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柴田千晶・セラフィタ氏 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

柴田千晶・セラフィタ氏のページです。

柴田千晶・セラフィタ氏

 
詩集として出された柴田千晶『セラフィタ氏』は
単純な読後印象ではポルノグラフィのアヴァンギャルドとなるだろう。
アヴァンギャルドというのは、劣情をそそる性的(内的)描写が不在、
主体としてしめされる対象実在性も幻想性へとからげられ、
なおかつ、奇態な妄想にのめりこもうとする「こちら」を
夢の挿入や異空間の連鎖で
ずたずたに寸断させてしまう悪意にみちているためだ。

それでもこれをポルノグラフィと呼ぶのは、
性的使嗾(とりわけ緊縛マゾヒズム)をもちかける「男性的他者」によって
「私」=主体の自己同定性が解体され、
そこにポルノグラフィ特有の機能的な物語の枠組が生じるからで、
(詩)文中、フランス書院の例示もあるが、
事態はポール・レアージュ『O嬢の物語』、
さらには幻想性の猖獗ということでいえば
マンディアルグの一部幻想短篇に味わいが似るということにもなる。

水準が複層性を保持したまま
同一平面にコラージュのように記述が貼られる。
例示として、詩集冒頭の見開きを転記打ちしてみよう。



セラフィタ氏



眼が乾く
空調の熱風をまともに受け
データ入力オペレーターの眼は絶えず乾いている
柏店婦人服お直し伝票125軒
東京店婦人服お直し伝票272軒
――VDT作業は一時間までとする
  一時間連続して作業した場合には少なくとも十分間の休憩をとること――
眼が乾く
四人のオペレーターは終始無言のまま
休憩時間もPC画面を凝視し
トランプゲームに熱中している
〈フリーセル〉No.29596はまだ誰もクリアできない

  雨降ればオフィスの午後は沈鬱に沈み深海魚として前世


眼が乾く
何処に居ても
眼が乾く(外気に触れたい)
(外光を浴びたい)
誰といても
眼が乾く(言葉を交わしたい)
(性交したい)



改行詩文体で書かれてはいるものの(本では途中からそれも稀薄になる)、
これが出自を異にするメモの、無味乾燥な同列列挙(混在)だという点は
一読にして判明する。
店ごとの伝票件数は仕事上のメモが記述へと外挿されたものだし、
(外気に触れたい)から(性交したい)までの括弧書きは
内心の声として逆に記述に内挿されたものだ。
「――」で挟まれた勤務規約は、おそらく部屋の壁紙から
そのまま記述の現在に侵食してきているのではないか。

偶有的な外在性が記述原理となること――
そうなったときの記述者の「眼」は、居場所の抽象性へと純化される。
しかしこれがぎりぎり詩的文章に飛躍するのは、
《眼が乾く》の俳句的五音がリフレインとなって
「外在」を内的定位へとたえず差し戻すためだ。

あらゆる水準の言葉が空間同一性のなかにコラージュされるというのは
哲学的記述、映画撮影日記、映画館の半券、
通常購入物のレシート、さらにはそれらと脈絡のない他人への悪罵が
糊付けも駆使して記述空間のなかに苛烈に同居していった
タルコフスキーの日記をもおもわせる仕儀だった。

さて、上記引用文には短歌も入り込んでいて、
これもまた作者の記名性の埒外から適用されたものだった。
現代歌人・藤原龍一郎の作歌からの引用。
現代的風景への視線を基準線にして
そこから疎外態を――とりわけ性的疎外態を
喩構造のうえに微妙にスパークさせる藤原の短歌は
以後も柴田の作成する詩篇のなかに繰り返し挿入されてくる。
この「挿入」という事態の性的な様相を意識すべきだろう。

