瀬々敬久・友罪 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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瀬々敬久・友罪

 
 
【瀬々敬久監督・脚本『友罪』】
 
そうか、去年は「酒鬼薔薇聖斗」による神戸連続児童殺傷事件の20周年だったんだ…。「犯罪」と「少年」と「地域」、それぞれへの意識を崩壊させたこの事件は、猟奇的な着眼などを超えて、なにか致命的な楔を、日本の精神風土に打ち込んだ。当事者を超える当事者性。この内包と外延の同時性によって、たとえ「少年A」がその後どのように往年の自身を述懐しようとも、それすら僭越と映る特異点を、国民の記憶のなかに形成した。滅多にない禁域といえる。
 
少年にして連続殺人を犯した者は、捕まれば匿名性の庇護を受け、更生作業を経て、やがて社会へ放生される。予想されるのは罪意識の支配から、その者は生の着地点を見いだせないまま、無重力状態で彷徨をくりかえす、ということだろう。ひとの現在は過去の蓄積を土台にしながら、「しかも」現在と過去は絶縁されている。そうした「モデル」に虚構のカメラを向けると、「映っている」そのことが顕在と内出血、それら双方の様相を混濁させるのではないか。この把握は映画的欲望の一種だ。たとえばありえないことだが――ポン・ジュノの『殺人の追憶』の続篇で、カメラが「犯人」を定着したら、どうなるだろう、などと。
 
瀬々敬久監督『友罪』は「少年A」の17年後の現在として、瑛太を配剤する(彼の過去の犯罪実態は映画中表現されるが、実際の神戸連続児童殺傷事件とは手法、土地の選択などで絶妙なアナロジーをしるされる)。瑛太は瀬々監督自身の『64』での活躍もあったが、ここで共通するのは大森立嗣監督『光』での「存在論的」な好演だろう。瑛太は主に町工場の同期見習い入社の生田斗真の主観によって観察される。その生田にも過去のトラウマがある。自分の逃避によって親友の自殺を導いた悔恨が支配していて、それが一旦は評価されていた週刊誌ライターの職までなげうたせたのだ。生田がいう、失った親友の面影が瑛太にある、と。瑛太は訊ねる、ぼくが死んだら哀しいかと。哀しいと応える生田。その存在肯定により、当初、同僚の誰とも交情をしめさなかった瑛太が親密化してくる。
 
ところが瑛太の凄さは、他の俳優が「説明されること」を辞さないのにたいし、「カメラとカットによる説明」が「説明」そのものを超出して、その存在の輪郭にそれじたいの余白をのこしてしまうことだ。瑛太は偶然知り合った夏帆と付き合う仲になるが、夏帆のストーカー忍成修吾に無抵抗のまま二度殴られ続ける。寮をおなじくする先輩同僚の奥野瑛太にも同様だ。捨身〔しゃしん〕意識があらわなのだが、それが精神性ではなく物質的鈍さのみを発散しつづける徹底。つまり本当の捨身だ。いろんな属性も現れる。カラオケではレパートリーがない。ところが人口に膾炙したアニソンなら唄える。デッサン能力が抜群。発語はつねにもどかしい。死にたがっている。それでも「生きたい」(生存続の本能から身体が離れられない)と述懐する。彼が最終的にみせる表情が奇怪だ。涕泣直前(困惑)と笑い、それらの二極をゆっくりと往還する、自体性を欠いた表情筋運動を長きにわたり刻印するのだ。
 
瑛太が確立したものは、換言すれば「中間性」だろう。罪意識の身体的残存は、ひとのからだを廃墟化するというより、熾烈に中間化する――瑛太は自分の身体を媒介に、そう洞察したのではないか。中間性の「うすさ」に深甚さが同居するとき、存在は結像可能なのかという命題が到来する。その点で瑛太はたぶんその役柄の少年時の像とともに、シリアルキラーの属性を継続させているといえる。この点に気づかなくてはならない。
 
監督瀬々敬久はそのような不可能的可能態として瑛太を作中に開放している。むろん「少年Aのその後」は瀬々の犯罪叙事詩大作『ヘヴンズ ストーリー』では上述の忍成修吾が哀しい疎外態として担った。『ヘヴンズ ストーリー』は空や廃墟や草原や海に向けられたゆれるロングショットから、アレゴリーを探り当てる。遠景人物は当事者性を超え、意味把握不能の普遍を「リズム」として反復するのだ。そうした『ヘヴンズ ストーリー』的な土台を近景化し、「説明」をほどこした叙述的(つまり詩的でない)映画が、この『友罪』だろう。俳優のバストショットが頻出し、それらはすべて感情を湛え、存在自体がストーリー文脈によって説明されてしまう。
 
