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「女子」という語  ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

「女子」という語 のページです。

「女子」という語



なんか、急にmixi日記が書きたくなって。
久しぶりのことだ。
本当は、日記再開に際しては
外部ブログとの連動をセットにするつもりだったんだけど、
この「衝動」を大事にしよう――「見切り発車」でいいや(笑)。
(誰か外部ブログ用のソフト、いいのを教えてください)

で、念願だった新たな筆法の開拓。
阿部嘉昭はここに宣言します。
1) 分裂的に(断章的に)書く。
2) ジャンル横断的に書く。
3) 「詩性」を配慮して書く。
4) 手早く荒く書く(執筆に1時間以上を使わない)。
以上4点をつねに念頭に置く、ということを。



お馴染、三村京子の新作CD制作が話題になって
新作のオビ文言について考えてみたりなんかした。
僕の出した仮の案は
《ポップな「女子」音楽の新境地!!》。
ハイ、(笑)という反応でOKですよ

三村の音楽については
以前は追求したい音の質感から
「ネオフォーク」という
キャッチフレーズを立ち上げていたんだけど、
これは彼女自身がロックぽい音楽に傾斜してきて、
少し過剰形容か形容矛盾の気味が出てきた。
で、精神内容に向けたキャッチフレーズのほうがいいとおもい、
捻りだしたのがこの《「女子」音楽》だった。



「女子」に「ギャル」とはちがう趣をかぶせる用例は
一体、いつからだろうか。
「ユリイカ」で「文科系女子」の特集があったのは
2年ほど前だったか。
以後、「監督系女子」など
悪ノリとおもえる用例拡張もあった。
僕は「女子」という言葉は「腐女子」の「腐」の字の欠落態、
つまり二次用例だとおもっているのだけど。
語感が、つるん、としているよね。

「女子」は「ギャル」以上に該当年齢幅が広く、
苦労し、勉学もし、シニシズムを知っている。
自分のロマンチシズムを冷笑できる二重性ももつ。
つまり、表れと内面の齟齬を高度に生きていて、
それで「表れと内面の齟齬を描く表象」には惑溺傾向をもつ。

一見、ポップ。
しかし近づいてみると、その座標軸が狂っている。
その際の論理性の崩壊のほうが実は耽溺の理由となる。

こういうものは数多くある。
僕はいま立教・早稲田でのマンガ講義でも
こういう表現上の不統一が
コマ単位で別に貼り付けされる
(参照系の意図的混乱の)事態を
学生の前に大写しにして、学生を挑発してもいる。
・花輪和一『月ノ光』
・同   『朱雀門』
・中村明日美子『鶏肉倶楽部』

カフカもそうだ。
厳密なリアリズム描写のようで、
それが絵画的な再現性をもたない。
寓意を形成するとおもえつつ
その結論にいたる筋道が欠落している。
隙間だらけの円環。
だからそれが「世界」そのものの感触と似てくる。

あるいは花咲政之輔率いるザ・ヒメジョオンの歌詞。
聴き知ったような歌謡曲=フォーク的な歌詞フレーズが
連続的に耳朶を打っていると、聴き手はまず感覚する。
ところが、それを歌詞カードでみると
完全に論理性が崩壊しているのだった。
騙し絵=トロンプルイユ。
ホルバイン『大使たち』の足許に歪む骸骨を想起のこと。



三村京子に話を戻す。

たとえば僕のつくった、
こないだのライヴでも評判のよかった
「しあわせなおんなのこ」について。
誓っていうが、この曲は
鑑賞体験を積むほどに印象が以下のように変化するとおもう。

「女の子っぽい」→「透明」→「静謐」
→「女子が女子たることに安住し居直っている無気味」
→「自堕落&奇怪」→「亡霊性」。
この最後の「亡霊性」をもって、
歌世界が最終的な「悲哀」へと反転する。
そのときの悲哀の色が「ぴんく」なのだった。

これもすごく意地悪な騙し絵。
花咲はたぶん、こういう三村曲の
トロンプルイユ性を評価しているだろう。

可愛いけど食えない。
この「不可食性」をどうするか。
《美は可食的だ――セザンヌの林檎は食える》と
名言を吐いたのが冴えていた頃のダリだった。
反面、デッサンの狂ったシャガールの絵には
一切、食べられるものがない、と
(当然、僕はこの物言いで、既存のフォーク性を揶揄している)。

ただ「可食性」については
別の観点がいま必要になっているだろう。

僕がトロンプルイユの音楽に覚醒したのには
段階化があった。
歌詞については最初がランディ・ニューマン。
楽曲についてはザッパ。
ランディ・ニューマン「セイル・アウェイ」を聴け。
あ、レノンの「アイ・アム・ザ・ウォルラス」もそうだな。
似たような感覚は、アナログフィッシュの佳曲にも横溢している。
ならばアナログフィッシュも聴け。



可愛いけど、そこに可食性がない――
こう書いて気づくのは、
これが「女子」そのものの拒絶的存在論でもあるということ。
簡単にペロッと食べられてしまう「ギャル」は
いずれ、水分を失って皺々になるもん。
その分、不可食性を堅持する「女子」のほうが
存在が長持ちする、ということになる。
となれば、「女子」はこの生きにくい現状にたいしての
自己防衛の方法でもあるわけだな。



となって、改めて腐女子の動向が気になる。
彼女たちは「情報の集積する場所」と
「そのちょっとの外延」とが大好きだ。
けれども微妙なことだが、
視野の中心にはやはり「まんま」があるのではないか。

たとえばジャニ・ヲタは「まんま」を許容したあとで
(そこには「世界」への平板な信頼がある)、
そののち、それを情報のやりとりのなかで
雪だるまのように膨らませ、
そのことで少数に適用可能な情報「通貨」をつくりあげる。
この構造にも「世界」への平板な信頼がある。

言い換えると、この構造は「まんま」の語尾活用にすぎない。
そう、自他の「トロンプルイユ性」を愛するような
ヤバイ「冷たさ」を欠いているのだった。



と書いて、ふと手許が心もとなくなってくる。
僕もジャニーズの一部を偏愛している。
たとえば、TOKIO長瀬智也は現在のJヒットチャート音楽では
最大のヴォーカリストだろう。
ではTOKIOの音楽にトロンプルイユ性があるのか。
答は諾であり否だろうとおもう。

それは、うまく定位ができない。
どこかで「計算」が濁っている。
定位できないもの、
あるいは無理して定位し、
そのことが美学の更新につながらないものは
扱いを拒否する、というやりかたもあるんだが、
こんなもんで、対ジャニ政策、いいのだろうか。

ということで、誰か、ご意見を
(後期の授業に活用します)



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2007年05月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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