FC2ブログ

ロック・バンドとは何か ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ロック・バンドとは何かのページです。

ロック・バンドとは何か

 
三村京子さんが、ロックバンドを運営していて、
いま結構、「有産的な苦労」をしている。

光永くん(ds)、タカヒロくん(b)は
熱誠タイプですごくガッツもあるのだが、
いかんせん彼らの多忙で、
レパートリーが増えない。
アコギ曲をロックアレンジに変化させるような
新鮮な創意にもいまだ乏しい面がある。

それで、ロックバンド形態でライヴを繰り返すと、
「反復」の病相がつよまっていってしまう。
三村さんの「どサイケ」なリードギターが轟いても
女の子をリーダーにした3ピース形態が
怖いもの知らずでスゲエ、にしても、
彼女のアコギ単独演奏ほどの色彩感が出ていない。
光永くんがいくらライヴ会場でPAに指示しても
歌詞がロック音でつぶれてしまうことも多いし。



ロックバンドとは何か。
多くのインディバンドを見ていると
ヴォーカルの歌詞が聴こえない点を前提視して
ひと色、もしくはバラード曲とアップテンポ曲のふた色程度で
パフォーマンスを乗り切ろうとする例に数多く直面する。

歌曲の斬新さ、歌唱の充実のうえに
バンドメンバー個々の創意が有機的にからんで
曲ごとに別地点に客を幸福に誘ってくれる
そんなバンドが意外に少ないのだった。

レコードを聴いてみる。
たとえばリトル・フィート『ラスト・レコード・アルバム』。
昔でいうA3に畢生のファンキー・バラード、
「ロング・ディスタンス・ラヴ」が入っているのだが、
ビル・ベインの電気ピアノの「揺れ」のあと、それに乗って
リズム隊が脱臼させるほどのシンコペーションを刻み始める。

それに発声法をダンディなウィスパー(引き気味)に変えた
ローウェル・ジョージの、
彼にしか実現できない唄いまわしがくっつく。
スラー、シンコペ、黒っぽいビブラート・・・
たとえばリズム隊のシンコペと
ローウェルのシンコペは同調しない。
その隙間のリズムの、微分的差異が
静かな曲なのに聴く者を白熱に導く。
「ファンキー」がそこから刻々と実質化されてゆく。
鳥肌が立たざるをえない。

大切なのは、これと同じ感触の曲が
リトル・フィートのほかにはない、ということだ。

ということでいえば、
二枚目『セイリン・シューズ』中の名曲「ウィリン」と
キャラかぶりする曲もない。
「テキサス・ローズ・カフェ」だって同様だ。

「一曲」にたいしてバンドメンバーが創意を振るった結果、
「一曲」の色彩が単独というか唯一無二で前面化する
--ロックバンドの有為性は
たとえばこのようなかたちで実現されてゆく。
そのとき最初の一音の衝撃すら保証できたのが
たぶん黄金期ロックのポテンシャルだった。

エルモア・ジェイムスでも何でもいいのだが、
50年代のシカゴブルースではバンド音の色合い全体が
ヴォーカルの個性と相俟って単純な紋章をつくりあげていた。
エルモアの場合は2パターンだった。
ブルーム調とバラード調。
その形式だけではロックバンドが商業的成功を見ないという
決定的な変化が起こったのが60年代だった。

その前のジャズの達成が意外に大きいとおもう。
クールジャズ時代のマイルスがこだわった「吹き出し」の一音、
これに影響を受けているのだった。
そこにすでに存在が賭けられ、
しかもそれが曲ごとにさらに別の
存在形式すらもたねばならない。

ビートルズを例にすると、この弾きだしの存在論は
いろいろにかたちを変えていったことになる。
たとえば「プリーズ・プリーズ・ミー」では
それはロックンロールから継いだギターリフとなった。
「ハード・デイズ・ナイト」ではそれが
コード構成のよくわからない
ちょっと中近東的な一発ストロークとなり、
「ヘルプ!」ではジョンの連呼を縫いながらの
コード進行の難しいヴォーカル入り前奏となる
(この部分は曲中、二度と繰り返されない)。

ビートルズのメンバーがさまざまな楽器をもちかえはじめるのは
『ラバー・ソウル』あたりからだが、
『ホワイト・アルバム』「クライ・ベイビー・クライ」で
ポール・マッカートニーが不協和音アコーディオンを奏でる一瞬で
ピアノを一小節程度転がし、
別の不協和音フレーズを「可愛く」入れた創意など素晴らしい。
曲の色彩を複雑にし、
同時にその複雑さをも定着させているのだった。

