高橋洋・霊的ボルシェヴィキ
【高橋洋脚本・監督『霊的ボルシェヴィキ』】
作品は「恐怖」を目指しているはずなのに、「何かにふれてしまった」体験を、人物たちがパイプ椅子を円陣にして百物語形式で語りあうその画面は、当初、建物内にふりそそぐ燦燦とした陽光により、怪訝となるほどあかるい。白光に「くろさ」をかんじろという命題なのか。ほぼ1セットドラマのロケ撮影場所に見出されたのは、所沢にある元・給食センターの廃施設だという。ふとおもったのは1913年に開設され、1923年に関東大震災によって壊滅にいたった(つまりロシア革命の1917年には稼働していた)、日活向島のグラスステージ。新派劇の傑作を量産したとつたえられる撮影所だが、当時の低感度フィルムの制限にたいし、陽光をとりいれることで撮影の「ヌケ」を得るべく、ガラスで天井をおおいつくしていた。だから関東大震災のこの世ならぬゆれにはガラスの破片をふきあげ、うつくしい狼藉・災厄をしるしたはずだ。いずれにせよ太陽光を当てにした撮影所、その稼働時代、だれもいない「夜」にはどんな魔が跳梁していたのだろうか。
キャスト総勢7人で「何かにふれてしまった」体験を語りあう(じっさい語るのは5人)――そうして百物語の儀礼をおこない、実験的に「何か」の不可逆的にして全的なその場への降誕を、たとえそれが破局であるにしても待機する、というのが、この高橋洋監督・脚本『霊的ボルシェヴィキ』の大枠だ。フェレーリ『最後の晩餐』のようなアレゴリー。同時に「何か」は記述不能で、ヴィトゲンシュタインの「語りえぬもの」とも連絡している(途中から「何かにふれてしまった」は「あの世にふれてしまった」と語り替えられるが、「何か」のほうが正しい用例だとおもった)。低予算だから、語られる内容の映像的再現=フラッシュバックも「ほぼ」回避される。演劇的な時空持続性が多くの展開に必然化されるのは理の当然だが、いっぽうで「ここ」は「孔のない(顕在化していない)多孔空間なのではないか」というイヤな感触までつきまとう。演劇的な単調にたいしては当初は人物をうごかし、カメラの立脚地点を、バロック的な角度はないものの川島雄三『しとやかな獣』のように多彩化させ、画面にとりこむ人数や構図を変化させるカット割に挑むようにみえたが、やがてカメラは「語る顔」(それはそのものが「怖い」――デビュー時から最近までのゴダール映画などはその実例集といってもいいだろう)を定着しだす(撮影=山田達也)。この呼吸に不穏さをひそかにかんじてしまう。ことさらに、恐怖色を演出して恐怖を語る俳優もいない。とりわけ、刑執行の直前、恐怖のあまり猛烈な力で便器の台座をひきぬき、獄吏に対抗した死刑囚の、人を超えた「何か」への変貌をつたえた、三田=伊藤洋三郎の平穏な、しかも語る奥の乱心を噛み殺すような語り口により、作品の「語り」のトーンが決定されたようにみえる。
百物語を語りあうという外観をAとする。これにたいし、百物語のひとつも語りつつ、その数奇な生も過剰につたえられてしまうヒロイン由紀子=韓英恵のパートをBとする。この映画でとてもうつくしい韓英恵は、『ピストルオペラ』の子役デビュー以来、顔が一定せず、その「ひとり」に「多数」さえふくまれていると個人的にかんじているが、それだからなのか、彼女は作中の多義性、いわばその中心地になる。間歇的に語られる由紀子の生は以下のような分節をもつ。幼少期、神隠しに遭った。行方調査をやがて警察は断念、たったひとり執念深く娘を探しつづけた母親により、半年後、発見される。その母親に、「娘は入れ替わっている」との怪文書がとどき、母娘間にこの世ならぬ非親密が生ずる。いま眼前にいる実娘とみえる娘が「何か」である公算すらあるのだ。
これとは「一見分離して」、由紀子が語った「何かにふれた」体験は、押し入れで家族誰もが感知せぬ人形をみつけた幼少時の驚きから始動する。親族まで集められた大掛かりな人形供養に列席した由紀子は、人形の火葬で、人の肉や髪が炎える異臭を嗅ぐし、炎中の人形も数歩をあるく。この怪異体験はやがて彼女の夢に飛び火する。幽体離脱。彼女は眼下の寝床で、炎える自分自身をみている。やはり同様の異臭。そんな恐ろしい光景には即座に眼を瞑りたい。ところが「なぜか」それができない。気づくと、それをしようにもすでに自分の瞼がもえ落ちてしまっている――人形、炎、幽体離脱(分身)という、高橋ごのみの怪異がここでは累乗化されるが、それを語っているものが、チェンジリングを経由した「何か」ですらあるのではないか、と自問したとき、おそらく語る場そのものの多孔状が感知されることになるだろう。
