齊藤工blank13
【齊藤工監督『blank13』】
俳優・斎藤工(クリエイター時の名義は「齊藤工」)が折り紙つきのシネフィルだというのは、その活動や自宅披露からよく知られた事実だろう(実際すでに短篇映画を撮っている)。その齊藤工が初の長篇映画を監督するとなれば、「映画知」を充満させたマニア受けする作品を撮るにちがいない――そう予想するひとも多いはずだ。けれどもちがった。『blank13』は普遍性を終始手放さず、しかも「清澄+少しの可笑しさ=焦点の正しさ」という図式を堅守している。画面のひかりがとりわけ清澄だ。終幕、一篇がもう終わる流れとなり、実際にあっさり終わる鮮やかさ。事前確認していなかったのだが、上映時間は70分にすぎなかった。このとき、なんとシャープな傑作なのだろうとふるえもきた。
贅言を要しない映画だ。作品は前半後半の二部構成。前半では弔問客を迎え入れる葬儀開始の様相に、13年間の「空白」前の故人への回想が以下のように織り込まれる。ギャンブルで借金を負う父親リリー・フランキーを軸に、金融屋の暴力的な取り立てに怯える妻・神野三鈴、幼い兄弟。兄が長じて斎藤工、弟が長じて高橋一生となる。貧しい文化住宅での暮らしだ。兄弟の性格偏差、その暗示が適確だ。年長であることでより世間常識や格差に目覚めた兄は、父を反面教師として勉学に打ち込み、おのれの不遇を遮断しようとする。弟のほうはまだ無邪気で、とりわけ父とは野球好きでつながっていて、父親に甲子園に連れていってもらったよろこびを学校で作文して褒められ、しかも父とするキャッチボールやバッティングフォームの確定では、父親からのたしかな実践指導もともなっている。
その父親が借金苦に耐え切れず、家族を捨てて単独失踪するはこびとなるのだが、取り立て屋の窓外からの怒号に、カレーの匂いをたてながら、明かりもつけず黙々と「居留守食事」をしていた一家(カレーの設定が抜群)は、取り立て屋の暴言暴行がおさまったのち、ふと転調の気配を迎える。煙草を買ってくる、と言うリリー。それを肯う神野。第六感が働いたのか、「お父さん、帰ってくるよね?」と母に確かめる弟。ところがリリーは卓上にまだ煙草が入っているハイライトと百円ライターをのこしていて、それで彼の失踪意志を観客は確認「させられてしまう」。科白のかわりに小道具があれば、映画はことば以外でさらに雄弁に語ることができるという好例だ(このハイライトはのちにも神野によって活用される)。
回想は現在シーンの細部を契機に開始されることが多いとはいえ、大袈裟ではなく恬淡かつ無媒介な転回であろうとする。その呼吸の良さに唸った。回想から現在時へ復帰する逆の場合も、するっと戻っている。回想が連打されるときの間歇的な時制加算も、枕ショット的な挿入を挟まずに淡々と進展してゆく。「時間の語り口」が熟達している。
借金返済のために神野がしいられる苦難。それが「夜の仕事のための出勤準備光景」→「自転車をつかっての新聞配達」→「息子たちとの内職」と連鎖される。あきらかにブレッソン『やさしい女』的なそっけなさだが、いったん提示されたそれらは運命的にシャッフルされる。「新聞配達時の坂道降下での自動車との衝突」→「配達の遅れを気にして運転手からの病院行き提案を固辞」→「ふたたび夜の仕事への出勤準備光景」→「それまでみえてなかった事故ダメージが露呈する(顔の左側に傷跡と打撲痕、唇にも黒く痛ましい腫れ)」→「その唇に母親は痛みを堪えて口紅を塗ろうとする」。つまり最終的に定着されるのは、中年の坂に達した魅力の乏しい唇の、惨禍の物質性なのだった。
