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最近読んだ本(1) ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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最近読んだ本(1)



立教、早稲田とも前期講義が終わり、一挙に開放感が出た。
溜まっていたものが爆発する。僕の場合は読書欲だ。
僕は通常、未明起き→朝飯ののち
ふたたび短時間、朝寝をするのが常なのだが
(石川淳の習慣を倣ってこんな生活が身についた)、
睡眠を導こうと寝床に腹這いで読書をはじめると
これが、興が乗ってやめられなくなる。
ヘンにアタマが冴えているのだ。
結果、ここ2週間で異様な冊数の本を読破してしまった。

大した冊数ではないとおもうのはちがっている。
以下日付入りで書くが、
日付の跳びのあいだには
なまなかでは読了しない重量級の本を
熱心に読んでいる時間が潜むためだ。



読書が愉しくてmixi日記なんか書いてられるか
――当然、そうなる(笑)。
しかも今回の再開mixiでは
単純なレビュー書きを自分に禁じていて、
読後感を捻って日記に反映するのも何やら億劫だ。
よって用事のないときはただ読むだけ。
「連詩大興行」連載後は何とか立て直そうともおもったんだけど
用事のない日は、けっきょく自堕落な読書に耽ってしまった。
当然、映画など観ようともおもわなくなる。
ただ「文字」のみから「狂」に連接されているので。

以下、アタマのなかに溜められなくなったそれらの読後感備忘録。



【① 7月9日、松本邦吉『発熱頌』(00年/書肆山田)】
久谷雉の発案で飲み会の前に連詩メンバーと時間潰しに
池袋リブロ内、ぽえむぱろうる跡地の、詩書中心の古本屋へ。
神保町小宮山書店の詩書コーナーが半分出張した恰好だった。
『発熱頌』は定価2800円のところを500円で購入。
なぜか池田敏春への著者献呈サインがある(笑)。
僕は「書紀」メンバーでは松本を熱心に追ってこなかったが、
小池昌代さんに薦められた『灰と緑』が素晴らしく、
食わず嫌いをやめようと決意しての購入だった。

一頁ごとに語数の少ない散文詩が
版面左右中央、余白たっぷりに刷られている。
詩の着眼は微妙&丁寧、ときに冥暗で、ときにエロチックだが
80年代の「気風」を継いだキレイな詩が並び、
00年代の詩集にしてはナイーヴだとおもった。
ただ「高官」詩人のような野郎自大が、この人の場合資質的にない。
好感裡に読了。また開くかもしれない。

【② 7月9日、瀬尾育生『モルシュ』(99年/思潮社)】
前書と同日に購入。定価2200円のところ1000円。
瀬尾さんがランズマン『ショアー』騒ぎのとき、
まずは石原吉郎のエッセイから個人性を剥奪された死の無惨をいい、
返す刀でランズマンのユダヤ的な「偶像不在」が
ナチスの頽廃芸術展での焚書と同じ「敵の論理」に乗っていると
喝破したのは一部で話題となったはず。
その時期の詩作=思索が、この詩集では集成されている。

瀬尾さんのその後の詩集『アンユナイテッド・ネイションズ』は
連詩の会でも森川雅美さんと僕が話題にした。
森川さんは批評用語と詩語の混在を絶賛する。
僕は瀬尾さんの詩集の愛唱性と再読誘惑の少なさに疑義を呈し、
一方でドイツ文学者としての瀬尾さんの評論の突出をいった
(カネッティやベンヤミンを
これほど有効的に文脈へ援用する人はいない――
そして瀬尾『戦争詩論』は間違いなく最近の詩史書中の金字塔だ)。

