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黒沢清と前川裕 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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黒沢清と前川裕

 
 
【黒沢清と前川裕】
 
わけあって、前川裕のミステリ巨篇『クリーピー』をいまごろ読んだ。いわずとしれた黒沢清の映画『クリーピー』の原作。第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受けているとおり、これはたいした傑作だった。
 
黒沢清は原作から三分の一程度の情報を抜き取って、別建ての折り紙をつくったにひとしい。「なりすまし殺人鬼」が隣家にいたら、という設定は継承されているが、原作の全体を視野に入れ二時間程度の作品をつくると、省略と飛躍をしいられ、解読不能になるとかんがえたはずで、これは適切な措置だった。おそらくレイモンド・チャンドラー原作、ハワード・ホークス監督、ウィリアム・フォークナー脚本の、「解読不能で」「それゆえに外連味たっぷりの」『三つ数えろ』の故事が念頭にあっただろう。ああいう映画は、いまはつくりえない。
 
黒沢清は結果、ショット――とりわけそれが孕む根源的な隣接性に拘泥した。「隣人恐怖」を主題とする原作を扱ううえでの選択だ。或るショットで或る対象が映るのは、カメラと対象がちかいことを前提としている。遠望ですら画面では平面性へとおしこめられ、近傍化してしまう。あるいはショット同士が場所を飛躍させるばあいでも、そのふたつの場所のはらむ時間ひいては空間はちかさを現象させてしまう。黒沢清はそこに罠をかけ、「クリーピー」(薄気味悪さ)をさまざまに分光させた。「虚構」が熟慮されている。
 
本来性から離れてしつらえ替えられた空間は、遠望を無意味に活性化させれば近傍の焦点化不能へとゆきついてしまう(西島秀俊の働く大学の空間)。一旦の近傍化はたえずフェイクを付帯させているのに、その点が問われない不思議(川口春奈の現在住むアパートがやがて二階の一室だと判明すること)。近傍が主題にのぼりつめると、そこに不躾に類似という主題まで割り込むこと(一家失踪事件のあった〔かつて川口の住んだ〕日野の住宅のもつ近隣関係と、現在の稲城市にある西島の住む家のもつ近隣関係の、突然のアナロジー)。近傍性は密着性にもつうじるから、映画の死体処理では布団収納用のビニール袋(巨大なジプロックのようなもの)と業務用掃除機が使用され、その内部を真空化され、視覚性は半可視的に死体の皮膚に密着するビニール袋を通じて実現される。ゴダールが『小さな兵隊』『気狂いピエロ』で尋問対象の顔に布を掛け、顔を大量の流水で密封状態にし、窒息恐怖を演出したのに似ている。
 
ただし眼前にある近傍は、言語化できないという意味では、けっして実体性をもたない。日野の住宅の門扉部分が敷地から突き出ていること、西島の真隣の家が道路から奥まっていて、その門扉部分と隣りあう家屋部分が奇妙なことの理由は、そのように美術部がアレンジしたというだけで、実体的な理由をともなわない。もっとも異常なのは、恐怖の源泉である香川照之。香川は近傍性のなかへゆっくりと現れてくるが、会話の応酬に、論理の噛み合わなさ、脱臼を分泌させ、それで話し相手をやがて支配してゆく。そこではリズムのシンコペーションが、脱論理の論理となるのだが、このシンコペーションこそを、近傍性のなかで最も実体化できないものとよぶべきだろう。現前と「別のもの」の正体なき同時性はカフカ的なアレゴリーの本質だ。むろん香川照之の現前の違和感の前段には、黒沢清『CURE』の萩原聖人が存在していた。香川は近傍を、近傍性によって破壊していたのだ。「クリーピー」の感触はそこからもっとも生じた。
 
前川裕の小説『クリーピー』は、映画の恐怖感覚を追求してきた黒沢清の達成に較べ、さほどクリーピーではない。ただし映画では省略された設定がじつは複雑をきわめ、えがかれる逸話が近傍性のなかに無媒介にひしめいて、その一種の汗牛充棟ぶりがクリーピーではある。大事なのは以下のことだ。映画では正体が終始わからなかった香川照之の役柄(本名)がついに判明すること、映画では殺されたと判明したのちは捨て置かれた東出昌大の役柄が、その死後にさえ幾度も小説空間に去来すること、その離婚した妻と、隣家の「娘」(澪)が「十年後」に設定された小説の最終章で悲劇的なうつくしさを発揮すること。つまり映画で端折られた部分が、小説の魅力の根幹になる逆説的な構造が、小説を確認すると浮上してくるのだった。
 
ミステリ小説だから、物語の骨子となる部分はネタバレとなるので書けない。なので以下は抽象的にしるしてみよう。小説『クリーピー』は映画人を近傍視野に入れている。ロマン・ポランスキーと、ルイス・ブニュエル(それにほんのすこしのアントニオーニ)。小説が映画とは別につくりあげる人脈は、映画の東出昌大の係累がひとつ、西島秀俊の教え子がもうひとつだが、どちらも近傍性を組織させながら、そのつながり具合が不如意さに貶められている。東出の係累はどれをとっても「血が充分につながっていない」。西島の教え子は教え子なのに恋の予感を印象させすぎる。
 
ただし小説の最終章のすばらしさは、悪=犯罪と、悲劇=感情の崇高さとが、ありえない(つまり小説的な)近傍関係をむすんでしまう点だろう。そうなると作法が変わる。つまり「真意確認」「事実確認」「罪障追及」のすべてがその近傍領域、つまり「黙契」へとすりかわり、このとき人物同士のやりとりが涙目をおびてくるのだ。「ずれとして表される近傍」――このすりかわりはメトニミー的だが、それがうつくしさとかなしみを混淆させる。わすれがたい模様をつくる。だから小説と映画では近傍性把握がことなるのだ。ともあれ前川裕の『クリーピー』はストーリーの意外性にくわえ、このことでも至上の傑作となった。

そういえば前川裕の文章は「顔」の描写にすぐれている。けっしてバルザック的ではなく、またその反対の三島由紀夫的でもない。顔の描写は近傍性を前提すると部位別列挙となるはずだが、そうなれば全体性が混乱する。そこで「類似」がつかわれ、近傍性が一旦抹消される。ところがその類似が驚愕と恐怖をよぶと、ふたたび近傍性が実体次元の外側に復活する。この機微を知り尽くしたうえで、前川は少年性をもつ美少女の顔を結晶化させ、「同時に」映画では香川の演じた役柄の顔を脱結晶化させた。映画の香川照之は(とうぜん監督の黒沢清も)そうした原作の力に意識的だった。つまり黒沢清が香川の役柄をけっきょく正体不明にしたのは、前川の描写の質をかんがえたためでもあるだろう。
 
 

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2018年07月07日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

読後からやや経ったのに前川裕『クリーピー』の作中人物「園子」を取り巻いた愛の物語が、アタマから離れない。キータームは「身体障碍」。からだの一部に負荷をもつ女性が何に惹かれ、相手から何を断念されるか、この分析で前川はじつに独創的な挿話をつくっている。しかもそれがとてもかなしい余韻をひく。細部はまったくちがうのに、『パリ、テキサス』でハリー・ディーン・スタントンとナスターシャ・キンスキーのあいだに生じた愛の物語をふと聯想した

2018年07月10日 阿部嘉昭 URL 編集












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