音楽をよく聴くひとはわかるだろう。
ある曲を記憶に反芻させようとすると、
意外に聴覚的イメージではなく、
色彩に代表される視覚的イメージが出てきてしまうのを。

ロックバンドとはむろん一体感だったり
グルーヴだったりが尊重されるのだが、
演奏力をアドリブで誇示しないのなら
曲ごとの色彩付与の創意がすごく大きかったりする。
むろん曲中の展開力も。

あるアルバムに入っている曲の色彩の一回性。
たとえばビートルズなら
『アビー・ロード』中「ビコーズ」以上に
「青い曲」も他に存在しない。

ロックが完全に身体性の音楽だった時代には、
スタジオ録音での加工はあったとしても二次的だった。
ジョン・レノンは、「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」録音の際に
山の頂上から響くようなヘンな声に加工してくれと頼んで
録音エンジニアを困らせたそうだが、
現在のクリックを主体にした録音のような
つぎはぎ感は基本的にない
(ビートルズ録音でのつぎはぎは、
ジョージのヴォーカルとかリンゴのドラム、
あるいはアレンジに凝りすぎた曲とかに限定されている)。

たとえばこないだの「トップランナー」に椎名林檎が出てきた。
彼女は、ピアノ、ベース、ドラムのジャズコンポをバックに
全曲を披露した。理由はヴォーカルの下手さが目立たず、
歌詞-歌唱の可聴性が高まるからでもある。

ところがたとえば、東京事変をバックに
林檎がMステに出演する場合は、
いくら練達のPAがいても演奏が空中分解し、
歌詞テロップがあっても歌詞そのものが聴こえない場合が多い。

林檎の最近の曲は多くルーツに依拠している。
そのルーツは番組出演でも伝わってくる。
ところが曲に最終的な色彩やふくらみを与えるのは
切り貼りを前提にした
ヴォーカルエフェクトの細かい単位での付与と、
演奏の貼りなおしなどレコーディングワークのほうなのだった。

Mステをみるかぎりでは
東京事変はバンドの実質を欠いているとおもう。
この実質とは恐らくすごく身体的なものだ。

ビートルズに話を振ったとき、
楽器もちかえ、を例示した。
その最高峰のひとつがザ・バンドの二枚目『ザ・バンド』だろう。

五人のメンバーは基本的に楽器配分が決まっているのだが、
あるときオルガン弾きがアコーディオンを弾くと
ドラマーがフラットマンドリンを弾き、
ピアニストがドラムを叩くなどの演奏シャッフルがおこなわれる。

それで、曲の表情・色彩が曲ごとに
ダウン・トゥ・アースな幅を保ちながら変化してゆく。
それでもからみあう三人の声の囃しかけは
ディレイ感覚を孕んだひきずるようなゴスペル調。

アルバム『ザ・バンド』は
基本的に録音がすごくモコっているのだが、
そのローファイ状態から迫ってくる
曲ごとの色彩付与、この創意が只事ではない。
ザ・バンドは「ルーツを作曲する」、というバンドタイプで、
彼らの持分の可変性はこの目的に向いて
まったく無駄を生じていない点が驚異なのだった。

ビートルズが嚆矢となり、ロックが商業的な定位を見たとき、
曲の「多彩さ」が売りとならざるをえなかった。
それで一体感にプラスアルファする
振幅ある色彩感が着目されだす。
これが唯一無二の身体性とからんで離れないときに、
そのバンドがバンド独自の価値をもった。

現在の三村京子バンドが闘っているのは
そうした価値を彼女らも獲得しようとしているためだ。

少女(vo+g)を前面に出した3ピース、というのは
たしかに画柄的にはつよいインパクトがある。
ところが三村さんのエレキギターでは
まだ曲ごとの色彩感をつくりだせない。
また、リズム隊との連絡もいまひとつで
複雑なリズムが刻めない。

