メモ108+大木潤子・私の知らない歌 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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メモ108+大木潤子・私の知らない歌

 
 
108
 
きえない紋中紋がむねに
しかもふたつまでありつづけ
余韻もただようからなのか
おんがくだけにあるあいだが
かぎりのこととしるされ
けれど中途すべてはひらく
 

 
大木潤子さんの新詩集『私の知らない歌』は、五百頁になんなんとする大著といっけん捉えられるが、右頁の白、左頁のすくない語=すくない詩行をつうじた「改丁」法則によって、おどろくべき高速で読了させられてしまう。パラパラマンガをめくるような自らの手のうごきは、いわば身体そのものに詩世界の混淆白化〔アルベド〕を浸透させてゆく。それは晦冥詩における詩語の黒化〔ネグレド〕の対蹠にある効果となり、詩の基底材がつくりあげるうすさへの陶酔をまねかずにおかない。そうして「ここ」の現前性ではなく、「どこ」の非場所性が最少のなかでゆたかな攪乱因子となるのだ。
 
そのときたとえば改丁で仕切られた《空/無》のような単位が、「空」、「無」の時空並列なのか「空無」の語分解なのかで認識のブレが生ずる。この一瞬のたゆたいが、むしろ「空」「無」にそれぞれの凝視をもたらして語の物質的復帰をみちびき、高速が滞留に反転するともいえる。となると書かれているのは、速度=時間にまつわる二重性なのであって、高速は思考内では微速の分解としてたえず差戻しを反復させていることになる。思考=感覚は、それでいわば贅沢をあじわう。
 
つけくわえるなら、こうした遡行性の伏在こそが中和を実質づける中性性の本体なのでないか。もちろん男性性のアノニムは女性性ではなく中性性で、その機微につうじているからこそ大木さんの詩が爽快なのだといえるし、男性性と女性性の加算などありえず、中性性の単独こそがあるのだから、もともとアノニムという着眼そのものが反動的なのだとも大木さんは知るはずだ。もっというと、男性性を詩から抹消しようとして付帯的に女性性も抹消されるから、中性性が単独に開示されるということなのだ。
 
掲出詩篇は、この『私の知らない歌』の読後に、ふと書きつけたもの。詩集評を詩にしたということではない。現れなかったものへの同調までもが起動しているためだ。具体的な詩集評については他日を期したい。
 
 

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2018年07月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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