むろん「歌物語」という古典文芸ジャンルもそこにおもう。
ただし藤原の短歌は相聞歌ではなく、
それでも柴田のしめす物語が(幻想の)性愛の進展だから
歌と(詩)文の接合面には詩的(現代的)「摩擦」が生じている。
『古事記』に挿入される歌謡もまた抒情歌謡で
それは歴史(神話)の心情的厚みを保証(捏造)したが、
たぶん藤原の歌が外挿されることで
地となる柴田の(詩)文には、(擬似)神話性が逆照射されることにもなる。
いずれにせよ、凝りに凝った複層性により
詩集の冒頭がこのように開示されていったのだった。

柴田の本業はマンガ原作だろうが、映画脚本の仕事もあった。
異質シーンの貼りあわせによって軋みを目すということなら、
ゴダールの融通無碍なシーン(ショット)連鎖も念頭に生ずる。



冒頭、「性的使嗾」としるしたが
現在的ポルノグラフィでそれを機能させる場所はメール(ネット)環境で、
しかもそれは「不審者」からのものでなければならない。
そのメール送信者が「セラフィタ氏」だった。
セラフィタ氏からのメールが一瞬、ゴダール映画の苛立たしい組成のように
スクラッチ的吃音をかたどってしまうこともあった
(事故に似た偶有性は、柴田的詩文のなかにあっては訂正・解消されない)。

《あなあなあなあなたのセックスは、益々散文的になってきてきてきているはずです》(12頁)。

「私」自身より「私の本質」を知ると任ずる者からの権威的容喙。
それはむろん疎外態だが、疎外態がこのように「吃音」を描くのだった
(ここにこの作品の現代性、その根拠のひとつがある)。
このセラフィタ氏のメール文では
「池袋西武ぽえむ・ぱろーる」で歌人「藤原龍一郎」が
「あなた」の以前の詩集を購入する姿を見かけたという記述もある。
そう、作品の多様な空間性に輪をかけるように
そうして作品にメタレベルからの迷彩がさらに施されてもいった。

ちなみに「セラフィタ氏」の語から誰もがおもうのは
バルザックの幻想小説『セラフィータ』だろう。
熾天使(セラファン)から命名されただろうこの主人公は
男には美女にみえ、女には美男にみえ、
そのどちらとも性愛が可能だという「境界上の」幻影だった。

この小説を読んでからもう30年ほど経っているので
細部記憶が定かではないが、
各人物とのセラフィータとの邂逅描写が多元的に進行するなかで
その正体把握を読者にあおる、
バルザックの大時代な19世紀的筆致に、
「やれやれ」とおもいつつ心躍った印象がのこっている。

相手によってこそ自らの性の所属がゆらぐこうした可変性を
とうぜん柴田の『セラフィタ氏』も継ぐ。
77頁、ついに幻想装置のなかでセラフィタ氏を間近に見上げた「私」が
そこに誰の顔を見たのかのヒントはまさにこの点に隠されているのだが、
詩書の結論部分を得々と綴る
手柄自慢の質を評者はもちあわせていないので
ここではそのセラフィタ氏の「正体」を暴かないことにする。

セラフィタ氏の対象選別に性的な自由のある点は、
12頁、《セラフィタと名乗る男と 私の/
セラフィタと名乗る男と 私の男との》という小さな記述にも揺曳していた。



「私」はセラフィタ氏の使嗾によって
とあるSMサイトの存在を知る。
この結果として、のちに中心的となる「坐禅縛り」に先行して
専門度の高い緊縛名が詩文中に列挙されだす(14頁)。
「高手小手縛り」「菱縄縛り」「後手合掌縛り」
「片足吊り」「三本胸部縛り」――じつに嬉しいことだ。

評者自身は緊縛SMの経験がないが、
金科玉条にしているのが平岡正明『官能武装論』に収録された論文、
「縛られて菩薩となりぬ」だった。
緩く縛り、対象が動くことで縛り目が硬化すること、
縛りの進展、責めの進展と同時に、
そこからの解放をもってフィニッシュとする眼目があること。

解放後には蕎麦を食い、食席での話にはジャズが合うとする平岡は
縛りの刻々、解放の刻々に、アジア的風が吹くのを体感していた。
縛り痕の肌への刻印に縄文文化への復帰を感じる向きも
別の映画監督の作品にはあった。

