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小川三郎・流砂による終身刑 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

小川三郎・流砂による終身刑のページです。

小川三郎・流砂による終身刑

 
「詩手帖」の次号用に、
小川三郎さんの詩集
『流砂による終身刑』評を書いた。
昨日、編集の亀岡さんからファックスが来て
行間詰めレイアウトパターンにすれば
あと六行増やせますというので、さっき増やした。
大切な言葉「不如意」が元原稿に組み入れられず、
すこし後ろ髪を引かれていたので
この亀岡さんの提案には助けられたのだった。

書評原稿には詩集への総体的見解をしるした。
繰り返しになる部分を省くと
小川さんの今度の詩集は、措辞が正加算されず、
ズレてゆく不如意を
そのまま独創的な詩法に転化している面がつよくなった。
こうした曖昧体と、措辞の病性によってこそ
じつは味読が繰り返し誘導されることになる。

詩作者とはたぶん、どこかでセンスを競うもので、
小川さんの措辞の病性の幅がごく「小さい」こと――
ここにこそ小川さんが自負しているはずのセンスがある。
僕などは世界観の大きい「粗大」な詩など
齢のせいかもう感覚的に受けつけなくなっていて、
形成する対象の「小ささ」に、
反射するように映しこまれる詩作者当人、
その身体のかけがえのなさに釣り込まれるところがある。
小川三郎はそういう機微のつくりかたが見事なのだった。

小川的な詩行加算の魔法については
字数の問題もあって
「詩手帖」の書評にはほぼ何も書けていない。
だから、以下では一篇を全篇抜き、それをもとに
小川さんの詩法につき実体的に検討してみようとおもう。
集中「段差」を、行数を頭に付して引用する――



【段差】


1 手詰まりの予感に
2 夕べの延長に
3 活路は手前の路地へと曲がった。
4 その声がまた
5 しんみりとしている。

6 鉢合わせを期待させた烏が一ぴき
7 電線の上で一声鳴いて
8 それで全てが済んでしまった。
9 肉体は繋がりを持つものではない。
10 心もそれと同じこと
11 とっくに海へと流れてしまった。
12 私はガードレールの上に残され
13 混沌としている
14 と、

15 いつかの花が
16 アスファルトを破って咲いている。
17 目と目が合って
18 逃げ出したらば
19 そこに車が飛び込むのだろう。
20 胡散臭い話だ。
21 熱っぽく語る詐話師が私の中にいるのだ。
22 何処までがその目論見だろう。
23 最早それを知りたくもない。
24 ずっと花を
25 踏みつけていたい。

26 なんなら
27 掴んでいるものを放してみようか。
28 恐らくそれは
29 拳の端から飛び出して
30 万国旗を連ね何処までも伸びるのだろう。
31 しんみりと胸が辛くなる。
32 付き合いきれないほど明快な結末だった。
33 それが作り出したものは
34 茶番と責務だった。

35 目の前の道路一杯に
36 掴み合いをする人々が犇いている。
37 私はガードレールの上に座って
38 その成り行きを眺めている。
39 私の相手は何処にもいない。
40 あの動き方を拒んだからだ。
41 いきおい、知る権利まで放棄した。

42 それを後悔はしていないけれど
43 迎えの車が
44 これでは入って来られないではないか。
45 でもいいや。
46 私の足の下には最早花など存在しない。
47 仮にあったとしてもそれは花ではない。
48 藻屑と消えた余禄の日々
49 傘を差して
50 人目を避けて
51 二つ先の路地を折れる。




冒頭聯(1行-5行)の文法破壊性は
瞭然としているとおもう。
3行目、「活路は」の主語設定がまず奇妙なのだった。
ここまでには作為的な片言がある。
読者は次のように補正して読むはずだ。
「手詰まりの予感をおぼえ
夕べを延長し
そうして活路を得ようと
(私は)手前の路地へと曲がった。」。
省略可能な主語「私」の出番は
妙な主語「活路」の登場により抹消される。
自己抹消の匂いがはやくも発せられる。
そして「活路」-「路地」に膠着連関が生ずる。

4行目、「その声」の「その」が
何を受ける指示語なのかも、文法的に確定しない。
文脈の跳び。脱臼。
しかし「私」が聴覚存在として
「しんみりとしている」様子は伝わる。
ともあれ、「路地へと曲がる」「小さな」動勢で
詩篇が開始されたのだった。

たぶん「その」の指示対象は
掟破りにも後続する語群のなかにあった。
6 鉢合わせを期待させた烏(からす)が一ぴき
7 電線の上で一声鳴いて
その烏の鳴き声がたぶん「しんみり」させたのではないか。