とりあえず形式上の、A→B→A→B→A→B→A→…は明瞭だ。この交互性(交換性)が進行の組成をまだらにし、それで「ここ」が「何か」で裏打ちされているような不穏な二重性(カフカ的なアレゴリーに顕著なものだ)がとりあえず組織されることになる。
多孔の孔は空間には発露しない。時間にこそ発露して、結果、空間から安定的信憑をうばう。昼の白光にみちあふれた画面は二度にわたり、「とつぜん」夜に変貌する。ここでは昼と夜は経緯でつながれるのではなく、配合で生成するのだ。長嶌寛幸の音楽も、怪奇性たっぷりの凶暴さで画面を撫でつけ傷つけるというよりも、画面のながれの「間」を襲う。だからこそ、ラップ音などとも共謀できる操作子となり、音楽の音楽性を「音」に縮減する倒錯まで演じてしまう。形式上予想される演劇的な熱狂は、映画に導入されれば鈍重さに堕す危険があるが、それを救済しているのは、時空展開上の、これら多孔質をおもわせる「まだら」状態、さらには音声上、光学上の間歇的効果の予想外性だ。
特権的にもちいられるのが女の裸足をとつぜんとらえる換喩的構図。最初は水没した村の廃屋探検を語る長尾=南谷朝子が、自分の探検先に先行者を見出し、その先行者の報告があまりに詳細なので実は水死を経由した「何か」ではないかと予感したとするところで、画面の現在時から「何か」が氾濫してしまった外傷として、先行者の裸足だけをとらえる回想(再現)画面がもれでてくる。それが神隠しにあった由紀子が裸足だったという挿話に飛び火し、その後は由紀子の主観に、裸足だけを換喩的にとらえる画面が反復される。足元だけのその構図から上体が奪われているヤバさ。足と足の着地場所の魔的な関係(たとえばフラメンコを踊る女の裸足も、それが地面をはげしく打つことで地中の魔を覚醒浮上させる)。けれども間歇性はいわばつつましい微差の範囲にあることで、かえって生々しいのだ。してみると作品全体が音楽でいう「音響派」同様のリアルを刻刻分泌していることになる。「過剰」が売りだった高橋洋にとって、これは新機軸ではないだろうか。
アレゴリーの本義は「XになぞらえてYを語ること」だ。ところが語られる本質Yが不明のまま、むしろ閉鎖系リアルとして当面のXが精緻に、無媒介に、あるいは謎めいて語られるのがカフカの寓話の流儀だった。これは大和屋竺や黒沢清にも出来する問題だが、高橋洋はそこからの離脱をこの『霊的ボルシェヴィキ』で目論んでいるのではないか。言い落していたが、作品の90%以上で主舞台となるがらんどうの廃施設、そのとある高処には、レーニンとスターリンの引きのばされた肖像写真パネルがならんでいる。あるいは、霊的な集中と清冽がそこなわれたときには、ボルシェヴィキ党歌を全員斉唱することで場の恢復が目論まれる。そして「ダー! スメルチ」。革命期ロシアからソ連にまつわるだろう断片的詳細と、百物語で語られる、ふれてはならない「何か」は、作中では具体的な接合がないまま、いわば透明なかさなり=二重性として力の渦を巻いている。ロシア革命を底から駆動させた霊的な「何か」は、恐怖と真に膚接する「何か」のアナロジーになる、と観客は予感しながら、その接合点が見いだせない迷宮をさまよい、その不可能性を多孔性の図柄に必然的にかえてゆくのではないか。そうして語られないネチャーエフが、トロツキーが、カチンの森が、ユーラシア最奥部が、過渡期世界論が、「みていないのに」、アナーキーな残像をえがく。これこそが「降霊」の本質だろう。
幽霊の声のように、二重性を保証されないまま二重性が現象しているこのことが恐怖だとするなら、ロシア革命における霊的前衛の潜在も、恐怖にとなりあう「何か」に肉付けされず、むしろくずれるままになったほうがいい。この機微の発見こそが『霊的ボルシェヴィキ』の根幹にあるものだったはずだ。そうして作品は終幕に多方向の運動を、収束できない多方向性として破局的に連打し、「くずれる」。具体的には「落ちる」「(「何か」の表象としてのアルターエゴが人型の木の枝に)変わる」「失敗が唐突に宣言される」「撃つ」「現れる」「立ち去る」がそれら多方向性の材料だ。それらは流れのなかで、あるいはドラマ的方便を超えた唐突さのなかで提示されるが、その全体を瞬間にまで想像力で圧縮すれば、「くずれる」という運動だけがのこるはずなのだ。当初、納得できない結末かとかんじたが、アレゴリー的二重性を葬る帰結として――あるいは残像を恐怖にきらめかせる帰結として――この作品のエンディングはとても秀逸だったのではないかとおもいなおした。
――5月18日、シアターキノで鑑賞。一回上映のみという条件だから当然だったが、キノでは坂尻昌平さんと鉢合わせた。鑑賞後は坂尻さん、さらにぼくの指導学生と、キノ前の狸小路・魚平で飲んだ。