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ネット上のニヒリズムについて ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ネット上のニヒリズムについてのページです。

ネット上のニヒリズムについて

 
四泊五日で湯治にいってきた。
といっても躯が悪いのは僕のほうではなく
五十肩で連夜「痛い、痛い」といっている女房のほう。
場所は、松本と上田の中間にある鹿教湯(かけゆ)温泉で
古くから湯治場として知られたところだ。

療養病院、リハビリ施設なども温泉街に完備されていて
もともと地味な町並みに老人湯治客が多く
それでいやましに印象も地味にもなる。
およそそんな場所なので、お湯に入ったり昼寝する以外は
ひたすら女房と黙々、読書の日々だった。
自分でもびっくりするほど本を読めた。
高地ということで期待された涼しさは空振りだったが。

昨夜、帰宅してパソコンを開く。
数日家を空けると受信トレイが迷惑メールで
爆発していないかがいつも心配となる。
爆発はなかったが迷惑メールが4日でほぼ400。
ひたすら消去する。
この時間ロスが意外に大きい。

これほどまでにこの手のものがふえたのは
僕がエッチサイトをパソコン購入の初期段階で覗き見した以上に
女房がこのパソコンで海外と通信するため。
だから迷惑メールの大部分も
バイアグラとかローレックスのまがいもの紹介とかの関係となる。

この迷惑メールの着実な数量的拡大に暗澹とする。
これはたぶん迷惑メール排除の思想・技術が
グーグルの理想形から離れてゆくことを示唆しているからだ。

新技術に細菌的なノイズが仕組まれるようになったのは
資本主義停滞の宿命かもしれない。
経済向上→人件費上昇→競争激化→
新技術成立(たとえば冷凍技術、輸送技術、海外生産技術)→
第一の悪(たとえば偽装)→
第二の悪(たとえば人件費や労働条件の非人間的悪化)
→経済下降(企業の社会性の放棄)

「中心」資本がこのような悪循環に喘ぐなかを
ゲリラ的な小資本(ならずもの資本)はネット的利便性を悪用して
世界中に一日億単位のメールを送付する。
これがダイレクトメールならば郵送費だけで潰れるところが
無償と利便性と広告効果に釣り合いをもたせようとした
ネット社会ではそうはならない。
スパム排除のあいだをくぐって、
今後もこの手の「悪広告」は増大を続けてゆくだろう。

数万分の一の成功確率のために億単位の悪広告メールが
全世界に自動的に送信され、
個々人の受信トレイから明視性が刻々奪われてゆく。
これが現在のネット社会の象徴的光景だ。
事は外部ブログでも同じで
僕も連日、スパム書き込みの除去をおこなっている。

グーグルメールは個人アドレスではなく
グーグルサイトのなかに
個人がメール受付のアイデンティティをもつという発想だ。
グーグルは約束する。
語句検索を機械的にかけてそこからスパムを自動的に排除する見返りに
「あなた」の属性に合わせ役立つ広告メールを
「あなた」宛てにじかに、
あるいは「あなた」へのメールの余白に入れさせてください、と。

さらにはブログライターの報酬の多寡は
「あなたの」商品紹介ブログにしめされた商品説明アドレスに
どれくらいのクリックがなされるかで決定します、と。
個人発信の情報が親和的で正しいと誰が決めたのだろう。
それは個人ではなく、
個人が抽象的な広告主体になった逆転にしかすぎない。

ユビキタス社会において
たとえばケータイ所有者の行動の刻々に
ケータイの空間ナヴィゲータ機能と連動して
広告メールが入ってきたらどうなるのか。
悲観論者はいう、人間の行動選択の自由が奪われる、と
(鈴木謙介らの視点:
欲望は管理されつつ恣意的に再創造されるということ)。

経験則的にいうとこれは間違いだろうと誰もが気づく。
僕が迷惑メールの消去という味気ない作業をつづけたように
多くのひとも自分の生活範囲外から来た情報をただ無視し、
それらが記載容量を超えるようなら
消去という防御策をとるしか道がない。

問題なのはそうした日常が決定することで
疲弊による情報遮断も増強するということだ。
新聞を読まない者、TVを観ない者、
音楽聴取にiPOD以外の手段をとらなくなった者、
本屋に行かず、本屋で本すら探しだす技術を失った者・・
そうして結局は、自身が自分を温存できる狭い空間のみに入りこみ
「外」を遮断してしまう。
タコツボ化は情報過多に対抗する要件となってしまっている。
おたく、腐女子の個人的属性に帰するものではないのだった。

たとえばmixi日記は誰にでも記載できるような日記を書いて
空虚な賛同を書き込み欄で得てゆくか
情報タコツボ化の露わな日記を書いて
他者排除を自省せずに選別効果を反響で確認するかに傾斜しだす。
ミクシィをオピニオンの形成の道具とする発想は
韓国にならあるが日本にはない。
日本のミクシィ日記のすべてに近い割合が
「ナルシシズムがナルシシズムに反射する」論法に則って
書かれてしまっている。

こういうのもむろん広告資本の手つきだが、
それを個人がなぞる倒錯があるということだ
(事態は自発的なバンド音楽が
音楽資本が定式化した「売れ線」をなぞることと似る)。
その一方で情報過多を遮断する振舞もふえていて
結果、このダブルバインドがニヒリズム、
もしくは統合失調をもたらす動きに直結している。

