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是枝裕和・万引き家族 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

是枝裕和・万引き家族のページです。

是枝裕和・万引き家族

 
【是枝裕和原案・脚本・監督・編集『万引き家族』】
 
現在、カンヌ国際映画祭のコンペ部門に正式出品されている、是枝裕和による原案・脚本・監督・編集の映画を昨夜観た。『万引き家族』。「万引き」と「家族」に二分できるタイトルだが、それぞれをおもいだしてみよう。
 
冒頭ショットは、まずスーパーの入口からはいってくる、一見父子とおぼしいリリー・フランキーと城桧吏(子役、学童年齢)をとらえる。ふたりの動きは即座に分離するが、商品棚の手前/後方を挟む並行移動関係を長回しの引き構図でとらえつづけ、リリーが通路を折れて手前側へと歩程を変え、やがてふたりが前後の同道関係になると、カメラはそのまま後退移動でふたりを持続的に写しつづける。「塊の全体」を、位置関係と世界の内属状態まるごとにして提示するショットだが、この対象把握法が作品の基調となる。たとえばブレッソンの『スリ』であれば、「手」「目」「対象」「周囲」などを分断する、ぶっきらぼうで換喩的な短いカッティングにより、意図を超えたサスペンスが画面の流れに醸成されるのだが、是枝監督はカットを割らず、スーパーでの万引き行為の描写にもサスペンスを関わらせない。
 
万引きの手口は、(以後も成員を替えて繰り返されることになるが)、おもに年長者が店員の注意をひきつけ、年少者が棚から商品を抜き取りリュックなどに隠すというものだ。奥行きに店員を置き、それへの年長者の干渉によってふたりがフレームアウトしたのち、そのまま手前で年少者が万引き行為を貫徹するというものが多く、そこでもカットが割られない。「塊の全体」、その推移を、ショット単位、シーン単位で連鎖することが是枝監督の眼目だという点はすぐに得心されてゆくだろう。
 
崩壊寸前の陋屋という形容がふさわしい「家族」たちの住む家屋(それはマンションが建ち並ぶ一帯の「谷間」に潜む旧いぼろぼろの平屋だ)、その内部がほぼ開始後全体の四分の三まで作品の空間提示の中心となる。万引きの成功のあとリリーと城はコロッケを南千住の商店街で購入し達成意識に顔をほころばせながら同道、途中、塀にさえぎられたアパートの狭いベランダ部分に放置(ネグレクト)されている5歳程度の女児を哀れにおもい、連れ帰ってしまう。そうして彼らの居住空間が「夕飯時」という条件を加味されて判明するのだが、三つ松けいこ、松葉明子による女性の美術・装飾コンビは、極貧で狭いスペースでの「一家」の暮らしぶりを、ゴミ、多人数、未整頓、汚さの相乗体として露悪的に組織する。この画面構成措置は糞リアリズムへの不快感すら招くだろう。夜という時間もあって開口部が画面内に設けられず、全体が逼塞するなかに、汚れ切った事物があふれかえり、人物の輪郭までも危うくする画面の異様さ。貧乏描写が達意だった成瀬巳喜男が絶対にしなかったことだ(彼は棚、襖、障子などの矩形を画面コンポジションの基礎とした)。それがまたもや「塊の全体」として神経を苛むように継続してゆくから、とうぜん観客の「眼」は空間の開放を希求することにもなる。
 
それにしても、通りすがりに、哀れだとはいえ、女児を無頓着に自宅へと持ち帰ってしまうリリーと子役・城の行動規範とはなんなのか。もちろんこれは誘拐に値するのではないかという疑義が家族成員から出るが、自信たっぷりに、子役・城の母親とみえる安藤サクラは、身代金要求が付帯していないのだから、これは保護であって犯罪ではないと解説してみせる。先の、子供を悪用した万引き行為、のちには死体遺棄、あるいは受給者死亡後にも年金を詐取することなど、「一家」全員が犯罪のハードルを低く見積もっていることが判明してくる。これは格差社会の「貧」から楔を社会へと打ち込む、したり顔、告訴型の反道徳映画なのか。
 
