詩集ふたつ
最近はいろいろ困憊していたが、さっきみつけた寸暇に詩集ふたつを読んだ。「男の詩」、という不穏なことをかんがえた。出たため息をうつくしいのではないかと自覚した。自分が女である気がしない。
さとう三千魚『貨幣について』(書肆山田)。マルクス主義的な題名だが、深層にはそれもあるかもしれない。生活雑記と日々の決算=金額提示が、かぎりなく単純なことばでつづられてゆく。日記体。生きる日々のほそい束。詩篇をまたがる反復にもってゆかれる。日をまたぐ同一性こそが真実だということだ。雑記でからだが定位されるのはなぜか。さまよいがあるためだろう。
松岡政則『あるくことば』(書肆侃侃房)。さまざまな、あるく。成熟したおとこのからだがアジアをあるいている。身体を処世することは、ゆく土地に散り散りになることだ。喰い、見て、声帯はからだの奥へ置く。《わたしは絶望が足りないのか。/それとも不埒が足りないのか。》。いや、両方とも足りている。それでも問うことが足りず、そこが清潔だ。だから問があるきだす。