1968
こないだの道新の土曜夕刊、ぼくの連載コラムが載った。四方田犬彦さんが中心になって編んだ筑摩書房の「1968」シリーズ、1『文化』、2『文学』、3『漫画』の全巻終結を見据えた、紹介と論評。おおまかに1はジャンル別に論者が解説をおこなう体裁だが、2、3はレアアイテムもふくめた意欲的なアンソロジーになっていて、こういう試みにたいして「何々が入っていない」などとイチャモンをつけるのも、はしたない。だいいち論評するこちらもその内容豊富な3巻細目に圧され、「目次批評」になってしまわないよう強弱と緩急をしいられた。
68年は世界的にはビートルズ、ゴダールが文化アイコンの最大値だったが、3巻の四方田さん以外の編者・中条省平が暗示するように、ヴァルター・ベンヤミンの文業全貌が徐々に明らかになり、翻訳が各国で盛んになった点がおおきいかもしれない。「暴力批判論」でいえば、国家が叛乱者を弾圧し死刑に処す「神話的暴力」がクローズアップされ、その「神話的暴力」を打ち砕く「神的暴力」として「ことば」に期待があつめられた。このときにランボー、ロートレアモン、シュルレアリスム、そしてシュルレアリスムの周縁者としてアントナン・アルトーやシャルル・フーリエなどが脚光を浴びる。花田清輝の集団創作論などに領導されすでに大島渚中心の「創造社」などのあった日本の68年は、同時に現在よりももっと翻訳文化の磁力圏にあって、そのもとで、ことばと映像の変革が推進されていた。
政治(革命)的言語と芸術的言語の相剋または綜合、それはドキュメンタリスムとシュルレアリスムの並立といってもよく、多くの前衛芸術・前衛言語がこの融合圏を周回した。運動上、吉本隆明の影響がつよかった68年は、芸術理念上はいまだ花田清輝の影響がつよかったのだ。それとおおきな問題は、表現者同士の「同時性」にたいする皮膚感覚のするどさ、くわえて、マイナーがメジャーとなる転覆があたりまえだったことだろう。テーゼ別にみよう。前者の核心は、1巻中「演劇」を担当した西堂行人が書きつけた《別個に立って、共に撃つ》にある。後者ならば2巻に初期著作の「名所」、そのシュルレアリスティックで音感抜群、転倒的アジテーションが抜粋コラージュされた平岡正明が、晩年、名文家となって大成したあとなおも繰り返していたテーゼ《少数派が多数派を解放する》をおもった。中国文化革命のテーゼ《造反有理》は全的適用ができない。全共闘の標語《孤立を求めて、連帯を恐れず》は現在でも全適用が可能だが、これはフランスでは失敗に帰したジガ・ヴェルトフ集団、さらにはドゥルーズ=ガタリの共同作業にとりあえず結実してゆく。
詩はどうか。日本では「60年代詩」と「68年詩」との弁別という特殊な課題がある。学生の叛乱を原資にした詩歌は、ぼくのかんがえでは金字塔が達成されていない。政治的言語と芸術的言語との美的綜合は、たとえば岡井隆の短歌にあったが、『朝狩』(64)『眼底紀行』(67)の刊行年が68年からは外れている。その岡井隆は70年に失踪してしまう。これは岡林信康の失踪、パウル・ツェランの自死などとも並行する現象かもしれない。俳句の加藤郁乎などを先例として目的地のない言語破壊を凄絶に目した「68年詩」もまた、多くは破壊の対象が最終的に自己へとむかうしかなかった。帷子耀、芝山幹郎の「騒騒」同人は詩作を断ったし、最も自己破壊的だった山本陽子はやがてその自閉のむこうに忘却されていった。
じつは俳句では加藤郁乎から永田耕衣への覇権移行があったとみる。日本的な事態といえるだろう。「棒状のぶきみさ」「それ自体」「禅機」「土俗」「哄笑」などが前面化されたが、それらを裏打ちしていたのが土方巽の「肉体」と「怪文」だった。吉岡実はやがてその傾きに同調してゆく。老齢に達しつつあったものの強靭さがこの動勢を補助している。それでは、ひ弱だった若い詩作者はどうだったか。連接、連辞のぶきみさにより、アイコン結晶に脱臼をしいた平出隆の「花嫁」シリーズが68年の直後に躍り出る。これに、喪失の抒情につらぬかれた稲川方人の初期詩篇がくわわる。だから68年詩も四方田犬彦のいう小説とおなじく68年体験をほんとうは潜航・間歇させることになったが、現れたそれらはもはや70年代詩とよばれるしかなかった。それが歴史だろう。こうして現象的な「68年詩人」が「気風の持続を負わなかった」錯誤として、郷愁の領野に定着される。
もっと喪失を日常的な身体の違和となした純粋70年代詩もあるだろう。68年アヴァンギャルドの対抗現象ともいえる四畳半フォークと連接するもの。のちの松下育男の登場は画期的だった。マンガでいうなら安部慎一の位置にあるが、ただし筑豊弁を押し出した安部は、中上健次的なものの「気弱い結晶分解」の側面もあった。彼も自己破壊をしいられた。そういえば松下育男も後年、断筆の時期がながかった。早熟はなぜ夭折を回路にしようとするのだろうか。
以上が、68年に10歳だったぼくの、後知恵による地図だ。むろん10歳当時は兄の影響で内外のポップソングにあかるかったもののザッパやジミヘンの体験がまだない。早川義夫のジャックスは、アルバムはいまひとつだが、そのライヴ音源が68年的だと知るのものちのことだ。すでに親しんでいたマンガはどうか。つげ義春「ねじ式」は無意識へとふかくしずめられたが、高校のバリケード闘争をマンガにした真崎・守の『共犯幻想』でさえ遠望の視野にあった。ただしそれらこそが自分のエロス衝動の最初の指標となった。「肉体」がアルトー/土方巽のような脱器官性として意識されるまでにはのちにまだ二十年ちかくを要する。写真ですら、立木義浩がこのみだった自分が「PROVOKE」を中心に「風景=肉体」の整理をおこなうのに時間がかかった。以下、永田耕衣から二句。
河骨や天女を破りたる如し
河骨や天女に器官ある如し
〔※そういえば68年的な技法としてあったのが、エディティング=コラージュだったかもしれない。文中にゴダール、ビートルズ(≒ジョン・レノン)、ザッパ、つげ義春の名を掲げたが(さらにマンガには佐々木マキ、林静一もいた)、コラージュ性があるかないかがたとえば詩における68年の「気風の持続」を見極める基準となるかもしれない。帷子耀にはコラージュ意識がたしかにあった。いっぽう俳句はエディティングを内包するから非連続が永田耕衣のように必然的に68年的となるばあいがある。現今の詩はどうか。連打力か直叙が趨勢だろう。その趨勢のもとでコラージュは内向沈潜する。けれどもそれがかすかにでもなければ音韻性と、きしみが演じられない。このことが詩を見分ける手立てとなるのではないか。〕