是枝監督作品をこれまで苦手としてきたのは、「映画」がもちうる機能を監督が過信し、したり顔でしつこく自らの万能性を提示してくる気配をかんじつづけたためだった。具体的な作品名は明示しないが、「主演女優の顔のみえないこと」「願望すべての映像化の可能性」「虚構ドラマへのドキュメンタリー色の導入と、その結果としての子役への強圧」「人間の生身をつかった人形化が過剰な裸身の露出を伴うこと」「並行モンタージュを疑わないこと」「切り返しというクリシェを抒情性に奉仕させつづけること」などがそれだ。
 
ところが『万引き家族』では一野心の実現のために単調さが反復される金縛りは、展開的かつ聡明に回避されてゆく。たとえば前言した貧乏「一家」の生活と美観の乱調による、眼にたいするつよい逼塞は、ここぞというときに満を持して、高層マンションの広い敷地(夜景)、川原、蝉取りに適した公園、海水浴場などへと切り替えられ、窒息寸前で観客の眼に救済を果たすことになるのだ。それだけではない、一様とみえたその陋屋の内部空間も、縁先に向けた開口部を組織して、成瀬巳喜男『稲妻』よろしく、夕立に向かう外光の減少を気配させ「自然」と接続したり、おそらく素麺という小道具の流動性を介して久方ぶりの性交(間接描写)にいそしみ裸身を畳のうえにうつ伏せにする安藤サクラにたいし、リリーの体育座り、背中を向けた裸身を縁先方向に配して、間身体性と抒情性の双方を画面にしたたかに刻印したりもするのだった。
 
持ち帰られた女児(佐々木みゆ・扮)は名前を訊かれ、「ユリ」と応える。のちに判明するが、それは「ジュリ」というべきところを幼くて口が回らず、「ユリ」と伝えられただけだった。しかも一家はその名を、夜尿癖、偏食、腕に虐待痕があり発育も遅れている痩身の女児自身に似ていないとかんがえ、おそらく崇高な淋しさとつうじあう「リン」と命名しかえてしまう(彼女は家族成員の親和性のもとにある料理を当初、口にしないが、なぜか葉物や少量の肉とともにぶっきらぼうに醤油味で煮られたなかにある「麩」だけには執着をしめし、それも存在のはかなさを印象させる)。のちに判明するのだが、「祥平」と呼ばれていた城桧吏のその名も、リリーの本名を継承しただけのもので、リリーは自分の名を、実の息子と一見とらえられる子供に付与していたのだった。ふたつの問題系の縒り合わせがある。ひとつはゴッドファーザーの事例がしめすような、命名行為こそが家族関係の有効性を保証するという事実。いまひとつは、それが法律外で恣意的・矛盾的におこなわれても、成員内では何らの支障も来たさないということだ。
 
陋屋空間内に話をもどすと、観客はやがて不潔きわまる風呂場へと、人物の行動にしたがって案内される。ところが縁先が空間の希望となることも前言した。さらに抒情的な内部空間が陋屋内にはある。学齢期の男児(髪が伸びて乱れているにしてもその美形が紛れもない)の城は、「家族」団欒のときは例外なく、炭坑内でつかうようなヘッドライトつきの帽子というかヘルメットをかぶり、読書や食事にいそしんでいるのだ。そこは常住者の彼によって夢想性のわきかえる、暗さを秘めた押し入れへと変貌している。宝物は安藤サクラが作品途中まで勤めていた、経営状態の悪いクリーニング工場でせしめたタイピンだったり、ラムネ瓶のガラス玉だったりした(それが作品終結部での佐々木みゆのアパート通路を舞台にしたビー玉蒐集行為へと飛び火する)。懐中電灯を装着して日本家屋の押し入れ内を読書と就眠にまつわる夢の空間にしていたのはエドワード・ヤン『クーリンチェ少年事件』に子役主演していた張震だった。ところが『万引き家族』では城のいる押し入れの暗闇に、徐々に「妹」となっていた佐々木みゆが、夢想的な宝物をもとめやさしく侵入してくる。このとき明らかに『禁じられた遊び』の主役男女子役の切ない様相まで召喚される。
 