相変わらずの散文詩。
『アンユナイテッド』よりも『モルシュ』は読みやすい。
単純に、分量が少ないせいだ。

炙り出しのように現れてくる無彩色で重いイメージは素晴らしいが
瀬尾さんの「息」について考える。
行分けをしない瀬尾さんの息は散文の句読点の狭間に
微妙に揺曳していて、そこを掴まないと詩を本当は肉化できない。
緊張と疲弊をしいられる。
しかも「語調」や「喩」で読者を陶然とさせることも禁欲される。
瀬尾さんは「るしおる」での稲川方人との対談連載により
稲川さんと、ひとからげにされることが多いけど
実はその詩に前提される「気風」が見事に掴めない。
圧倒感はいつも保証されているのだけど
僕はどこかで愛着を諦めてしまうところがある。論文集とはちがう。



【③ 7月10日、堀切直人『浅草・大正篇』(05年/右文書院)】
発端は今春、女房とウォーキングに行ったとき
新小岩の古本屋で買った堀切『浅草・戦後篇』だった。
ずっと積ん読にしておいたのだが、
ちょっと前に読み出したらひたすら圧倒された。
浅草の詳細と匂いと地勢を伝える文献の引用、
ほとんどそれのみに原文はよっていて、
それらを連接する堀切直人の地の文は極度に控えられている。
街を実質化するため、文献を無作為に引用してゆくやりかたは
ベンヤミン『パサージュ論』をも髣髴とさせて
慧眼・坪内祐三はその旨、ちゃんとどこかに標したらしい。

その『浅草』は上記に加え『本篇(戦前篇)』『江戸・明治篇』と
4部作で構成されていて、一頁50字詰×19行の版面。
とても現代の版面ではないくらいの詰まりようだが(笑)、
各巻が大体、400頁もある。
よって4部作全部を読むと『失われた時を求めて』を
半分程度読んだほどの分量になるのではないか。
それでいて、一切の疲労感が来ない。
それは堀切さんの文学愛と資料渉猟力が並大抵ではなく
「土地」の匂いが蔓延して五感が魅了されてしまうためだ。
「私」は実在として消えた時空をさまよう。

当然、知られていない「エピソード」に動悸することになる。
浅草十二階(凌雲閣)は、明治期には大したランドマークだったが
大正期にはもう陳腐化していた(それは震災で崩壊する)。
その足元に伸びる悪所「十二階下」を
文人がどう通ったかがこの巻の検証方向のひとつとなる。
石川啄木ローマ字日記のローマ字の向こうに秘匿させていた
売笑婦を媒介にしての、啄木の暗い自己蕩尽熱と女性蔑視。
それは息を飲むが、フェミニズム的に道義非難をしても始まらない、
「地獄に堕ちる」情熱の凄さが何から来しているかを
堀切は周辺文献も絡めて見事に炙り出してゆく。
この啄木と堀辰雄にかかわる記述が本書の偶像破壊の双璧だった。

堀切直人は、澁澤龍彦一家の丁稚格、
専門は日本(幻想)文学に特化したひとだとおもっていたが、
大きな誤解をしていたとおもう。
博覧強記をそうみせず
「引用」が馴染んで透明化してくるという意味では
草森紳一の凄さと比定すべき才能だったのだ。
一行の裏打ちに異様に元手と手間がかかっている。
このシリーズの完了は05年。
出版文化的に最大に慶賀すべきことなのに
何かの賞を獲得したと聞いたこともない。摩訶不思議だ。
文学と土地について思考したい向きには今後永遠に
必須文献となるだろう(森川雅美さん、読んでみては?)。



【7月15日、古谷実『わにとかげぎす』第4巻】
『わにとかげぎす』は今年の立教/早稲田のJコミック講義で
そのときまで出ていた第3巻までを扱った。
若い女の美的形象に不穏な形象を混ぜる画柄の混在性、
そして「人生の蓋然性」を念頭に置いたストーリーラインは
3巻まででも『ヒミズ』『シガテラ』と同等のものが貫かれている。
しかも『わにとかげぎす』では3巻冒頭まで活躍した主要人物が
一旦「リセット」される。
そうなると『シガテラ』同様、人物の「再登場場面」の圧倒感を
当然、期待することになるが、
この最終巻ではそれがついに訪れなかった。
どうしちゃったんだ、というほどの流産の印象。
サイトを見ても、「失敗作」の評が渦巻きだしている。
平凡な人間が巻き込まれる運命の非凡という主題設定が苦しいのか。
結局、2巻ラストから3巻冒頭、
「事件」が運命の蛇のようにゆっくりと/唐突に
渦を巻き始める不穏さ以上の場面がその後、登場しなかった。