しかもロック音に負けじと声を張り上げて
ヴォーカルからも曲ごとの色彩が失われる。
圧倒的なサイケソロを打ち出せる反面、
失うものも多いのだった。

それと三村さんのつくる曲の質として
イントロ当てクイズが成立するような
イントロの曲が少なく、
それでも曲ごとの色彩感が実現できていない。

3ピースバンドが成立するためには
ギタリストが「本当にひとりで弾いているのか?」
とおもわせるような多音を弾ききる奏法の厚みが必要で、
それはクラプトンがクリームをやりだしてからは
単なるコードストロークではなく、
やっぱりフレーズの問題となった。
ジミ・ヘンはそれを彼の色彩で踏襲する。
ブランキーの浅井健一だってそれは変わらないし、
曲ごとのギター奏法の幅ならば
クリームやエクスペリアンスよりも大きい。

3ピースバンドでの唯一の例外が、
坂本慎太郎のゆらゆら帝国だったが、
あの隙間だらけの音を有効にしていたのは
坂本のヴォーカルの演劇性で、
現状の三村さんにそれを期待するのは無理だろう。

--冒頭の自問自答にもどる。
ロックバンドとは何か。
その魅惑とは何か。

以上、つらつら書いたことで、
これが一筋縄では収まらないことだけがわかる。
ところがアマチュアバンドではこの「一筋縄」が多い。
それを知る三村さんは
いま躍進を期すべき時を迎えているのだった。




上で書き忘れたこと。

演奏にはまだうまく色彩感の幅をもちこめないけど
曲どうしの組成の幅なら
三村さんのロックバンドも驚異的にあります。

これは保証する



もう一個、書き忘れ。

うえで書いたことは
現在の詩論にも
適用できるとおもっています



【以下、三村京子の書き込みへのコメント】

そうなんだよね、
前の日記「共同制作について」にも関連することなんだけど
場(座)が演算の場になって、
個人の限界を超えるものが引き出されてしまうとき
それがバンドの実体となる。

ベースが入ればギターはベース音の厚みを強調する必要がなくなり、
たとえば上3~4弦で、
通常性から離れたフレーズを弾くことができる。
シンプルさに傾くか、複雑さに傾くか。
となって、ギターはベースに何かを預け、
自分の領分を変えることができるんだけど
そういうのがバンド音の色彩の実質、そのひとつとなる。

ベースは大事だよね。
それはギターの低音域の増幅・強調であるとともに
ドラムのリズムと合体して
ドラム・リズムにさらなる「付与」をおこなうものだから。

たとえばコード進展をもっともはっきりしるしづけるのもベースだし、
たとえばウォーキングフレーズをとるか否かで
曲ジャンルを先験的に規定するのもベースだったりする。

バンドの結束が精神性と呼ぶしかないものに負っているのは、
ビートルズが「お荷物」リンゴ・スターを
抱えつづけたことでよく考える。
彼はリズムがファジーだったし、
複雑なリズムパターンもこなせなかった。
ドラミングに「雰囲気的な隙間」がある。
ところがそれを、下支えの大きな要因にして、
音跳びの大きいポールのベースがそこに化合し、
結局はロックンロールから
ジャンル規定不能の音楽の実現へと飛躍しだした。
難しいドラムは、スタジオ録音だけなら
ポールが叩けばいい。

何にせよ、ビートルズは
ジョンとポールの声音を最大限に活かすため
音楽を豊かさに向け進展させていったような趣きがある。

リトル・フィートの初期と
ビートルズは、僕は意外に似ているとおもう。
三村さんのいってるビートルズの独自性というのは、
音楽における「コラージュ」感覚でしょう?
異質なものを連接させ、
驚愕と感動をあたえるというこの20世紀美術的作法は、
実はリトル・フィートにもすごくあった。
ただ、デルタ・ブルースからブギから、
ビートルズよりもルーラルなものを
リトル・フィートは多くとりこんでいったけど。
ローウェル・ジョージの歌詞発想は
自由度においてジョン・レノンにも似ている。
僕のサイトの「ロック訳詞集」を参照してください。

ディランのバッキングによってキャリアを確定したザ・バンドは、
ディラニズムのバンド的増幅・複雑化を考えたとおもう。
ただその本質は、バラッド(物語性のつよい、一色の歌詞世界)を
ロック歌曲にどう変貌させるかという着眼にあって、
その際の方法選択が確実だったのではないか。

楽器の多元性を織り込んで
ルーツ自体への崇敬を倍加する
(これは現代詩に
詩歌からの恩恵を盛り込む作法に似ている)。
そのためにメンバーの楽器分担に可変性をもたせ、
ヴォーカルの調和で、最終的な一体性の芯を得る。
だからザ・バンドのポテンシャルの低下は
3人ヴォーカルのゴスペル的掛け合いが減ってきたときに
あらわだった。