俳優たちは貧乏暮らしという設定のなか、ひどい衣裳の着用をしいられ、そのメイクもほぼ美的に組織されてはいない。この一家の中心にあるのは、ムームーの安物めいたものを着て祖母の座に位置する樹木希林だが、持ち前の斜視とは別に、その口許が通常とは異なっている。上顎下顎の尖ることはあるのだが、口をすぼめたときの陥没性が高い。おそらくは入れ歯を抜いた状態が活用されているのではないか。安藤サクラは、役柄に応じた体重増減はいつものことだが、この作品では若干の肥満に傾斜している。リリー・フランキーは作中、多くの裸身をとらえられ、予想される貧弱な肢体を露呈している。
 
もうひとり、祖母の座の樹木希林から安藤と「腹違い(の姉妹)」として一瞬形容される松岡茉優(彼女は「家族」にあって浮遊媒質のように無重力化している)だけが、無頓着に眉までを覆う前髪のしたにある眼を、懐疑と倦怠と明察、そして樹木希林への少女めいた愛着によってきらめかせていて、この彼女こそが、子役の城とともに画面に美的救済を果たしている。いや、それはやがて画面の進展に見慣れてくると安藤サクラにも起こるし、安藤と樹木希林により女の子らしい夏のワンピースを宛がわれ、やがて安藤の行き届いた自家散髪によって髪型を五歳児童女風に整えられた佐々木みゆの全身のかもす、動作のはかない風情にも伝播してゆく。一旦の定着をゆるがせること。それで時間の進展を大きく定位すること。これらが『万引き家族』が自らに課した法則で、これこそが「物語」はともかく画面要素・画面的意味の執拗な反復によって映画そのものを膠着させてしまうこれまでの是枝作品にはないものなのだった。
 
さて身をもてあまし、淋しさと受苦の記号を発散させていた女児を、惻隠の情が介在したとはいえ、家にもちかえり、それを誘拐ではないと強弁する異様な作劇から開始された本作では、「家族」概念が不安定にゆらぐのも当然のことだった。いま現出されているこれは、一体どんな「家族」なのか。本作の優秀さの第一は、「家族」の「成立」過程が熾烈なまでの偶然性に拠っていて、結果的にゴッドマザー樹木希林と血のつながる者がひとりとていない疑似血縁集団だと「作品全篇をかけて」「徐々に判明してゆく」その緩徐的な運動によっている。
 
数メートルの距離を挟み、真夏・日中の無聊を、たがいに顔を向けた横臥で畳を隔てて語り合う、リリーと松岡とのすこしエロチックなシーンがある。松岡が問う。リリーと安藤は「どこで」つながっているのかと。下半身ネタ=尾籠さに落ちるところを、すでに観客に陰萎を予感させているリリーが応答で救済する。「こころでつながっている」と。実際は犯罪の共有によってつながっていたこと(つまりそれも「こころ」だ)がのちに判明する。樹木希林と松岡がどうつながっていたのかは、ネタバレになるが書かざるをえない。樹木の夫は別の女へと出奔した。その女の家(きれいに整頓されている)に、夫の月命日供養に行き、脅迫まがいで涙金を徴収してくるのだ。その家に「現在海外留学中」という名目の娘の写真が飾ってあり、それが何と画面の現在よりやや年少で、まだ「やつし」の入っていない松岡茉優だった。娘の消息を樹木に訊かれ、虚言が露呈しているとも知らず上記を語ってしまう緒形直人、森口瑤子の夫婦は、血はつながってはいても、樹木希林よりは松岡の「家族」ではないと、問わず語りしてしまっている。
 
