入門演習の期末提出物
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今回は実名で行く。
いや、立教文思1年「入門演習」期末レポートの話。
先の日記アップから約3時間、ちんたらしつつ採点を終わって
僕はすこぶる、ご機嫌状態になってしまった。
面白い期末提出作品が実に多かったのだ。
で、その感想をここに書こうとする段になって、
「今回は実名で行く」という決意をしたのだった。
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しかし、僕の「入門演習」とは何の授業だったんだろ?(笑)
読書励行経験を文学部一年生に叩き込む、という目的は
他の先生がたとも共通していたんだけど、僕のばあい
テキストは強度があれば何でもござれ、ということで
評論(蓮実/ソンタグ)、小説(カフカ)、
古典詩(ロートレアモン)、マンガ(楠本まき)と進み、
果ては現代詩や現代短歌や拙文にまで移行していった。
しかも本来なら、
講義で扱ったテキストを考察するレポートを求めるべきところ、
出されたレジュメに対しレポートの勘所を自ら得々と喋ってしまい、
結果は「ロートレアモンのように書け」「石田瑞穂のように」
「荒川洋治のように」「若手口語歌人のように」という
横紙破りの創作課題を純真な生徒たちに続々と押し付けた。
人によっては「悪魔」だったろう(笑)。
となれば「レポートでも創作でも」という期末課題にたいし
生徒がよりキモチイイ創作のほうで向ってくるのは事の必然。
たったひとり律儀にレポートを書いてきた子すら
ケータイによって「コクリ」を中心とした恋愛行動が
どう変化したか、という軽チャー(古い用語!)ネタだった。
したがって期末課題群を読む時間が
良質娯楽雑誌を読みように愉しかったりする。
で、点も甘くなってしまう――悪い循環だ(笑)。
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評論を書くか作品を書くかという選択では許されれば後者で行く、
という最近の学生の風潮について。
実は僕は悪くない、とおもっている。
「評論」すら読んだことのない「若人」が
「評論の死滅」に見合った行動をするというのは
若さゆえの鋭い嗅覚のせいなのだ。
小説は読んだから書く、といったもので、
その前に批評意識の涵養は必須、という考えもあり、ならば
まず評論風のレポートを求めるべきだという慎重論もあろうが、
小説なぞ書いてから読めばいい、
破天荒なケータイ世代にウザったいことを夢見ても無駄、
恥しい思いをさせるのも親心、なんて、
残酷だか慈悲深いんだかわからんことを日頃考えている。
小説を読まない子だって小説を書く、というのは
もはや文芸誌文芸賞投稿者の趨勢でもあり、
「見る前に跳べ」は時代の風潮なのだった。
ところが「物怖じ」しないこの恐るべき世代は
そうした低いハードルをチラつかせると、
ヤサシイ顔して、けれども猪突猛進してくる。
初めて書いた小説なのに、何となく読めてしまう、というのは
もはや世代の才能の問題なのだともおもう。
彼らにはサブカル経験の裏打ちもあるし。
そうして習作期間なしにある程度の処女作を書き、
やがてはあたら才能をバイトによる疲弊で潰してゆく(笑)。
以後の概ねは「ただの人」だ。
この場合、「習作期間」の苦労のない点が裏目に出たはずなのだが、
苦労がなかったことで、自分の才能が徒過されたこともわからない。
幸福な世代というべきか否か。
そう、そりゃマズイぜ、惜しいぜ、というために
受講生マイミクがたくさんいるこの日記欄に
こんな文章を書き始めたのだった。
俺が意地悪か慈悲深いかわからん、といった迷彩は
さらに迷彩化されなければならないのは無論だ。
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感想は一気呵成にゆく。
高安美智さんと佐藤拓郎くんは小説を提出した。
それぞれが自身の恋愛体験を下支えにしている、とみる。
高安さんがたぶん実感型、拓郎くんが夢想型だ。
高安さんのはかつて覚えたプラトニックな憧憬によって
必然的に現行の恋愛が暗色化してしまう悲劇と
そこから逃れ出ようとする意志を素直な文体で綴る。
清新感が漲るのは、体験を元手や担保にしながら
降りかかる悔恨を払う小説の手捌きが素早いからだ。
ウルウルきた。ウルウルくれば、当然、評価が高い。
佐藤くんのはエラい文字数がある。50枚は超えているとおもう。
恋人の自立を助けることに目覚める大学4年生の話。
恋人同士、岐路にはトランプ占いで臨む、という伏線があり、