ただし映画を観ていて、ずっと意識したのはブレッソンではなくクリント・イーストウッドだった。俳優が監督して俳優を撮る――このときに「俳優内在主義」が正義のように機能する点から共通項がうかびあがるのだ。俳優それぞれが適材適所なのはいうまでもない。それどころかかならず「役得」をあたえ、たとえそれが惨めな役柄でも悪役でも「出演(その身体性)がみられてよかった」という印象を観客に刻むのだ。乱暴な取り立て屋だった波岡一喜でさえ、リリーの葬儀に来て、なかには入らずに玄関口で死者に手を合わせさせる徹底ぶり。
齊藤の演出は、俳優の空気をその身体を起源に定着することに眼目がある。だから、長回しを多用、台本どおりの科白発声ではなく、自分のことばでの言い直しを奨励する。結果、構文としては不正確な科白がみちることになるが、それが長回しの持続性と相まって、俳優の生理をつたえることになる。
それと立ち位置の指定の適確さ。いちばん得をしたのが高橋一生だろう。癌で余命三か月と知らせの入った父親の見舞いに行くか、それで久々に文化住宅の実家で家族会議がひらかれる。議題のわりにうちとけたようすだが、母と息子ふたりが必要最低限にしか会ってないことが間接的につたわり、兄の斎藤工が母親への生活費補助を義務的にきちんと履行しているだけの「よそよそしさ」も滲んで、失踪した父がいかに一家に傷をあたえたかがその居住まいの隙間から実感されてくる。このとき神野と斎藤の距離よりも離れて、窓辺にぽつんといる高橋の位置取りが、世界への「居所のなさ」として胸を打つ。
高橋の対象との距離化は、恋人・松岡茉優の意見を容れ、父親を見舞いに行き、病院の屋上で「旧交を温めようとして」「ぎこちなくうまくゆかず」「煙草のやりとりだけをする」ときの高橋の父親にたいする空間的距離の置きかた(彼は煙草のやりとりで一旦は父親の至近に来ても即座に巧みに離れる)で完成される。このときの円満にいたらない空気の伝達のためにこそ、長回しが使用されたのだった。
この映画は「火葬」の何たるかを辞書的定義でつたえる字幕から開始される。そういえばイーストウッドの傑作『許されざる者』は巻頭巻末ふたつの字幕によって作中時間全体を挟み込んだ。巻頭がウィリアム・マニーと妻の出会いの経緯とふたりの生活の伝達。巻末が異様な暴力の発達により敵一味を殲滅したのちのマニーとその一族の顛末の叙述。このふたつの字幕は作品全体の昂奮とは別地点で、それよりもふかい圧縮を介されて観客を泣かせたものだ。『blank13』の冒頭字幕は、火葬の実相をただ客観的につたえるというだけで、たとえばパリの売春の実相を語るゴダール『女と男のいる舗道』での「説明」にちかい。ところがその火葬の実相が黒味のうえの白抜き文字でつたえられたあと、棺桶と亡骸を燃やす火勢調節の裏舞台が映し出され、焔が導入されると、生の痕跡が炎上することの散文的な物質性がわきあがってくる。
死者は他人のために炎えるのではない。おのれの範囲で、おのれ自身を厳正に炎えるのだ(これが作品の終幕にも転写される)。もしかするとここには、『湯を沸かすほどの熱い愛』の出鱈目な結末への批判があるのではないか。死者宮沢りえと死者リリー・フランキー。焔によって生前がむなしいほどに、しかも感涙すらなく厳粛に立体化されるのは、あきらかに後者のほうだろう。
このことが作品後半にかかわっている。実際に坊主の読経がはじまり、乏しい会葬者がぱらばらに隙間をあけて座る葬儀が開始されている。ぐうぜんおなじ「松田家」の豪華な葬儀が空間隣接して挙行されていて、その対照性が奏効している(こちらにも脚本はのち、相応のオチを用意する)。好きでもない者の葬儀に気乗りしないで立ち会う、斎藤工、高橋一生の兄弟にたいし、坊主が越権で死者の思い出を列席者に語るよう促し、トップを切った佐藤二朗が調子に乗って司会役へ自然と昇格するあたりから異調が兆してゆく。