セラフィタ氏の縛りも西洋的拘束ではなくこの流れだろう。
だから本来ならばそれは唯物論的「物理法則」なのだった。
ところが「見られることでこそ自己同定性が溶解してゆく」という
『O嬢の物語』以来の西洋的主体論も当然ここにからんでゆく。



セラフィタ氏は「私」の記憶の隙間にいて、
私を――私の性の奥底にある嗜好を――監視する「不気味な位置」にいる。
だからそれは不気味な他人すべての場所へと代入可能になる。

私には性の恋人がいるが、
それが不気味な風合いを湛えだせばその「セラフィタ度」が上がるし、
私が歌の引用を依拠している歌人藤原龍一郎にも、
私が契約している派遣会社の嶋田久作似の「佐島」にも
私が手芸用の赤縄を大量購入したデパートの女売り子「霜村」にも
ティッシュペーパーに挟まれた弘前の放火犯の似顔絵にも
男との交接中にホテルの窓から見た丹古母鬼馬二似の男にも
水漏れを指摘して家屋に入り込んできた気味悪い戸別勧誘員にも
私の家の隣の空き地を造成する作業員にも
部屋をビデオカセットで埋め尽くし一時期を引きこもっていた私の兄にも
私が八重洲で垣根見た、異臭ただよう浮浪者にも、変貌できるのだった。

こうした対象変貌性は、私自身の同定性剥奪と当然に「対」で、
だから私の(詩)文も多様な別界面に容易に連接してしまうのだろう。

歌物語として正統な機能回復をする一瞬――

《スリーエフの駐車場に中古の赤いボルボを止め/男は私を待っていた》
という柴田の地の文は、藤原の以下の短歌と連接される(18頁)。
《起動音響くフロアの人工の光まばゆく性的悲傷》。

連句でいう「場所付け」。地の文で提示された光景が拡がる。
同時に「悲傷」は「ひしょう」と読むのか「ピエタ」と読むのか。
いずれにせよ、磔刑(縛りにも似た釘による十字架への身体固定、
そこからの解放を母が泣くこと)への連想によって縛り幻想が復帰し、
結果的に聖なるものとSMビザールとの連接が起こったうえで、
「私」が会う男の「セラフィタ性」が高められる余禄も生ずる。

一回の提示機能が一機能に終始しないこと――
これは幻想文学の「特質」だった。
小説的「伏線」にも似るが、そこにはもっと変型された何かがある。
この点を、順を追い説明してみよう。

まずは脱論理が平然と文中に紛れ込むこと。
32頁に好個の例文がある――
《生家の記憶というものが私には無かったが、でたらめに歩いていると/
奇妙に懐かしい椿の木が現れた。この家が私の生家に違いない。》。
「根拠」が他の箇所によって保証されない治外法権。
そうなっていい理由は最終的に一連が夢の記載という保証を得るからだ。

しかしいつしか夢という枠組を外されても
「私」の「無根拠」は次のような創意ある修辞へと変化してしまう。
60頁、《いや実際にはしてこなかったのだが、男にはそう見えたのだから、してきたのかもしれない、何事も。》。
引用では「してきた」ことが何だか不明だろう。
「見知らぬ男とホテルに向かうこと」だった。

連打されるものや連想には幻想的奥行きが付帯してゆく。
「ヒートアイランド現象」――その直訳「熱の島」――津島祐子「歓びの島」。
「歓び」の語からは、クロソフスキー『歓待の掟』の浮上が紙一重だ。

ある男と別の男の「一致」。
それはフロイトのいう「不気味なもの」の完成だが、
そのまえには類似性の連打が要るのだった。

評者のとりわけ好きな章(詩篇)に、
ニューシネマ由来ではまったくない「スケアクロウ」があるが、
略言するとそこでは、私の戸籍謄本で発見された夭折した私の伯母「時子」、
コピー機のガラス台に忘れられた履歴書、その写真部分にいた「マスクの男」、
それから開店前の日本橋丸善の前に置かれていた
顔部分を白布で隠された「案山子」が「一致」をみる