「電線の鳥(とり)」といえばレナード・コーエンの名曲。
そこでは「電線の鳥のように・・私は〇〇した」という構文があって
比喩で私と鳥が繋がるのだが、
小川は9行目《肉体は繋がりを持つものではない。》と
それを言下に否定してしまう。
この一種の不機嫌は現在的な気分だとおもうが、
10行目《心もそれと同じこと》がさらに追い討ちをかける。
物心両面の連接不能性という不如意のなかに定位される自分だ。

11「流れてしまった」、12「残され」という動詞の選びに
不如意感はさらにはっきりしてくる。
第一聯での場所の指標だった「路地」は
いつの間にか第二聯では消滅して、
ただならぬ曖昧体が出現していたが、
12行目「ガードレール」で
詩篇名「段差」を実体化する措辞が出てくる。
12-14《私はガードレールの上に残され/混沌としている/と、》
という行の運びには明らかな独創がある。
同時に「私」を自身、塵芥に擬しているような不敵さもある。

「流れて」「残され」――この「私への設定」から
僕が憶いだしたのは、
テレヴィジョンのバラード「Carried Away」だった。
同時に「ガードレールの上」という「位相設定」に感じたのは
はちみつぱいのバラード「塀の上で」だった。
僕は小川さんがロック好きなのは知っているが、
そこからの変型引用をどれくらいおこなっているのかはわからない。

むしろ通常の詩作者なら、
11行目「海」に着目しながら
12行目の「ガードレール」を、
「ボードレール」の変型と感じるのではないか。
いずれにせよ、「流謫(るたく)」の色彩は
この段階でもう横溢しだしている。

もうひとつ、「流れて」「残され」の動詞2形態により、
自動=受動という「接合」が生じる点にも注意したい。
つまり「流謫」とは運命であり、同時に自己意志なのだった。
この二重性によってこそ、
小川の詩が不如意を形態的に描くということにもなる。

――もっとペースを飛ばそう。

第三聯15-16行《いつかの花が/アスファルトを破って咲いている。》。
「ど根性大根」云々とマスコミで喧伝されたもの、
この領域に小川の視線が滑り込んでゆく。
そんなのはじつはどこにでもあるものだが、
何かそのけなげさが人を意気阻喪に導く。
当人にとっては単に「逃げ出し」(18行)たらいいのだけれど、
運命のクルマ(43行でも「迎えの車」として再登場する)が
代位的にそんな「けなげさ」を蹂躙してゆくだろう。

「私」は自分の不作為の跡地を事後的に臨む傍観者で、
その際の倫理破壊を不感無覚にしようとも目論む者だ。
その成行、もしくはそうした自分自身をも
20《胡散臭い話だ。》と唾棄するように吐き棄てる者でもある。
このときの感覚の不如意は、流れを再確認すれば自明なように
やはり文脈進展の突発性-不随意性と「精確に」リンクしている。

21《熱っぽく語る詐話師が私の中にいるのだ。》。
自身のなかの「悪」をこのように披瀝する者の二重の悪。
なぜなら「偽悪」もまた「悪」の一種だからで、
しかしここに「偽善」を対比させると
もう「善悪の彼岸」までが生じてしまう。

それに人はもともと「詐話」しか操れないのではないか。
「私」がそれでもしたいのは「悪」の定着だった
――「飛び込」み、蹂躙してゆく「車」よりも先験的に
アスファルトを破って咲く「花」を踏んでいたい。
しかしその位置に「私」を置けば
「私」は「花」より先に、車による衝突死を描くことになる。
「片言」によってはぐらかされているが、
ここで張り巡らされる善悪の哲学は熾烈だった。

20《胡散臭い話だ。》という悪意の不意の点綴によって
詩文脈が「折れる」というのはもう小川三郎の十八番で、
それは次の第四聯、《付き合いきれないほど明快な結末だった》
(22行)でも同様の衝撃をもって現れる。

第四聯の詳述はしない。
「自己分岐」が思索の対象となる、とだけいっておこう。

「私」はこれまで詩篇内で秘匿されてきたが
拳のなかに何か
(恐らく「自分自身」や「行為の鍵」というべきもの)を
把持していて、拳を開けば自己拡張が始まると信じている。
ところがそこで繰り出される比喩は
手から次々に万国旗の連なりを引き出してゆく
「手品師」を対象にしたのだった(30行――明示的でないが)。
21「詐話師」と30行目に隠れている「手品師」が
暗々裡にぶつかり、「私」の虚偽性(魔法性)を確定する。
(31行目「しんみりと」が5行目「しんみりと」と
遠隔呼応なのにも注意しよう――僕にも実作経験があるが、
行の運びに、用語誘導による脱臼や不如意を仕込むと、
用語は自らの展開の病性に焦れて、
メインテーマ的回帰を果たそうとするものなのだった)。

