奥山大史・僕はイエス様が嫌い
【奥山大史監督『僕はイエス様が嫌い』】
無神論なりの敬虔、という宗教的主題がある。このテーマに子供の無表情が適合するのは、ロッセリーニの『ドイツ零年』でも思い当たるだろう。冬は雪深い僻地での小学校の木造校舎、紺のブレザーの小学生の制服、キリスト教教育と校舎に付設されたパイプオルガン付きのクラシックな礼拝堂、およそそんな道具立てのなかへ東京から小学校高学年の男児が転校してきて、当初クラスに馴染めず孤独をかこつというのが発端だ。廊下を奥行で捉える縦構図、階段の踊り場の窓の強調、渡り廊下、鶏の飼育小屋。学校表象がそのように静謐に自足するのに呼応するように、終盤に斜め構図が使われる以外は堅調なフィックスが多用される。たった二箇所の衝撃的映像のほかは、音も聖歌オルガンをふくめ静かだ。ネタバレにかかる要所はいくつかあるが、それだと何も書けないので、ふたつだけ開陳する。転校してきた主人公男児はサッカーの上手い同級生と親友同士となるが、彼は交通事故に遭う。それと小指大のイエスがたびたび主人公の前に現れる。聖書の上、回転するターンテーブルのLP盤の上、紙相撲の土俵の上など、遊戯的空間の上を選んで現れるイエスが何の寓意だかは判然としない。救済なのかどうかはともかく、イエスは無神論なりの敬虔のために、あるアクションの被作用域に落ちてしまうのだ。具体的にどうなのかは書けないが、リズムに予期的な変調がある。主人公の親友の怪我状態の進展を知ろうとする観客に、教室の様子が無前提の静態として二度現れ、意味のシンコペーションが起きる。作品は事実をあたえるが、意味の深層をあたえない。それで本作は映画のアレゴリーとなるが、それが小人のイエスの範疇を超越しているのが鍵だ。鍵穴はふたつ。主人公のことばのなかに、流星群を親友と連れ立って深夜観に行き、見えなかったのに見えた振りをして興じたと示されるが、そのいとなみが不敬虔で可罰的かというのが第一。ふたつめは障子に指穴を開ける行為が天国を見ることにつながるのかという設問。これらは解けないように、ねじれの位相に置かれている。監督はこれが長篇デビューの奥山大史。なんと大学在学中に本作を撮りあげ、サンセバスチャン国際映画祭で最優秀新人監督賞を史上最年少で受けた。 問題は奥山監督が、脚本、撮影、編集も兼ねていたということ。八面六臂の活躍を強調したいのではない。これらを兼ねることでいわば映像素材が自家薬籠中になりきったはずなのだ。だから監督は無関心な風情ながら血脈までもっている映像を、子供の無表情を中心に「親密」に織りあげた。それで非親密と親密が相互連絡したのではないか。作品の主題、無神論なりの敬虔、とはこの点に関わっている。そう気づいて事後的に感動が走った。そうして礼拝堂内のショットが当初均一方向からの引きだったのがそのうちどう変化したのかもおもいだした。それは構造変化的で、主体的に祭壇に上がることがどんなことかを最終組織した。無関心の証左というべく、佐伯日菜子が彼女だと視認できないまま作中で重要な役柄を演じている。ラスト、監督の着想を簡略に伝えるテロップに泣けた。7月28日、札幌シアターキノにて鑑賞