作品にある結末が出るのにそれなりの「タネ」があるのだが、
それが実にクサイ(笑)。
あげつらえば《かぶりをふった》《ホッペを膨らませた》
《今にもホッペが落ちてしまいそうな笑顔をこぼしてから》など
人の仕種・表情をしるすとき壊滅的な時代錯誤もあるのだが、
恋人同士の出会いが作中で回想されたとき、
男のほうが紙コップのコーヒーをゆっくり飲むことに対し
女のほうが「猫舌なの?」と訊き、
それに男が洒落た迂回の筋道で、ちょっと衒学的な答え方をする。
しかもそれが「迂回そのものの効用」を言い当てる。
ちょっと村上春樹の「味」だ。
愚かにも僕はそこで掴まれてしまい、
結局は別々の道を歩むことになるこのカップルの経緯に
ウルウルきてしまった。書いたのがあの拓郎くんなのに(笑)。
ちょっとした行き違いで女のほうが一旦音信不通となり、
それが回復されるときの人物と場所の出し入れに
意外性、音楽用語でいうシンコペがあって、
そこに強い現実感と達者さを覚えたからかもしれない。
拓郎くんの小説が長いのは彼のケータイ早打ちで予想していた。
彼は僕の授業中にケータイメールを速射砲のように打てる点を
身をもって実証してみせたのだった。
それは手が速いだけでなく「言葉が溢れる」ことの証左。
ところが饒舌癖が小説になく、誠実な詳細だけが並んでいた。
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講義中の僕の狂言綺語に狂言綺語をもって報いる猛男猛女もいる。
以下、順を追って――。
久保真美さんの短歌。
《一時の着信音が何故こうも揺さぶり続けるのか。見苦しい》
《印を結ぶ手は自らの涜聖をやめようとしない。それが美しい。》
《曼珠沙華を眺めつつまた夢の入り口。あるいはもはや彼岸かも知れぬ》
《読みかけの本の間にそっと今すべり込ませてみた冥王星》
《影と陰 そういえば別物だった、どちらを目当てに斃れればよい》
《とろりと した 一枚布の 感触が 二月 と 五月 を 繋いでいる の》
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栗田佳奈さんの詩(部分)。
(因果なら追える
声になる、 、ら変
不用意な流星を(半円で)埋める
活字の通過は棗) な つ め)
[※以上、原文は2字下]
*
方法論が蝶を弾く、
ふ と
溶け出す
*
川には笹が浮かんでいる
水面のゆらぎ、を
唐突な礫
で
壊してしまった
摩滅して(けれど混沌と)
飲み干すことのない
夕凪
*
視界の同心円を
なぞる、
(石英に触れてはいけない)
蒸気に紛れていく
盲目を、掻き分ける、
(発芽はまだ、)
宙に吊られるままに
終わらない
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町田康がカフカに転位してゆく、それでも自己言及性をキープする
櫻井嵩大くんの不敵な小説(部分)――。
*
次に民子が旅人の部屋に入ってきたとき、旅人は机の下の暗がりによつんばいで、ネチョンとした眼をぎゅぬらっと光らせていた。いま思ったけど、よつんばいとよばんまついって何か似てるな。だけど、よつんばいのよばんまついなんていても嫌だしな。ま、いっか。
*
旅人の動きを見た民子は実際、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。というのも、近づいていった民子を避けるように、物凄い速度で机の下の暗がりから、寝台の下の暗がりへ、よつんばいのまま移動した時の手足の動きの速いのなんの。人を気持悪くさせ、不機嫌にさせるような機械的な動きと、無機質な表情はまさに民子に多大な衝撃を与えた。
*
旅人はその日学校にも行かず、部屋の中で一人で過ごした。民子は泣きながら電動遠距離通話機を使い、愛人に向かって旅人の乱心を訴えた。愛人の声は深い憐れみを含んでいたが、それは旅人の乱心に向けられたものではなく、自らの愛人である民子が何らかの理由で正気を失したと思ったからであった。だからこそ、今後愛人が民子と連絡を取り合うことはついになかった。
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飛山和也君の狂歌(以前この日記欄に「K・T君」として登場した)。
とりわけの「絶唱」を掲載する――
《愛撫先? 然[さ]ば尻へ濾過♪途絶えるか!?零[あや]せ!遥かな愛・飢え・と綾》
《チャイニーズ? パセリか? 実はコリアンだー。万年無視[シカト]レモンの甲羅》
《白色のオーロラ半ば果てがない双子裂かれて父を拭えり》