この松岡と一旦はあいまいに「腹違い」と語られた安藤サクラが、編集で切られたのかもしれないが、どんな経緯があって樹木希林の居宅に舞い込んだのかは作中レベルでは不明だ。「腹違い」とは事実の提示ではなく、状態の暗喩ととることさえできる。その安藤とリリーの紐帯の質は作品の終わりちかくで語られ、このカップルと子役・城桧吏の出会いも作中で段階的に語られる。これらはこれから観るひとの愉しみのため秘匿しておこう。いずれにせよ、ふだん「おじさん」とよばれているリリーは城から「お父さん」とよびかえられることを渇望しているし、安藤は城に母性を発揮できたとき喜びで愛好を崩すし、それが飛び火して、佐々木みゆを「妹」の座についに定着した城は、含羞をおびながらも全身で開放を表現する。「家族」になる段階もまた活写されているのだった。
 
名前はひとつにならない。子役・佐々木みゆの役柄が「ジュリ」「ユリ」「リン」のあいだでゆれるのが典型だが、風俗産業で源氏名をつかう松岡茉優も同様だ。それはどんな風俗店か。客の指名により、客の視界に登場する松岡。その客とのあいだにはマジックミラーが使用されているが、完全反射ではなく、マジックミラーの裏側からガラス面に接触されたもの(客の顔や、おそらく客の性器など)は松岡の側からぼんやりと可視化される。不完全なセーラー服をまとった松岡は、最も安価なサーヴィス付与では尻で座り、両腕で体側を支えながら、スカート姿もいとわず開脚して尻をバウンドさせる正面の姿を、マジックミラーの向こうの不可視の客に提供する。足しげくかよう、馴染みがいる。松岡は積極的に親愛的なことばを語りかけるが、なぜか客はすくないことばを書いたメモを鏡面の向こう側から押し付けるだけ。
 
ところがとうとう、客は松岡の使嗾に乗り増額、提供サーヴィスを身体接触にまで上げる。選択したのは膝枕。ここでとうとう、このマジックミラーによる風俗業の源泉が、ヴェンダースの『パリ、テキサス』ではなく、キム・ギドクの『悪い男』だったことが判明する。なぜなら松岡とのやりとりによって発声をうながされた客は、それができないことを露呈させるからだ。しかもそれをあげつらうことのない松岡のやさしいことばにほだされ、涙で松岡の生の太ももをぬらし、それをも恥じらい、彼は手でぬぐう。胸の痛むディテール。演じたのはこの一連のみで出演した池松壮亮で、姿の可視化はほぼ一瞬にしかすぎないのに強烈きわまる余韻をのこした。なお、松岡は尻バウンドのときに白ブラウスの前釦を外し、谷間のくっきりした豊満なブラジャー姿を披露する。
 
ともあれ「一家」の、血縁によらないが、不思議に身熱の伝播している紐帯のありようが、経緯の謎をとどめたまま定着されるのが、上映時間121分のうちの三分の二程度を経過した時点のことだった。それまで画像的にもシーン的にも一塊で、それぞれの家族エピソードが単調さもいとわず連打されてきたといっていいが、前段説明が「沸点」に達したという予感をこの三分の二で多くの観客がおぼえるだろう。三分の二に「序破/急」の分岐点をつくった是枝脚本の作劇が秀逸だ。その後、何が起こるか。ネタバレを回避するギリギリの書き方をすると、樹木希林を襲う「異変」があり(生起のタイミングでこれは衝撃となる)、ついに一家の成員に万引きの失敗が訪れる。これにより、「一家」成員は一挙に「一網打尽」となり、麻のように乱れた陋屋内光景が中心となっていた画柄に変調が起こる。刑事ではなく区役所の厚生委員、高良健吾と池脇千鶴による、訊問ではなく「聞き取り」が成員別々に、「一塊」の法則をうちやぶり分割的に展開されてゆくのだが、そこでの画調と作劇がほれぼれするくらい見事なのだった。それがやがて安藤を前にしたリリー+城の面会シーンにも飛び火してゆく。
 
