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阿部はりか・暁闇 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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阿部はりか・暁闇

 
 
【阿部はりか監督『暁闇』】
 
ギターとコンピュータをつかい、風のような、波動のような、透明感あふれるプログレ・インプロヴィセーション音楽をつくり、自らのサイトに楽曲をアップしている少年・コウ。家庭に母親はなく、彼に弁当代を渡す失意の父親だけがいて、そこに家庭内のやりとりもない。その父親は、クラスメイトには秘密なのだろうが、じつはコウの通う中学で教師をしており、持ち前の「声の小ささ」から授業中にもかかわらず男子生徒の攻撃対象になっている。そのようすを目の当たりにしてコウは怒りもしない。コウには熱心に言いよってくる同級の女子もいるが、やがてからだを交わすことになっても、コウの心は鬱々と晴れない。
 
前髪パッツン、つややかな黒髪ロン毛で神秘的な美貌をもつユウカは、両親が出ていったのか、その家庭内はゴミの荒れ放題で、生活費を稼ぐためか渋谷を根城に援助交際を繰り返している。クラスメイトはそれを知らない。誰彼構わず、ともにラブホに入るのを厭わないが、自活に逞しい雰囲気はない。現に彼女は、ベッドを共にする相手に、「首を絞めてほしい」と懇願を繰り返している。性的欲望のためではなく、たんに「死にたい」のだ。ユウカはコウの父親を偶然、援助交際の客にする。コウの父親は教員でありながら自分の生徒と同世代の女子の胸にその泣き顔を押し付ける、道義的にまず許されない振舞いをする。
 
小柄でふくよかながら、透明な顔立ちをもつサキは、「声が極端に小さい」。幸福に導かれそうなルックスなのに、そうならないのは、冷厳で、感情の振幅のおおきい父親の暴政に萎縮しているためだ。父親は娘サキを管理下に置こうとするが、夏休みに入り塾の忙しくなる時期にサキは言いつけにこっそり逆らい、三浦綾子の古い文庫本を次々に耽読している。内向的な性格。父母が不和なのに、その母親が頼りにならないのは、たぶん母親も父親の暴政の支配下に置かれているためだろう。すべてが好転しない点は目にみえている。サキの腕にリストカット痕があった。
 
孤立を凝縮したようなこの中学生男女三人の様子それぞれが最初、ぶっきらぼうなシーンバックの連続で描かれ、いましるした判明が徐々にスケッチされてゆく。シーンバックが予定する効果が「照応」だという点は熟知されている。それで孤独が累乗化され普遍化される。しかもたとえばユウカの家庭内放置、あるいは援助交際を、無音の1ショットで非説明的に提示してしまう演出の描写効率に戦慄が走る。ブレッソン『バルダザール、どこに行く』にもつうじるこの異様な圧縮力があるからこそ、映画全体の上映時間も1時間を切ってしまうのだ。ストーリーには、出会い、終焉、絶望からの打開の予感と、実質的な要素を三人分それぞれ盛られているのに、一瞬のクライマックスのほかすべての描写があっけなく、観客は「いま見えたこと」を事後的に物語へと再構成するよう導かれてゆく。そのなかで中学三年生役の男女三人のたたずまいがストーリーを超えて滲む、余白効果に遭遇するのだ。すべての場面は換喩的な「部分化」を彫琢されており、それが換喩的隣接性を超え、言語化しにくい位相を決定づけてゆく。
 
三人の出会いは以下の経緯によった。あるときラブホの部屋窓をあけて、ユウカは少し離れた場所に聳えるビルの屋上、そこにある要塞というか現代美術めいたオブジェ建造物に印象を奪われる。ユウカとサキはクラスメイトだが、元々は内気なサキの、周囲を拒絶する雰囲気により、交渉や対話がなかった。それがたまたま目にしたスマホ画面から自分たちがおなじ音楽サイトを愛聴していることを知り、ユウカのほうからサキに積極的に近づいてゆく。きっかけはその音楽サイトにアップされていた音楽が一挙にすべて削除されたことだった。代わりにというように、プロフィール写真に、例のビルの上の不思議な建物が入れられていた。その建物の場所を私は知っている、一緒に行こう、そうすればなぜ音楽がすべて削除されたかわかるかもしれない、とユウカはサキを渋谷に誘う。ここから映画『暁闇』は少年少女たちの想念に潜む「場所と時間」の映画という相貌をさらにつよめてゆくことになる。中学三年の男女それぞれの「存在」は、彼らの共にする「場所と時間」と関連付けられることで、画面に定着されながら、同時に自立性をうしない、その「跡地」に言語化不能性が揺曳することになるといえばいいのか。
 