《聞こえないn筆書きで隙間なくレクイエムbyサンスクリット》
《アマリリス誰の誇りがお望みか彼の岸辺に咲いた血飛沫》
《壊れそう頭が割れそう「ならいっそ」君は一層破顔大笑》
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内藤雄生君の散文詩とも小説ともつかぬ作品(部分)――
*
魔法棒はすぐダイアモンドより硬くなって今にもジーンズを突き破りそうだった。
*
翌朝の食事はチキンナゲットと歯磨き粉だった。
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ほとんどの後ろ髪は豚に食べられて僕は落武者のようになってしまった。
*
と同時に、
クチャクチャとよだれを垂らす夜の島国
芭蕉が詠んだという一句が豚の額に浮かびあがった。
*
幼少の頃、隣に住むフランス人がこんなことを言っていた。
「コノクニハタベモノガフクヲキテアルイテイル!」
*
時計でいうなら3時のポーズをしたら死んでしまう
すなわち横投げの星の下に生まれた囚人だ。
「はめられた!」と叫んだ。
*
サイドスローの歩く灰。これが僕だ。
自殺しないかぎり死ぬことはない。
僕は戦争をする。死ぬことはない。
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中西哉太君の前衛小説の冒頭――
《寒かった。さむくて、和博はストーブに近づいた。一月六日。母は、「ごはんを、」といって、イチゴジャムとバターロールを床に置いた。彼は、アニメを見ながら、食い始める。いつものこと。今日は、タートルズ。ドナテロ、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルドの中ではミケランジェロが好き。
寒くてもっと近づいた。ストーブにくっつきそうだけど、テレビも見続ける。彼は「離れて」って言われた。もうテレビは見ているようで見ていない。ストーブが暖かすぎて。
ストーブは「もっと近くに」って彼を呼んでいた。彼もそれに応じる。
暖かい
彼は、ストーブと一緒になっていた。白いストーブと赤い火と彼と。一緒になって、朝の七時半を過ごした。とても温かかった。
目玉焼きの匂いがした。誰もが泣きはじめた。彼は、まだ一緒にいたけれど、違う彼は泣いていた。階段まで駆けて行って、誰かが気づいて彼を止めたけど、その人は怪我をして、床も少しよごれた。
次に、気づいた時は、彼は風呂場でシャワーを浴びていた。「なんで、めだまやきの匂いするの」って言ったけど、もっとくさい硫黄のような、それこそ腐った卵。だけど、そんなことはしらなくて、隣家の朝食の目玉焼きの匂いだと信じて疑わない。
外に出て、彼は自分が焼けていたのを知った。あんなのに騙されたのか。彼は、上半分の皮がはがれかけて、白くなっているのにも気づいた。ビロンビロンの白い皮に触りたくて仕方がなかった。》
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むろん以上のような変態オンパレード(笑)だけではない。
大学一年だもん、可愛いのだって当然ある。
金ミン希さんのは内的モノローグの連鎖が詩心を誘うマンガ。
第二次大戦前に夭折した韓国の詩人ユン・ドンジュの詩と、
『不思議な国のアリス』からインスパイアされた部分もある。
ゲ、こんなに画が巧かったのか。
僕は日本の前衛マンガ家・岡田史子をおもった。同様の詩性だろう。
桜庭愛子さんのマンガだって負けていない。
こっちはボールペン書き、
フキダシ内もキムさんのように写植っぽくなく
鉛筆書きではあるが、幻想譚として一本線が通っている。
イラストレーターが自分の腕に刺青として魔王を彫る。
魔王は実体化、才能開花など三つを約束する。
イラストレーターには、人に顔を見られてはならぬ試練も加わった。
彼が刺青を施した者は次々と野望を叶えていった。功利的関係。
その彼があるとき寂しげな少女の腕に妖精の刺青を彫る。
美しくやさしい画柄。
少女はイラストレーターの顔を見たくおもう。
しかしその瞬間、イラストレーターの躯は
魔力によって空中に拉し去られていた。愛の関係が宿ったからか。
桜庭さんの描く顔はすごく見事だ。
誇張的でイラストレイティッドに躍動している。
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初めて映像作品を撮ったのが諏訪由子さん。DVD提出。
自らの歩く足許、
日常の行き来の範囲、室内など身近の風景が撮られ、
それがフェイドイン/アウトで結ばれるなど
「私」を除外したミニマルな「私」映像だとおもっていると