過去にあった犯罪あるいは悔恨によって、存在が息絶え絶えになっているのは瑛太だけではない。生田斗真については前述した。自分の息子が犯した殺人によって一家を「解散」、いまはタクシー運転手を実直に勤めあげる佐藤浩市もいる(それで当初、佐藤が瑛太の実父ではないかとサスペンスが生ずる――ただし息子の犯罪が自動車の無謀運転により児童を三人死なせたと落着するにおよびサスペンスが解かれる――佐藤はドラマの中心人物たちを二度運ぶ――はじめは生田の元恋人にして週刊誌編集者の山本美月を、生田たちの近隣地で起こった児童殺人事件の現場へと――つぎが疲労困憊のあまり工場の機械作業で自分の指を切断してしまった生田を病院へと)。あるいは瀬々『最低。』よろしく実家いやさに上京して忍成の毒牙にかかり、AV出演に導かれたあと、それをネタにつきまとわれている夏帆も、近過去が凄絶なトラウマとなっている。つまり過去的災禍に窒息している人物たちが配剤されすぎていて、映画は「説明重畳」によりシャープさを減殺させているのだった。この弱点が抒情性をこのむ瀬々ならではのラストシーンへと接続されてゆく。
 
大作『64』で大量の有名俳優を捌ききった瀬々は本作でも同様の豪華なキャスティングで映画の進展を差配している。改めて俳優名をしるそう。生田斗真、瑛太、夏帆、小市慢太郎、坂井真紀、村上淳●、西田尚美、片岡礼子、大西信満、宇野祥平、渡辺真起子、光石研、忍成修吾●、矢島健一、青木崇高、古舘寛治、山本美月、富田靖子、佐藤浩市●。三つの●が『ヘヴンズ ストーリー』とのキャスティング共通項だが、効果は絶大だ。『ヘヴンズ ストーリー』のパズルピースの組み換えによって新たに生じた画柄が『友罪』ともいえるからだ。鍋島淳裕のカメラはすばらしい。『ヘヴンズ ストーリー』とは対象は異なるが、埼玉と設定される風景の「棄景性」(丸田祥三)をみごとに展開しているのだ。とりわけ町工場と工員寮の描写に唸った。鉤型の工員寮の二階から一階の共有スペースの縁先を俯瞰するポジションが卓越していた。
 
佐藤浩市のシチュエーションを切れば、映画はより先鋭化され、説明から、説明を超えたアレゴリー(つまりなぞらえられるBが不明のまま二重化された感触のあるAの現前が起こる)に到達したかもしれない。不気味なものを面前にしたとき、鏡像関係のなにが試されるのか、ということだ。葛藤だけが現象するのでは足りないだろう。シンクロが、記憶の混乱が、評価軸の揺動が、バラバラの手足のようになければならないのだ。佐藤浩市を中心とする一族群像を薬丸岳の原作から離れ、終始傍らに置くことで、たしかに映画は点在感をましている。だがほんとうの散乱の源泉は、さほど明示されないが、瑛太の役柄が少年期におかした殺人、その死体が分離されたことにあるだろう。ところがその瑛太が長じて、工場事故で指を切断した生田の、その指を皆が動顛する現場から拾いあげ、氷水を入れたビニール袋に入れ、生田の指の再接続に貢献したのだ。バラバラの回収。つまりここでは、イシスとオシリスが二重焼きにされている。なにかの循環法則のように。
 
「説明」次元では以上のようになるのだが、実際の生田の事故の場面で、瑛太は上のようなことばに回収される演技などしていない。中間性の指摘でも感じられただろうが、回収されることを拒む演技を瑛太は貫徹している。瑛太が生田の事故に気づき、切断されたその指を拾いあげるまでどんな「バラバラな」表情を連続させたのかは、劇場でぜひ確認してほしい。もっとも感銘したディテールだった。
 
――5月25日より全国ロードショー(4月20日、プラザ2.5の札幌試写にて鑑賞)。書き落としたが、夏帆の顔や肩の物質性をとらえるアップショット(そのきわみは自室ドア前の瑛太とのキスシーン)がすべてすばらしかった。
 
 

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2018年04月21日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

作中、一人物が「一回犯罪を犯した者は幸福になってはいけないんですか」という問を発する。答はぼくならこうだ。その幸福は限局される。限局が熾烈であればあるほど、幸福が本性化する。そんな幸福なら許される。

2018年04月21日 阿部嘉昭 URL 編集

瑛太がアクターズスタジオ系の驕慢な存在感をしるさないのはなぜかを、観ながらずっとかんがえていた。『レインマン』のダスティン・ホフマンにもあったものだ。たぶんアクターズスタジオ系俳優は、自らの可視性を信じている。それで、激情とリズムと顔の物質性を打ち出し、鬱陶しさをみちびく。瑛太にはそれらがないのだ。表情筋の最小の動きさえも恥辱に感じている趣。だから無表情の単調も回避する。俳優の無表情は不要なものを除去する演出者の領域にある。瑛太の微表情の回収不能性は、瑛太自身の領域にある。そうおもった

2018年04月21日 阿部嘉昭 URL 編集












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