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視線について ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

視線についてのページです。

視線について

 
AからBもある。
CからDもある。
――視線の話だ。
しかも視線では人から人へのみならず
動物から人へ、物から人へなど
多様な方向・線も考えられる。

仮定的に無限な視覚(それが世界の内容ということだ)を
自己の感覚器官によって「縮減」し、
世界像を自分の身体基準で取り込むのが
人間の感覚だとベルクソンは強調する。

しかし「縮減」のない
万能・全方向の視線は技術により実現が可能になった。

いっときの吉本隆明が語った「世界視線」は
ランドサットによる地表映像、
それにニアデス体験者が離魂して
自分の臨死病躯を
俯瞰視線で捉えたという共通体験とから導かれた。
その次に対象の実在性・それとの距離すら介在しないCGが
造型に内在させている視線の無限性を示唆した。

視線の無方向性蔓延という事態は
直接身体的ではないという難詰を
発想力に富む吉本はあらかじめ封印している。

たとえば風景。
風景はもはや
人一個の身体を基軸にして捉えられるものではなく、
現代都市なら想像が無方向に蔓延した
動きやまない立体運動として捉えられるものだ
――精確に『ハイ・イメージ論』を引用すれば
もっと吉本の詩的な修辞にも出会えるだろうが、
(書評以外は
書物を開いて文を書かないというのが
僕が自身に課したミクシィでの自己原則なので)
吉本の意見は要約するとこの近似値になると
おもっていただければいい。

一元的世界像の否定。
「重層的非決定」などの用語もこの範疇に当然入る。

吉本は七十年代終わりから
「〇〇的現在」という言い方を量産した。
詩を書く者にとってとりわけ大事だったのが
『戦後詩史論』に収められた「修辞的現在」だったろう。
戦後詩的モチーフを失った日本の詩においては
詩篇個々の差異は修辞にしかもとめられなくなったという、
それ自体は正当な認識だ(これもここで略言している)。

廿楽順治さんなどはこの吉本の画期的視界によって
石原吉郎と荒川洋治が「同列」に――
言い方を変えればフラットに――論じられたのを
同時代的に接し本当に衝撃を受けた、と述懐していた。
無論いまなら人は、
山口晃とダ=ヴィンチをフラットに論じられるし
モーツァルトとパーカーとザッパをも同様に語りうる。

こういう認知状況の変容を確定するために
永江朗などはインタビュー集『スーパーフラットの時代』を
著したのだろう。

しかし無時間的多様性は吉本的倫理でいうと
かならずしも善ではない。
そうした眺望は必然的に「無」に似る、という認識をもつはずだ。
ましてや、吉本が「世界視線」をいう傍らでは
フランシス・フクヤマなどが「歴史の終焉」を言い出していた。

ちょっと文意が飛んだが、
ランドサット的俯瞰視線から地上をフラットに見うる時代というのは
歴史の内在進展を必要としなくなったということだ。
芭蕉と永田耕衣、ビートルズと椎名林檎などが
進展的二項ではなく隣在的二項として語られていい根拠となる。

こういうのがポストモダンのありようだと胡坐をかくと
では資本主義の終焉にたいし
物事がどう弁証法的に進展してゆくかの想像力が鍛えられない。

僕がおもうにしかし吉本が九十年代に出しかけていた方法論とは
脱弁証法的なそれだったのではないか。
名著『母型論』では胎児の発生、喃語から言語への分離などで
『言語美』に先祖帰りして「自己表出性」が
どうも記述のモデルになっているようにおもう。

吉本は往年の『初期歌謡論』では
古事記の歴史記載部分と歌謡記載部分を分離した。
その歴史記載部分に特殊日本性ではなくアジア的共通性があり、
なおかつ、歌謡部分の抒情は叙事に無限に先行する
――従って国家よりも抒情が根源的であるという認知に届いた。

この根源と「自己表出」が同体と考えないと
吉本の倫理性を見誤ることになると僕はおもう。
このごろはずっと吉本(関連)の著作を旅先までふくめて読んでいて、
吉本は実は幸福論の評論家なのではないかと考えるようになった。
拒否・糾弾の思想家というラベルはとっくに剥がれている。
ついで明視の思索者というだけでも平板という判定が出ているだろう。



吉本は近著『日本語のゆくえ』で、
現代詩の作者すべてが「無」だと定義した。
詩壇の多くは「衝撃」を演じたが、健忘症というものだ。
これは「修辞的現在」での彼の揚言の単純延長にすぎない。

問題はなぜ「無」か――その後の吉本の思考にある。
稀用語彙をつかい他者に向けて書かれていない閉塞性、
イメージ形成の放棄――そんなのはどうでもいい。
吉本が例示として語った、神話創造力と自然の不在のほうが
僕は事態としては大きいのではないかとおもう。
詩が内在すべき本来の自己表出が
詩作者の実在性が弱まり機能していないということだ。
それでたとえば「自然」までがその詩から消える、と。
気をつけよう――自然は例示だ。

吉本が「無」と定義した(若手)現代詩人には
廿楽順治さん、小川三郎さん、杉本真維子さんなど
僕が敬愛する知己がたくさんいる。
たとえばこの三人を一律に並べ無差異に「無」と断じる点に
とうぜん問題もあるのだが、
それよりも視像の形成力を放棄することで
彼らの詩に聴像が新たに成立していないか、
この考察を怠った点にさらなる問題があるだろう。

視像的無差異と聴像的差異のせめぎあい
――そこで生じる個性差。
あるいは現在の詩はそこで差異の豊饒を
保っているかもしれないのだった。
個人性の枠組のなかに沈潜しきっているとはいえ、
この「個人」が時代の要請により溶融しかかっていると
肯定的に捉えることもできる。
『日本語のゆくえ』の吉本にはたしかに
そんな動体視力が欠落していた。

「無」断定を
『ハイ・イメージ論』の吉本にまで引き戻してみよう。
吉本は永江朗が悪訳したような
スーパーフラット時代の到来という認知を
ギリギリでは回避し、
しかし身体を基盤にした縮減的認知だけでは、
無方向に蔓延している視線立体としての現在を捉えられない、
だから新たな認知基準が要ると語っただけだった。

視線にはたしかに
機械的拡張がなければ一定の方向性がある。
しかし聴覚は無方向だ。
左右上下からの音を耳は難なく聴く。
これはしかし耳の自在性ではなく、「耳の盲目性」による。
現在の詩は、たぶんこの方向に傾斜しだしていて
これが時代的要請なのではないかと僕はおもう。
詩は起源に立ち帰り万能性を放棄しだしている。

「世界視線」という概念装置を
「無」断定に短絡直結させるように
吉本の『日本語のゆくえ』が動いたとすれば、
それは吉本のために遺憾だということだ。
聴像はあらかじめ「世界視線」的だった。
そこでは盲目と明視の弁別すら不可能になる。

僕の考えでは資本主義の終焉では
物事は弁証法的な発動をしてゆかず、
「自己表出」的な発動をしてゆくのではないかとおもう。
吉本『母型論』の先見性もそこにある。
この先見性を吉本は『日本語のゆくえ』に接続すればよかった。

いや、視線そのものにだって盲目性と明視性の
弁別不能が予定されていると考えるべきではないか。

ベンヤミンは書いた。
ひとつの眼差しは見返されることを期待する実質である、云々。
この言葉を噛み締めれば僕のしるしたこともわかるだろう。



以上は今月末〆切の『詩と思想』の原稿、
その思考メモとして書きました。
書くべき原稿は編集部の要請で
もっと「無」=ゼロに傾斜しなければならないのです。
 

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2008年07月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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