そういえばザ・バンドはビートルズのリンゴ同様の
「お荷物」を抱えていた。
リチャード・マニュエル。
ただしそれは彼の飲酒と嗜眠とメランコリーによるものだった。

三村さんの歌曲はジョン・レノン型もあるけど
ザ・バンド型もある。
ただしザ・バンド的アプローチは
3ピースバンドでは難しい。
ギター、ドラム、ペースそれぞれに
音楽ジャンルのルーツ設定ができるか、
という問題になってしまうからで、
ザ・バンドならリズム隊はキープをおこない、
キーボードと、アコースティックな非ロック楽器で
ジャンルの色彩づけをおこなった。

ただ、それでも3ピースバンドのギター奏法は、
ジャンルの規定がおこなえる。
かっこいいのは、ジャズ・アプローチだとおもう。

ともあれ絶頂期ザ・バンドが達成したことは、
「歌物」の高偏差値なロック化だったとおもう。
だからここにも三村さんが参照すべき金脈があるわけだ。

以上、まとまりなく
フラッシュアイデアを打ち込みました



いい忘れた。

もう一個、現代的なロックバンドの行き方としては
「ロックがもう終わった」と、死相を演奏に籠める方法がありますね。
ウィンターボトム『9 Songs』などでは
もう本当に観ている自分の肌が冷え冷えとした。

ロックは自己(ジャンル)参照性をつよくもつ。
アニメほどではないけれど、
ロックは内容のほかに、
「これはロックです」というメタメッセージももつ。

アヴァンギャルドロックの多くは、
そこにゆさぶりをかけるけれども
結局は、アヴァンギャルドの自己参照性へと回収される。
となって、ロック史を参照しつつ
そこから熱を奪い、展開を刻々の死相展覧に変えてゆく
ロックの「やりかた」のほうが
いまは衝撃性をもつなあ・・・とおもったりします。

ロックは、いずれにせよ「電気増幅」が要件ですが、
死相ロックはその「電気増幅」をクールに縮減し、
ヴォーカルも抑揚をとり除き
演奏や歌詞をリフに向け呪文化してゆく。

ただ、これは三村さんの行き方ではないね。

むろん新しいロックバンドの肌合いというのは必要。
僕はロック史からの転位を試みるしかない、とおもっていますが。

ああ、ここでもまた問題が詩作と共通してくる・・・



「死相」展覧ロックは色でいえば灰一色。
それとエフェクター的要件が
リヴァーヴやディレイになる。
これはむろん、身体性の自己否定です。
けれども彼らは「亡霊」としてロックに関わっているから
そこには主張の一貫性がある。

ただしバンドメンバーの
身体の取り合わせに
幸福な光暈の生じるようなロックのほうが
やはり正しいとおもう。

ロック的身体とは実は「情動」だけじゃないんだよね。
まずは「抜け目のなさ」。
これがさらに上位にズレると
「畸形性」という別問題も関わってくる。

「性」はそれらの領域への作用源となる・・



こないだMステでサザンの特集をやっていたときに
いろいろおもったことがあった。
もともとサザンは、桑田が
リトル・フィートが好きで、あんなふうになりたい、
といっていた初期に注目もしたし、
世界的にもキッド・クレオールなどに先行して
ロックへのラテンの有為な組み込みなども実現していったし、
「真夏の果実」など畢生の名曲があると認めるにも吝かでないんだけど
何しろ桑田の歌唱が自分の体感に沿わない。

これをバンド音レベルで言い換えるとどうなるか。

桑田の歌唱(発語)とバンド音のあいだには
「支え(支持)」とともに隙間があるんだけど、
その隙間の形状がごちゃごちゃで
清潔、かつ造形的という印象がないんだとおもう。
実はそうした造形性こそが、
共感覚レベルでの「スリル」に転化するんだけど
そこにどうしてもサザンというバンドは行きつかないんだよね。
ソリッドさが何かでずっと誤解があったということだろう。

しかもサザンはいますごく演奏的に退廃している。
楽器加算がルーティンになっているだけでなく、
リフ形成をホーン隊に預けちゃったから。
もともと弱かった身体性が
どんどん摩滅していっちゃったなあ、と
すごくぼんやりした印象をもちました。
女房はすごく懐かしがっていたけど(笑)。

音楽において言葉にしにくい「音の精神性」、
その難しさに直面した放映でしたね
 

スポンサーサイト



2008年08月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












管理者にだけ公開する