当該のビルは、後に「廃ビル」と形容されることになるのだが、渋谷百軒店から円山のラブホ街方向に抜ける細い傾斜路地の途中にあると設定されている(70年代後半、この界隈の空き地に赤テントを張って状況劇場の上演があった)。屋上が出入り自由だという追加的設定もむろん現実的ではない。階段を辿り屋上へ出ると、そこは四囲を建物一階分くらいの窓付き防護壁に守られているが、のこされている脚立をつかい高みに身を置けば、そこから眼下の渋谷周辺が一望できる。夕方、夜。日のかけがえのない一回性を帯びた空気の流れが、その高さにしてこそあらわになる。90年代の屋上を、開放感にあふれながら、空の下に閉じ込められた実は幽閉空間としたのは宮台真司だが、やがて墜落死の忌避から多くの屋上は封印され、あずかり知らぬ位相に置かれてしまう。そうした「抽象的な屋上」が映画の「現実に現れる」。階段から屋上に辿りついたところの脇には壁のくぼみがあり、それはやがてサキの読書を庇護する場所にもなるだろう。ともあれ、ユウカとサキがその屋上に辿りつくと、そこにコウがすでにいて、彼女たちはその少年が音楽サイトの運営者だと一瞬にして理解する。驚愕するのは、それぞれ「絶望」に苛まれているのに、彼・彼女らは自分たちの苦衷語りはおろか、自己紹介すら交換しないことだ。彼らが選択するのは、「ほぼ無言で場所を共有する」、そのことだけ。黙契こそがもとめられていた。
 
遠くを眺望できる。俯瞰の特権を得られる。高さと静寂を混淆できる。地上とはちがう空気に包まれうる。誰にも邪魔されない秘かな解放区に身を置ける。より稀薄になれる。話しあう必要すらなく、ただ花火に興じればいい――それらを実現するその屋上が果たしてドラマ現実として定位されていたかには検討が必要だし、じじつ作品のラストでその空間の実在性に疑義を導くようなユウカと彼女のクラスメイトのやりとりもある。たとえば夜間の屋上では廃ビルなので光源がないはずなのに、屋上空間がぼんやりと明るんでいるのだ。そこから眼下の渋谷が見えたとしても、その光景が現実かどうかさえ曖昧だ。
 
あるとき――屋上にはコウとサキがいる(ユウカがいない)。コウはサキが夏休みの季節なのに長袖の服を着ている不自然をさりげなく問い、「さわりたい」という。目的語を欠いた不思議な構文。サキはコウのほうに近づき、その眼前で袖をまくってみせる。再び現れたリストカット痕。それをコウは愛撫し、「ザラザラしている」という。官能性に名状不能のブレーキがかかるこのやりとりが素晴らしい。自分の秘密をはじめて他人にさらしたサキがコウに抱きつくと、その肩越し、眼路やや低くラブホテルの一室がみえる。窓が開かれ、ユウカがみえる。ユウカがビルの屋上を見上げたかつての視線の「逆」が到来するのだ。サキの関心に気づき、コウも視線を「同調」させると、ラブホの窓から顔を出す人物が変わる。自分の父親だ。このときの視線形成の「逆」と「同調」がこの作品の哲学的骨子だ。この点の哲学的な説明は長くなるので省く。コウはサキを連れ、その一室からユウカを救出しようと猛然と地上を駆け出す。カットバックされると、ユウカはコウの父親に「首を絞めて」と懇願し、それを無気力ゆえか絶望ゆえか、コウの父親は実行しようとしている。どうなるのか。
 
何重にも張り巡らされた「ドラマ作為」によりクライマックスがそうして訪れようとしている。人物たちはそれに実は居心地が悪いのではないか。行為主体ではなく「存在の余韻」として、作品に残してほしいという訴えを聞いたような気がした。これでこそ作品が終われるというのは果たして正しいのか。ところが最も「存在の余韻」を形成するのは、幾度も観客を魅了した屋上空間だろう。作品に先験的だったのは、コウのつくったとして口実を与えられたLOWPOPLTD.の音楽と、たぶんロケハンで見つけられた不思議な屋上空間だった。どちらも現実的でない。そこに孤立三様のドラマを注入することで、叙述上の換喩が「位相」をつくりあげたことになる。点景が、物語ではなく空間配置=非連続を徹する。この製作発想が、現在的で鋭敏だった。それで女の子たちが揺曳状態で定着された。とりわけ若い女性観客は、この作品の余白に多くのものを視るだろう。
 
監督(脚本、編集も)は東京芸術大学卒業、現在24歳の新鋭、阿部はりか。山戸結希を継ぐ世代だろう。少女的崇高をふたたび水平性に再編成しつつ同時に列聖をおこなおうとする困難な試みに成功している。コウ、ユウカ、サキにそれぞれ青木柚、中尾有伽、越後はる香。コウの父親には、そういう役柄にうってつけの水橋研二が扮している。7月20日、渋谷ユーロスペースのレイトショーを皮切りに全国順次公開される。
 
 

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2019年07月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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