言い落していたが、撮影は熊切和嘉、吉田大八作品などの近藤龍人。聞き取りシーンではじめて空間が整理され、個々の成員たちの輪郭が際立つ。正面性のたかいひとりのバストショットはこれまで使用されず、温存されてきたものだ。彼らは聞き取りにさいし、秘密も厳守しようとするが、やがては聞き取りの目的が厚生にあると悟ったのか、胸襟をひらきだす気配だ。見事なのは、その設定により、成員個々の「輪郭」「顔」「表情」「思考」が人間的に、満を持したように露呈すること。この瞬間を「ひらく」ために、陋屋内の乱雑空間が前提されていた――観客は一挙に作品全体の構図設計を見ぬくことになる。しかも聞き取り接見は間歇的、持ち回り的に飛び石状態になっていて、個々の述懐は厚生委員の指摘とともに綜合されてゆく。結果、最もそこで効率的に、しかも時間性をともなって判明してゆくのが、成員の前歴と集団成立の経緯なのだった。作品はそうして何重もの意味で「時」を飛び石するような謎解きを鮮やかにおこなうのだが、これが弁護士と服役者の面会シーンを解決感なしの生煮えで連打した是枝監督の『三度目の殺人』にはなかったものだった。
 
この『万引き家族』が既存の是枝作品の「綜合」だという点は即座にみてとれる。家族的空間の中心に樹木希林がいるというのは、『歩いても歩いても』からの継承だし(ところが料理がすべてうつくしく旨そうにとらえられていた『歩いても歩いても』にたいし、本作は麺が強調されるもの以外はおよそ食べたいとおもわせるものはない)、そこに疎外態の子供が放置ぎみに置かれているのは『誰も知らない』だし、松岡の性産業従事での無謬性というか愛他性は『空気人形』だし、リリーや安藤が父性や母性を、育てる子供から承認されて得ようと躍起になっているのは『そして父になる』だし、接見が重要な役割を果たすのは『三度目の殺人』だし、家屋空間で縁先に抒情性が特権化されるのは『海街diary』だし――といった具合だ。これまでの作品はしかしすべてそれらの多くが配剤ミスをおもわせたが、濾過紙を経てそれらが調合された本作では、配剤が聡明といえるまでに完璧なものへと変貌している。配役にあった権力構造すら消えた。この『万引き家族』で「成員」の描写機会が過激なまでに平等なのも、奇蹟的な事態のように映る。ともあれ「成員関係に謎かけがあり」「それが徐々に問題化され」「最後の三分の一で一気呵成に解決が連打し」「それでも作品のその後がまだある」という一種の構成美は、これまでの是枝作品にはなかったものだ。設計が緻密なのだ。
 
ところで『万引き家族』というタイトルで即座に聯想されるのは「当たり屋」行為を生業とした疎外態流浪家族(犯罪一家)を、厳密な社会性と、清冽な抒情性、さらにするどい他者性考察でとらえきった大島渚の傑作『少年』だろう。この文章では、成瀬巳喜男、エドワード・ヤン、キム・ギドク、さらには是枝自身の過去作との連関を指摘してきたが、大島『少年』とどんな関係を切り結ぶのかが最大の興味となる。それはまず雪が降って、雪だるまがつくられることで実景化される。ああ、とおもう。
 