老齢で足元も危うい緒本順吉、モノトーンの衣裳なのをいいことに喫茶店のコスチュームで葬儀に立ち寄った伊藤沙莉、正体不明な村上淳、存在それじたいからもどかしさとヴァルネラビリティを誘発する神戸浩、侘しい女装、観ようによっては黒でドレッシーにキメた川瀬陽太、眼帯をして暗くヤバい自閉を放散する大水洋介、突然乱入してきて焼香の礼儀もしらないくっきー…。以上、順不同だが、列席者の故人にまつわる述懐は、みな不器用で要領を得ず、しかもそこから個人への愛着があふれだして、その意外な成り行きに喪主兄弟は内心、驚愕をしいられることになる。
話柄はみなショボい。リリーが生前、カラオケで声域が合わないのにテレサ・テンの「つぐない」を歌いたがったこと。包みに入れた紙屑が野球のボールに変わるマジックを習いたがっていたこと。友人にカネを持ち逃げされたオカマをかくまい、その病気の母親の面倒もみたこと。スポーツ紙のエロコラムを律儀にスクラップしていて、それが尊敬にあたいしたこと。息子の書いた往年の作文を宝物のように抱えつづけていたこと。霊感商法と知りながら、50万円もする数珠の購入費を出してやったこと。
共通するのは「共苦」と「義侠心」、それと後先の計算の立たない「無定見」「無償」という点だろうか。映画は前半最後にそれまで語られたことの「記憶」を自らフラッシュ反芻して、とりわけ子役をふくめた高橋一生=コウジの受苦を複雑に結晶化していたが(その編集は見事だった)、「受苦」と「共苦」の根本的な方向性のちがいを、会葬者たちは問わず語りにえぐりつくした恰好となる。斎藤工、とりわけ高橋一生に迫るものがあったのは当然だろう。
もんだいは、それら会葬者の語りの多くが、台本の科白から離れる即興性により、不恰好ながらに、いや、不恰好ゆえに、ごつごつした真情をつたえたことで、これこそが俳優主義のこの映画での独創だったのではないか。つまりイーストウッド『ハドソン川の奇跡』終幕の、機長-副機長-女性調査員によるフランク・キャプラ的に鮮やかな決定性をもつ科白のやりとりを禁欲したのだった。なぜか。
説明するのはむずかしい。ともあれ、さんざん家族に迷惑をかけた死者が意外や善人ならではの共感誘発性をもっていたという暴露性から作劇は微妙に外れたい。それは以下のような哲学に拠っている。たとえば「今年の牡丹は(いつでも)よい牡丹」という言い方があるが、「今日の死者は(いつでも)よい死者」というこの世の擬制を信頼しきること。その擬制のために、かぼそくひよわなリリー・フランキーのおもかげが、会葬者たちのボロさが、そして高橋一生のもどかしい返礼と、喪主挨拶を抜け出して葬儀場ちかくにうずくまる斎藤工のすがたのさみしさが動員されたのだ。胸がうずいた。死ぬことが哲学されているのだ。
伊藤沙莉の不意の登場にもうれしくなった。遺族席にいた松岡茉優と連動して、少し前のテレ東の深夜モキュメンタリー『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』を想起せざるをえないためだ。斎藤工は本人役で、その番組に映画鑑賞環境に「こだわる」達人=変人として、松岡・伊藤の訪問を受けていた。この一班から推し量れるとおり、この作品の映画的「適材適所」「素材主義」には俳優・斎藤工の映画知のみならず、実際の人脈も活用されている。おなじことが原作のはしもとこうじ、脚本の西条みつとしにもいえる。どちらも新進の放送作家で、たぶんお笑いの分野に興味のある斎藤と、つきあいがあったとおぼしい。
――3月7日、ディノスシネマズ札幌にて9時55分の回を鑑賞。高橋一生ファンだろう中年女性が大挙押しかけていた。