昼顔
今日、永田耕衣のことをちょっと書いて、ふとおもいだしたのが、さきごろTV放映され録画でみた西谷弘監督の映画『昼顔』。クライマックス、北野先生(斎藤工)に死なれ(実際はまだ籍を抜けなかった嫉妬深い妻=伊藤歩に殺された恰好)、絶望のきわみにある紗和=上戸彩が轢死覚悟で深夜、最寄り駅=三浜のホーム下の線路に、ぼろぼろになって崩れるシーンがある。いつしか彼女が仰臥の姿勢となり、頭上にみえている銀河に手を伸ばす。それが彼女の主観ショットで捉えられる。このとき永田耕衣《てのひらというばけものや天の川》の解析画面がとつぜん到来する。また彼女の前方はるかには線路の青信号があり、それがまたたき、死んだ螢のような紗和へかすかなひかりを投げかける。このときは耕衣《死螢に照らしをかける螢かな》の図式がとつぜん浮上する。なんという符合だっただろう。
これらは偶然にしても、西谷弘監督の力量はいつでもすごい。ショットの存在論といったものにつうじていて、その呼吸、対象の表情を捉える距離と構図、ショット同士の関係性がすべて適確なのだ。空間が人物とともに躍動する。エドワード・ヤンの複雑な長回しに匹敵する、カッティングの一連もあった。北野先生の姿を三浜の講演会で三年ぶりに確かめた紗和が、三浜の螢生息地に行きたいという北野先生の壇上発言を頼りにそこへ赴くが空振り、帰途のバスで路上にいる北野先生を見つけ、窓をあけ、声をはりあげて名をよぶ。北野先生も気づき、バスを走って追う。以下はバスを下車し、捷径選択しようとしてその先回りの疾走が画面の縦横を切ってゆく上戸彩の身体と、ヒッチハイクして最初のバス停に降りてゆきまよう斎藤工の身体の、変化と段階を重ねる複雑なカット交錯となる。それでメロドラマの法則どおり、ギリギリふたりの邂逅がむごたらしく流産する経緯が定着されてゆく。このときの空間上の人体による線の生成が幾何学的な奇蹟というべきものにまで昇華されていたのだった。これは永く記憶にのこる場面だろう。
むろん主婦の観客のためには、「不倫は合わない」という託宣がおこなわれなければならない。それで脚本の井上由美子は伊藤歩に傷を加算させ狂気ちかくまで陥れたが、誤算だったかもしれない。近松が参照されるだけでよかったのだ。北野先生と紗和は「世間」から糾弾され「晒され」、経済的に混迷し、まさにこのふたりのあいだでこそ、心中が企図され、それが片方のみの死に結実すればよかったのではないか。伊藤歩があくどすぎて、どこか現実感が稀薄になった点が惜しまれる。「バスにどう乗るか」という主題は見事だったし、指輪のゆくえに百葉箱が選ばれ、それが待ち望んでいた紗和にではなく初出の子供たちのあいだでプレゼントされる作劇の残酷も鮮明だったが、ドラマのトータル設計に過誤があったとおもう。