さらに、厚生施設を出てリリーのアパートに無断外泊した翌日、施設に帰る城をリリーが見送るときに、事物ではなく運動までもが実体化される。『少年』のラストは、厚生施設に入れられてゆく少年の、動く列車内の様相の描写だった。それが画面の黒味と見事に連動した。『万引き家族』では厚生施設方面へ向かうバス、その車中のひとに城がなる。バス停からバスが発進し、リリーが並歩、やがては並走でバスの移動を追う。窓をフィルムされたバスの車中は、マジックミラーの向こうのようにはっきりみえないが、城が当初、リリーの追いすがりに気づかず、座る席だけを探し、車内通路をうごいるのがわかる。このときカメラは見る者/見られる者の切り返しを一切しない。やはり「一塊」なのだ、リリーの背中側からバス方向をとらえるだけの。このとき道の両側を離れて並歩する作品クライマックスの血のつながらない「父子」を、抒情たっぷりの切り返しの反復によってとらえた『そして父になる』の愚挙に否定斜線が引かれる。依拠されているのは、大島『少年』の主人公が、車中にいる主体になっていた端的な一事のみだ。この一連が終わり、ジャンプカットで、アパートの壁が画面右の二階通路とともに映る。画面左のアパートの壁は黒味をほどこしたように暗色化している。このとき大島『少年』のラストにあって、城とのリリーの別れのシーンになかった黒味が、時差のズレをまじえて召喚されたのだった。是枝は長篇劇映画デビュー作で、小津と成瀬を参照したと語ったが、両巨匠に似ている細部など何もなかった。ところがここでの是枝/大島の関係性では、「似ている細部」がずらされたパズルピースのように、新たな生命力を得ていたのだった。ものすごい深化だ。
 
登場人物の生活手段をかならず念頭に入れなければ映画はリアルにならないといったのが大島だった。『万引き家族』では「一家」はどのように生計をたてていたか。まずは樹木希林に受給される年金。これをそこに集った者が啜った。樹木には夫が出奔した相手先からの「毟り」もある。それから風俗産業で得た松岡茉優の報酬。さらにはリリーが当初ニコヨン仕事をしていたが、それが足に罅を入れる事故によって、以後、無労働状態となり、万引き稼業をより活性化させる次第となる(詳しくは書かないが、この作品には骨折→骨折の反復があり、それがギプスのとれる描写を呼び込み、季節推移にさらに推移を上乗せする効果がある――反復は反復される――「児童略取→児童略取」もそうだし、「被害家族の嘘の弁明」→「被害家族の嘘の弁明」もそうだし、「死→死」もそうで、最後のひとつの当事者のひとりは、出番が少ないながら駄菓子屋の主人として見事な存在感をのこした柄本明だった)。さらに、当初クリーニング工場に勤務していた安藤サクラは経営者のリストラ施策のなかで同僚の恐喝により自主退職を余儀なくされる。「一家」の生計が逼迫していったのはあきらかだろう。
 
犯罪一家をえがくことは国家をえがくことだ。それが「共同幻想」の本質ともいえる。じつはこの点で、大島『少年』と是枝『万引き一家』がリンクする。大島の政治色ほどではないが、いくつかの示唆的な科白がある。「店頭に置かれている商品は、誰のものでもない」(=売っている者の物ではないのは自明で、それを奪った者だけが商品を手中にできる)。この電撃的な弁明は、リリーが車上荒らしをおこなう場面で城から審問を受ける。いまこの瞬間は、他人に所属するものが奪われているのではないかと。ともあれ所有と所有不能の混在こそが共同幻想の内実なのだ。あるいは死体遺棄に問われた安藤が厚生委員に語る。私は捨てたりはしていない。すでに(国家に)捨てられているものを拾いあげたのだ(そしてそれを丁重に埋葬したのだ)。国家による法的な取捨と、人の愛による情緒的な取捨にはズレがあり、どちらかがどちらかを裁くこともできない、と主唱するかのようだ。これらのことばは、国家の国家性に突き刺さっている。むろんたとえば日中韓三国で金持ちを描くばあいには映画それぞれに差異が出るだろう。ところが貧者を描く場合には極東の共通項のほうがむしろ浮上するのだ。『万引き家族』はこの普遍真理にも突き刺さっている。
 
――5月8日、狸小路プラザ2.5の札幌試写にて鑑賞。6月8日に全国ロードショー公開される。
 

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2018年05月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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