(柴田の記述はたとえば銀座中央通りの景物を丹念に追う様子に明らかなように
地上の具体的景物を抽象性には決して転化しない――
よって幻想空間を現実性が裏打ちする化学反応が起こるのだが、
こうした東京の地誌的連続性への執着は
『東京ボエーム抄』での倉田良成の作法とも相似だった)。

「一致」が基底層となって上位次元から降りてくる何者かの発語が
掟(命法)であると同時に、第一義的な意味で「詩」ともなる。
案山子が話題対象になれば、「私」がそれに合致するが、
44頁の男の科白「素っ裸の素敵な案山子だ。君をどこに置いて来ようか」は
あきらかに基軸の狂った抒情詩文であり、同時に「命法」だった。

32頁、(結果的にそうと知れる)夢のなかで生家と思しき場所を訪れた私は、
その家に現在住まう主婦から今年のカナブンの「異常発生」の話をされる。
主婦は詩文への外挿者として絶対に「ありえない」述懐をする。
「あの臭い、たまらない・・・まるで男と女が交尾しているときの臭いみたい・・・」。

これを前提(伏線)にして、
ジョン・レノン「イマジン」が念頭に置かれた罰当りの命法が
括弧付きの曖昧さの詩として、記述空間に内挿される。

(想像してごらん。網戸を食い破ったカナブンがいっせいにおまえの躯を目がけて飛んでくることを)



散文形を提示したうえで何が詩かを、身をもって問う熾烈さは
倉田良成『神話のための練習曲集』でも直面したことだった。
倉田の場合それは「練習文」がいかなる内在要因で自走ダイナミズムに転化しているか
――そうした瞬間瞬間によって測られたことだ。

柴田千晶の営みはけれども倉田とはちがう位置にある。

まずは異界面を記述空間に並列させて文それ自体から同定性を奪うこと
(これは通常ひとが考えうる詩の作法だが、
柴田はそれを確信犯的に幻想文学の成立要因とも交錯させてみせる)。

幻想物語全体に歌物語の要件をあたえることで、
一文が他者領域と容易に連接可能だとしめすこと
(ここで西洋的=幻想的ポルノグラフィと日本古典との区分破棄が起こり、
架空の「私」語りには短詩型的「私性」とのスパークが挑発的に生じる)。

さらにその上位次元には命法の生じる場所さえあって、
そこではこのポルノグラフィが詩的に黙示録化する第三の変型すら起こる。

このような多層性こそがここでは詩性として意識されるべきだろう。



最終章「西日デパート」は奇態なデパート空間を舞台に
「押絵」パターンの幻想小説と同様、私が限定空間に閉じ込められ、
そこで「見られること」のマゾヒズムを完成させ、
同時に、「私」をSMの煉獄へと導きつづけた
「セラフィタ氏」の顔が何なのかが暗示される白熱の「詩篇」だ。
しかし前言のとおり読者の愉しみのためここでは詳述を控えておく。

そこにいたる直前(64頁)に、散文形の隠れ蓑をかぶっているが
記述が最も詩に接近した小さな一連がある。
行分け形態に置き換えて以下に転記打ちしてみよう。



私は管
欲情を連結する
私は管
排泄されるための
私は管
二人の男に連結する
私は管
私は管
収斂を繰り返す歓びの管



自らを「公衆便所」として蔑視するM者の崇高な述懐でありながら、
同時に記述は稲垣足穂型の「人体空洞説」に背景を負っている。
ただそこには足穂的な宇宙論への接続がない。
この欠落にこそ『セラフィタ氏』の現代性の価値が宿っている。



初出一覧をみると、各「詩篇」はみな01年から02年の詩誌への掲載。
柴田は6年後にそれらを集成してこの書を世に問うた。
引用した藤原龍一郎への敬意もあったろうが、
自らのなした混在的文学様式が「詩」としか総称されえない意義を
現在の詩のフィールドにぶつけてみたかったのだろうとおもう。
営みの挑発性が素晴らしい。
 

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2008年08月21日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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