秋葉原の無差別殺傷事件では自分の生を無価値と信じ、
周辺状況もたぶんそれを支持した者の、
ケータイ掲示板への書き込みのありかたが社会問題となった。
ケータイへ自ら書き込んだ呪詛がさらに自分の行動を呪縛し、
絶対悪への境域へと当事者の行動を促進してしまうと。
ただこれは半分本当だが半分は嘘だ。
彼は自分の決死の書き込みにたいし
有効的な書き込みがなかった点で追いつめられたにすぎない。
空疎が切られた。だから自らが空疎となり無関係者を切った。
そこには彼独自の歪んだ応報意識がある。

聖戦による死者が死者の数にカウントされないのは常だが、
彼のように倫理神をあらかじめもてない者には
悲劇を創造する資格などは一切ない。
あんな低劣な思考しかできない者に
同調を表明した若い世代のネット利用者も不愉快だが、
事を経済格差社会、蹉跌者の社会的なリカバリー不能に結びつけて
得々と解説をおこなった者もどうかしていた。

ネット上のニヒリズムを社会空間的に「翻訳」すると
あの事件のような「型」が即座に生まれる。
犯人がトラックで秋葉原の歩行者をなぎ倒したあと
クルマを下りてさらなる凶行に及んだとき
奇怪な叫び声をあげつづけていたというが
それはネットという想像空間を眼前の現実に翻訳した無理無体が
身体に強要した抵抗圧から出てきた叫びだろう。
強度をもって秋葉原にいるのに
同時に現実的には秋葉原に存在できなかった者の悲劇。
想像が災厄のかたちにしか現実化できない者の、
躯が感知しない想像レベルでの痛覚。

読まれるべくあるものが
正当性をもって読まれないこと。
世界はひとつの書物に収斂すべきだったのに
グーテンベルクの印刷発明以来
一世紀もたたぬうちにヨーロッパでは数万種の書物が登場した。
ただ当初それは砂漠を潤す慈雨だった。
それがやがては個別差・分節性すら定かでない
単なる情報洪水へと性格を変じはじめてしまう
(商品とはすべてラベルへと還元されるしかないものだ)。
秋葉原事件の犯人は個人としてそのサイクルに入った。
こういう錯誤を資本主義の特有性とせず
彼自身は「有名になるために画期的な事件を起こす」衝動を
自分が組織しつつあると思い込んだ。
致命的な思考力の弱さ。

しかもマスコミは彼の実名を事件報道で露出しまくり
結果的に彼に有名願望の成就という「褒美」をあたえてしまう。
マスコミにも罪を批判するという倫理神が欠乏している。
視聴者の「知りたい」欲望にこたえる義務がある、
云々が用意される弁明だろう。
だが彼らは再発防止のセキュリティを考える国家の根幹と
境を接している情報資本の寡占体という自覚に薄い。

しかしあの犯人のメール文の垂れ流し報道は
付帯効果をたしかにわずかながら持った。
あの下品な自己卑下と疎外感・不安感の吐露とでは
正統な書き込みがそれ自体、準備されないだろうということだ。
「お前の人生なんて知らないよ。
いま考えていることを言え」という切迫性が
冷静な書き込みの要件で、
それが犯人の有機的吐露をもさらに呼ぶ要件となるだろうが、
犯人は思考力の弱さにより、
このような切迫性を誤解しつづけたのだった。

人が個人ブログよりもSNSを重宝するのは
その書き込みがされやすい環境のゆえだろう。
ただ正当な書き込みは日記の記載者を疎外に追い込むことも多い。
この自己抑制意識からたとえばミクシィが空疎な社交場となり、
結果的にひそかなニヒリズムが育成されてゆく。

たぶん韓国型のオピニオンの自由飛翔は無理だ。
僕がそこでおもうのは、前言した個別性・分別性の定まらなさを
「切迫意識」だけをトッコに逆用することだ。
ひとりの日記は、その書き込みによって「共同制作」となり、
ひとりの日記が個別性を喪失し、
無個性な質ではなく、分節できない量となってゆく。
しかもそれを促すのは「死にたい」という虚言ではなく
社会認識のなかに鉛を下ろした切迫性だけなのではないか。

ネット詩誌にもとめられる「共同性」もまた
こうした認識から類推できるものだ。
ネットが何かを考えない者に
ネット詩誌を構想する資格などない
(それにしても詩人たちの何というネット考察の脆弱さだろう)。

ネット上の悪広告のような虚数ではなく
無名ながらも実質的な数となるように
ネット上の言説が再組織されること。
ここで秋葉原事件の犯人が陥っていた
「他者への技術のなさ」が徹底的に糾弾されなくてはならない。

事態は意外に単純なのだがしかし実行は難しい。
たとえば僕はこのミクシィでの言説行使のなかで
たった千人、絶対に僕の新刊を出れば必ず買うという保証をとりつければ
現在の出版事情からいって
評論集も詩集も難なく出せるのだが、
このこと自体がすでにままならない。

そういうことで、今度は現在的「数」についての所見を
ヒマができたときにでも綴ってみようかとおもう。
 

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2008年07月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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