕をものにしてしまう。『テオレマ』のテレンス・スタンプみたいだ。彼自身がアレゴリーのように二重化されている。だから何気ない生存に殉教の香りがする——表面的には、その無表情・無体温に「温順」がすこし加わってみえるだけなのだが。芦澤明子撮影という同条件もあり、松田は『散歩する侵略者』での面影をも漂わせてみえる。
 
聖画アレゴリーでは使徒の精密描写が必須となる——よって以上の解題があったのだが、すぐれた映画ならばそれがドライヤーの映画のように、あるいは黒沢清の映画のように、「運動アレゴリー」へと昇華しなければならない。その運動要素としてこの作品に猖獗するのが「数値」だった。数値はみやすい。まず魚深市にたどりつく元殺人犯の総数6。錦戸と同僚・細田善彦との2。優香と錦戸の父・北見との相愛成立による2と、それに困惑する息子・錦戸を加えた疑似的な関係の3。文=木村文乃の帰郷を機に錦戸が復活させるバンド員数の3(エレキギターが木村、ベースが錦戸、それにドラムスが松尾諭で、がらんどうの倉庫を練習場所に、三人のはじき出すぶっといノイズ音がなかなか良い)。3は即座に危うくなる。バンド練習に興味をもった松田龍平が練習を見学、員数は4になるが、その松田と木村が恋仲になって2が分離摘出されてしまう。それでも松田には錦戸との「友だち」の雰囲気がのこっていて2はほかにあるし(ふたりが相互の寝顔を順にみるうつくしい展開をおもいだそう)、北村一輝が松田龍平に悪の共同を使嗾するときにも怪しげな関係性の2が露呈してしまう。どうも作品の中心数値は2のようなのだ。
 
2は択一をそそのかす不安定な数値のはずだが、作品はそれを一方では救済する。田中泯の経歴が露呈したとき安藤玉恵はそれを赦し、2は存続する。同様の事態は、水澤紳吾、中村有志にもある。ところが2を安定性のなかに捉えようとする常識にたいし、真相に向けた反逆をおこなうのが松田龍平の宮腰なのだった。彼は恩讐の彼方からやってきた(少年時代に松田が犯した殺人の仇をとろうとする父親の)深水三章との2を認めない。悪を使嗾する北村一輝との2をもみとめない。その否認はほとんど自走的にみえる。そこから神性と凶悪、あるいは親密性と他者性を分離できない松田龍平の真のおそろしさ、不可解さが揺曳しだす。ただ2が安直に1に帰着するのにも彼は居心地の悪さをかんじているにちがいない。それで松田は神聖な択一を自らに降臨させようとして、その場に錦戸を引き込むことになる。つまり松田の命題は「2が正しく1になる方法」をめぐっていたとおぼしい。
 
利用されるのが作中のもうひとつの神、しかも土偶をおもわせる土俗的な土地の神「のろろ」だった。魚深には神話伝承がある。漁業で往年栄えていた魚深は海の邪神「のろろ」(「どろろ」と「のろい」を掛け合わせたような名だ)に悩まされていたが、やがてこれを調伏、漁の守護神として祀りあげた。ところが年に一度の祭では岸壁におわす「のろろ」像は人身御供を要求する。それで崖からふたりの若者が飛び込み、うちひとりを死なすという。二者択一の本源はそこにあった。本源に飛び込もうとすること、それが犠牲に関わることはイエスの磔刑にもつうじる。その本源への二者の飛び込み、その相手を松田は錦戸に見いだすのだ。その帰趨がどうなったのかはネタバレに属するので、しるすことができないが。ただし「のろろ」神じたいが祭の練り歩きの際その周囲の行列者たちすらみてはならない不可視性を体現しているのは特筆にあたいする。
 
これまで吉田大八作品で最も撮影が創意的だったのは『桐島、部活やめるってよ』だったとおもう。同時制を視点別に語りかえることで高校内部のスクールカースト状況をつづりだした同作は、高校の空間そのものがカースト状に連続組成されていて、それを視点ごとに抒情的にえぐりだした。その果てに「屋上」を最終召喚し、すべてを無カースト状態へと溶融せしめたのだった。『羊の木』はどうか。聖画アレゴリーとして開始された時間が、運動アレゴリーへと転進してゆくときの脱臼感がすべてかもしれない。運動形態は序破急。それで終盤ちかくになり、人身とクルマとの残酷な衝突が起こり、前述した松田龍平と錦戸亮との崖を舞台にしたクライマックスが起こる。ところが運動アレゴリーとは、そのものが映画のまぼろしではないのか。結果、予感的に観客の眼に灼きつくのが、海全体を前景にとらえたときの水平線上の蜃気楼となる(魚深市のロケーション撮影は魚津でおこなわれたのだ)。
 
けれどもこの作品で最もその表情に魅せられたのは錦戸亮のそれだった。戸惑いとつくり笑いでゆれながら、場面ごとに、あるいは場面内の時間ごとにニュアンスを変えてゆく、生きた表情。彼だけが本当に六人の他者を眼前にしてゆれている。選択された受動態とは、それが強固なら能動態になるということだ。あるいは「中動態」。そのなかで彼は松田龍平という神を否んだ。というか真の理解に達しないまま、なにかの奥行きだけを感知した。このときの彼の顔はたぶん鶏鳴までにイエスを三度否んだペテロに似ているはずだ。彼は嫉妬から、聖なる「友だち」の宮腰=松田が、自分の懸想する文=木村と恋仲となったと伝えられて、木村に松田の殺人服役の前史を暴露した。あるいは自分の父・北見に、優香の殺人服役の前史を漏らした。上司からの口止めをかんがえれば、これらのときの彼の顔はユダに似ているはずだ。
 
そのペテロ=ユダの決定的な顔が、あいまいにうごく中間性、しかもどこか愛着をよぶ顔としてとらえられているのが、吉田大八=撮影・芦澤明子の現在的な勝利をしるしているのではないか。この作品は「択一」というアレゴリーをめぐり、ペテロ=ユダから、不可能なキリストたちをみつめた福音(報告)だったということができる。しかし報告者に単調な苦悩はない。表情が生きているからだ。それは終盤、口パク状態で木村文乃が語る無音の「ラーメン」を、錦戸が「ラーメン」と読解できる「表情への信頼」とも表裏している。
 
択一のアレゴリー——「真の択一とはどんな決定性なのか」が機能するということは、人的関係ではだれもが2を出発点してしまうことと相即している。となればつよい余韻を放つのは「羊の木」とともにいる市川実日子だろう。彼女だけが1の清貧を通貫させていた。この作品、市川実日子を主体にすれば聖者映画に変貌する。松田龍平を主体にすればアレゴリーと殉教の映画、錦戸亮を主体にすればペテロ=ユダ映画になるように。もうひとつ、いうべきはこの作品には希望が漂っているという点だ。択一はすべてを「二分の一」にする熾烈な運動、暴力的な攪拌だ。ところが一部の動勢をのぞき静的な本作では、基数6は最終的には半数の3にならず4がのこってしまう。なぜこんなあいまいな演算なのか。こうかんがえよう——たとえば動物はそれぞれが整数だから半分にできる(村上昭夫の詩篇「ねずみ」のように)。ところが人間は無理数だから、実際は除算が困難なのだ——と。
 
——2月16日、ディノスシネマズ札幌にて鑑賞。
 
 

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2018年02月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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