三村京子の俳句
「未定通信」が届く。
投稿は高原耕治さんと僕だけ。
だからすげえ薄い。
出句清記帖が句会欠席者に送られもせず
原稿依頼もなされなかったようだ。
編集代行の玉川さんのチョンボだとおもう。
ここでの原稿は、「未定」関係者にしか読まれない。
なので三村さんの俳句について書いた部分だけ
三村ファンのためにペーストしてしまおう。
改行・行アキなしで貼るので、
ちょいと読みにくいけど、ご勘弁あれ
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【並句】
PASSION篭る寺という身に出口なし
・評
「身」が「寺」と同格となり、「寺」には「PASSION」が籠もり、それで「出口」がないという嗟嘆が生じている。修飾構造は17音短詩のなかではかなり複雑で、多元的な意味がそこに生じるようにおもう。「PASSION」がまず句解の鍵。それは「受苦=情熱」に「パッション」とルビの振られる「現代思想」流儀の、意味の二元性/分離並存を志向しているだろう。「情熱」が問題だった――なぜなら、「寺」の語には寂滅、教義的厳格、節制などのイメージ圏がまつわり、「寺」と「情熱」は通常、背反的なのだから。だからこそ、句全体から疎外や「受苦」の感触も伝わってくる。そして「寺という身」という、句の「同格構造」の中心は、「身」の脱分節化という奇妙な事態を意識させてさらに緊張にも導く。それを後続する「出口なし」が駄目押しする。身のうちに生じた受苦=情熱を瀉血するような出口が身にない――つまりこの身体は『荘子』応帝王篇にみられる、感覚に必要な七穴を穿たれるまえの「渾沌」なのではないか。二眼・二耳・二鼻孔・一口の七穴。人はそれに加え一尿道、一肛門の二穴もあり、女はさらに膣口をもった全体で十穴の魔性となる(『荘子』では「渾沌」に七穴を穿つと、死んでしまったという謎めいた寓話だったが)。この句では穿たれる前の「出口」がじつは膣口ではないかという印象がとりわけ生ずる。ならば「寺」には尼寺の印象もまとわりつくことになる。エロチックでありながら、「出口なし」の捨て科白のような、自己断定の冷ややかさも共存する構造に注意。句を噛み締めると、倫理感をもって何事かに熱中する女の、身体的不如意が立ち現れる気配があった。
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なおこのときの句会に僕が出した句は以下。
兼題は「山」「口」だった。
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山蛭や黄泉となるまで著莪を吸ふ
山蛭もて不動山往き娑婆荒るる
山響は億万のこゑ蛭の飢
山藤に棚なくて白爛れたり
口よりぞ我も出でゆけ出羽つ瞽女