崖の苔、トンネル、傘などが
幾何学図像となって映像の均整を打ち破る斬新な展開があり、
父親の声が入り、
自分の映像を再生する画面内画面が入ってきて――
編集ソフトもままならぬ状態のはずなのに映像を自在に操っている。
しかも勝ち誇ったようすもなくそこに静けさが貫かれている。
似た才能を瞬時に想起した。
『ビデオレター』における寺山修司ではなく谷川俊太郎だった。
新座に転入すべきか、とまでおもった才能だった。
写真を提出したのが寺岡美智子さん。
小ぶりなスケッチブックを写真集に見立てて
彼女の撮った写真が見開き左頁に貼り付けられている。
右頁はスパルタ・ローカルズの曲「ロマンチックホテル」の歌詞が
分断され、ほぼ一行か二行ずつ余白たっぷりに貼られてゆくだけだ。
これは一種、映像におけるテロップと似た作用をする。
ともあれ写真はその歌詞に触発され、
ただし「まんま」ではなくイメージ的飛躍のあるものが
寺岡さんの現実と近いところから綺麗に採取されている。
風景写真としてすごく清新な感触がある。
これは何か。写真(集)という形式によって
PVと同様のものが発想された、ということだ。
寺岡さんの提出物はだから、この擬似写真集とともに
カセットテープが同封されていた。
僕はグレイプバインの曲に似た感触のある
「ロマンティックホテル」を聴きながら
歌詞の出現に合わせて頁を繰っていった。
小さな至福――。この提出物は発想が可愛い。
僕の理解を超えていたのが、中里周子さんが提出した衣裳。
通常、期末レポートは僕の自宅に段ボール郵送されてくるのだが、
教務課から、「どうしても箱に入らない提出があって
取りに来てください」という悲鳴にも似た電話が入る。
で、僕ははるばるたった一個だけの提出物を
立教くんだりまで取りに行ったのだった――傍迷惑な奴(笑)。
受け渡すとき係のひとが苦笑している。
デパートの大型紙袋から薄い布がはみ出している。
僕も苦笑。「こんな提出物、前代未聞ですよね。衣裳かなあ」。
「ハイ、たぶん」――係のひとは笑いを懸命に噛み殺している。
オイ、中里さん、いくら俺がサブカルノンジャンルだからって
衣裳の採点はできないってーの。
できないから当然あんたの評点も「S」。
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とまあ、破天荒な提出物の色々を、字数の掟も破り通覧してきたが、
中に「完璧な小説」が2篇あった。
一つはこの欄ではH・Sのイニシャルで既出の佐々木悠さんのもの。
ロリータ官能小説。
ったく、生徒の提出物で危うく勃ちそうになるなんて
これも前代未聞だった(笑)。
凝縮された散文詩的文体。俄かには各文の関係性が掴めないが、
やっと掴んだ途端にこの妖しい反世界へと一挙に拉致されてしまう。
鴉が白い子猫を攻撃しているさまにたいし
少女は男から「見ること」を強制される。
鴉は子猫を完全に死体にする。
その子猫の眼球を口に含んでの少女と男の交接。
描写は基本では暗示的だが、
ときにあからさまな箇所があり、その緩急の呼吸に完全にヤラれる。
バタイユ『眼球譚』の参照があるとおもうが、
球形連鎖は組織されていない。
こちらの球形は「現代的に」脆いのだった。
少女の口のなかの猫の目玉が最終的にどうなるのかは内緒(笑)。
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もうひとりは佐藤瞳さんのもの。
いつも夢に出てくる幻想風景にヒロインが実際に召喚され、
破局を迎えるまでが
事態の刻々判明というスリリングな筆致で破綻なく描かれる。
佐藤さんらしく、ヒロインの過食-食べ吐きのディテールが
これでもか、の迫力に満ちていて(笑)、
最初これは「自傷系」小説かと身構える。
だから幻想系への連接に鮮やかな意外感が伴うのだった。
達者。破局ディテールの暗示描写ひとつでもそれは自明だ。
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これらは当然、「阿部嘉昭ファンサイト」に
阿部の「解題」つきで転載されるべきものなのだが
(転載が可能であれば)、
最近、管理人が多忙でアップが全然、進んでいない。
なので転載完了もいつになるかわからず、
僕のマイミクの生徒も多いので、
とりあえずこの欄に寸評を(実名で)書いたというわけだった。
彼らの仕上げたものに接し、僕にも「変化」が起こる。
何か。創作欲が沸いてくる、ということだ。
その意味で彼らは僕のライバルだろう。
こんな関係が彼らの卒業以後も続くといいのだけれど、ね。
これらがビギナーズ・ラックではないと信じたい。