第五聯(35-41行)の詳述もしない。
またも「段差上の傍観者」として
「ガードレール」もしくはボードレールのうえに座る「私」がしめされるが、
「私」はボードレールの精神的兄ポオのように視線を群衆に移し、
「群衆の中の孤独」を味わっている。

群衆が動けばそれは乱れつつ推移する音楽的現象となる。
「私」はその誰とも「繋がり」(9行目参照)をもてないが、
疎外感とは無縁の位置にいる。
「達観」の危険に発火しそうな自身、その成行を
他人事のように愉しんでいるにちがいない
(そのようなことは何も書かれていないという反論もありうるだろうが、
小川の乱暴な語調は、そうした言外の意味を発散させてゆくとおもう)。

ただし群衆はそこでは「掴み合い」(36行)をしている。
小川はその「動き方を拒ん」(40行)でいる。
彼の存在は不穏だが、乱をこのむかたちへは直結しない。

ともあれ、「知る権利」をくだくだしく主張する一般と異なり、
第五聯で「私」が「知る権利」を放棄したという一旦の意味確定がくる。
明示されなかった「ど根性大根」的なものもふくめ
「私」の立ち位置が、マス的趨勢を批判する「段差」に
設定されているのはもはや明白だろう。

第六聯(42行~)は「知る権利」の放棄について
後悔していないという自負から始まるけれども、
43-44《迎えの車が/これでは入って来られないではないか。》
という自身への危機意識が、
そのつげ義春的口調とも相俟ってすごく奇異に映る。
「迎えの車」は「私」を轢殺する媒介だったことを憶いだそう。
群衆=世界との関係性を絶てば、
「私」からは死の可能性さえ失われる――
このときにこそ孤独/孤絶の道義的な不利が定着されるのだとすれば
小川の世界認識は逆説的で、かつ強靭・詩的なのだった。

それと7行目でレナード・コーエン「電線の鳥」を連想した僕は、
42行目「迎えの車」に、
コーエン「チェルシー・ホテル♯2」で歌中のJ・ジョプリンを待つ、
「迎えのリムジン」をふとイメージしてしまった。

というのも、小川の発語が散乱的で、
しかも「小さく」文脈形成を拒否する悪意をもって行内に置かれるから、
言葉そのものが浮きあがって、
詩自体とは「別に」像を乱反射させてゆくのだった。
これが真の詩性を達成しようとする彼の意志に
密接に関連しているのはいうまでもない。
僕自身の作法とも似ているが
「自己抹消」に暗さがあるか明るさがあるかの差異があるとおもう。

最終第六聯(42-51行)で僕が戦慄したのは、
意図的な自堕落として挿入された45《でもいいや。》だった。
こういうゾッとさせる文言も小川三郎の独壇場だとおもう。
けれどもこの片言性のつよい「でもいいや。」の自嘲によって、
詩篇はきれぎれでありながら、
最終的には次のような意味形成に達した。つまり――

アスファルトを破って咲くけなげな花を嫌悪する→
それでその花を踏むと、私はその位置を目標にされ、
迎えの車に轢かれてしまう→
ところが私はそうした花をけなげとする群衆とは感性的に離反していて
私は群衆にたいし知る権利まで放棄した→
すると迎えの車も私の存在を無化する→
そうなって私が踏んでいた花もまた無化される(46-47行)

いずれにせよ、小川の位置は詩中にふたつあった。
ガードレール(段差)のうえで孤独を味わっている者、
そして「ど根性大根」を折ってどこかに潜んでいる実際の「市隠」、
このふたつがそれだ。

ただ小川はそれでも、最終3行で、冒頭聯に回帰して、
「路地」に入る者の動作/歩行の懐かしさを称賛してゆく。
しかもそうした自己郷愁は、秘匿されていなければならない。
その気概をしめす最終三行は、
冒頭に回帰することで詩篇全体を閉じる機能をもちながら、
詩篇の余白に印象的に動勢をのこすことで、
最も小川自身の身体に読者の視線を移行させるものだった。
48行に「余禄」の語があるが、
49-51行こそが「余禄のように」美しいのだった
(「二つ先」という限定辞の素晴らしさに唸った)。
――再度転記打ちして、この稿を終えよう。

傘を差して
人目を避けて
二つ先の路地を折れる。
 

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2008年08月14日 現代詩 トラックバック(1) コメント(0)












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