「わにとかげぎす」は中海域に棲息する海魚。
中海域は明るく、捕食されるのを避け自身の魚影を消すためにこそ
その魚は発光機能を用いるというのだが(面白い習性だ)、
「シガテラ」の毒連鎖や、
「ヒミズ」の、モグラとちがう半地下性といった
題名とマンガ主題との微妙な連関も感じられなかった。
魚名には「わに/とかげ/きす」のキメラ合体があるが
ストーリーの捌きにキメラ性も感じられなかった。
古谷実は自己変革期に入ったのだとおもう。



【④ 7月15日、森川雅美『流れの地形』(96年、思潮社)】
【⑤ 同、森川雅美『くるぶしのふかい湖』(04年、思潮社)】
13日金曜日に三村京子のワンマンライヴが下北沢レテであって
(三村さんは2時間20分の長丁場を唄いつづけた――
曲の持ち数の多さとともに声がつよくなった点に驚嘆した)、
そのとき同席した森川さんからじかに恵贈を受けたもの
(その日、森川、三村、阿部は下北のお好み焼き屋に朝までいた
――kozくんは試験準備のため途中で帰った)。

僕は森川さんの詩が地名を契機に想像を羽ばたかせることは
何となく「知識」で知っていたが、詩集自体は初見参だった。
森川さんの詩語はいい意味で硬質だとおもう。
たとえば短歌的喩を内在させると、
もっとしなやかな語の連関も生ずるのだが、
たぶんそういった点にも拘泥しない。

『流れの地形』は永福(町)。
善福寺川が一帯を貫流していて、
その水の流れが、他の「水の流れる場所」をも召喚してゆく。
空間の広がりがそうして付帯してゆく。
「他の水」への意識、「水はもう流れてしまっている」という諦念、
それらが『流れの地形』冒頭2行、
《「事後を生きよ」と/ささやく声があり、立ち止まる》
に結実している。
「立ち止ま」れば、「記憶」が存在を浸潤してくる。
「水」に領域をつないだ身体や思考は
半透明化や失踪を予感する不如意にも包まれる。

ただその主題は現代詩では一種の常套にもなっている。
僕の感想では、『流れの地形』は詩想がその域を出ず、
その範囲で周回している。
その「周回」に水の属性が現れるといっても
詩の「意味」は次段階へと突破しなければならない。

で、突破したとおもうのが『くるぶしのふかい湖』だった。
そこには「爆発」の瞬間が待ち構え、
一旦「爆発」が起きると水に限局されない地上が出現し、
同時にその時間が罅割れだすという圧倒的な運動が起こる。

僕はマイミクさんの作品は
できるかぎり日記で詳細に考えることにしている。
日記の機会性がそこにこそ現れるとおもうからだ。
幸い、前回の僕の日記のコメント欄では
森川さんと「詩の語調」「行の運び」の話になった
(皆さん、見落としはありませんか?
僕は女房のPC仕事の合間にそそくさと書き込み欄に打ったので
すごく打ちミスが多く、恥しい)。
何か他の媒介項もつかい、「語調」「運び」の着眼で
『くるぶしのふかい湖』論をいずれ書いてみようとおもう。



と書いたところで、規定字数に日記が達してしまった。
よって「最近読んだ本」については
明日以降、また続きを書くことにします。

今週の僕は「採点」に一心不乱にならなければならない。
今日はまず、
期待の立教文思一年生の期末レポートから採点するつもりです。

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2007年07月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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