今泉力哉・アイネクライネナハトムジーク
今泉力哉監督の新作『アイネクライネナハトムジーク』は、人物の顔と身体と諸表情の息詰まる観察をしい、カサヴェテス的な奇蹟の強度に達した『愛がなんだ』とは対照的だ。流麗なシーン展開によって伏線だらけのストーリーを綴る、商業映画の普遍要件をみたす賢明な一本なのだ。両者はまるで感触がちがう。本作では様々な俳優の身体と顔は、了解性のなかに収まり、『愛がなんだ』的な「了解することの戦慄、白熱」を手放したようにみえるが、やはりそこに尋常でないものがある。時間表象がそれに当たるだろう。蓋然性(偶然の現実化がありうるとおもわせること)、反復、回帰ーーそれらについてのカードがじつに高頻度で切られ、ついに差異が再帰になる瞬間を観客に待望させるという意味で、作品全体が時間自体を救済させる磁場にもなっているのだ。女性が落としたハンカチを男性が拾うといった「運命的な出会い」と、「あのとき意識しないで出会ったことが事後的に素晴らしかったと感じる、のちの想起」、それらの相克が(気恥ずかしくも)本編の主題となるのだが、それらがやがて無差異の溶融状態へと昇華されてゆくのだった。原作は伊坂幸太郎の恋愛小説の短篇連作で、複雑な人物構成を脚本の鈴木謙一がよく捌いた。映画全体は、前半の現在、後半の「その10年後」の二部構成になっていて、前半に印象を与えた人物が後半どうなっているか、「徐々に」カードが表返ってゆく、そのゆったりとした呼吸が見事だった。キャストの中心はドラマ『僕のいた時間』の名コンビ、三浦春馬と多部未華子だが、三浦の大学時代の友人で、二人の子供を授かり暖かくフランクな夫婦生活を営む矢本悠馬、森絵梨佳、彼らの生活圏といっけん無関係とおもえる周囲に、行き遅れの美容師、貫地谷しほりと、その美容室の顧客MEGUMI、さらにMEGUMIの実弟役で、頻繁な電話の会話だけによって貫地谷と恋仲になってゆく「謎のジム職の男」、さらに関係があっても、妻に突然逃げられて心身を崩す三浦の上司・原田泰造などが独立的に配される。最初の「遅延」は逆転のパンチで日本初のヘビー級ボクシングの王者になった当の英雄こそが自分の電話相手だったとようやく気づく貫地谷に配分されるが、遅延を最も生きるのは10年にもわたって結婚を成就させない三浦・多部のカップルと、10年後についに世界戦再挑戦となるボクサー役・成田瑛基だろう。そうした布陣に、子供だった女児が10年後、恒松祐里と八木優希になり、その同窓生たちと家族の描写も加算されてゆく。複雑な物語の全体は書かずに、反復されることのみをまず拾いだしてみよう。「歩道橋、跨線橋という空間の召喚」「同棲相手の女に男が逃げられること」「ファミリーレストランで客の注文した料理が、魚料理と肉料理のあいだで取り違えられること」「少女への中年男性の怒気にたいし、第三者が、当該少女の父親がそのスジの怖い大物だと嘘の暗示をすること」「路上ミュージシャンのギター弾き語りを立ち止まって見る男女に深い紐帯が生じること」などがそれらだが、夜のシーンの登場自体が反復のリズムを形成しているというメタ的な認知にまで事態はおよんでゆくだろう。夜、仙台駅前からバスに乗った多部未華子を追う三浦春馬の異様な疾走は、ゼロ年代初頭の東宝感動路線の古い定番でいただけないが、現在とその10年後で繰り返される夜の仙台駅前の歩道橋上の雑踏音、ギター弾き語りの歌声、ビル壁面の巨大ビジョンからのボクシング中継音が織りなす音と空間の多元性、あるいは三浦が矢本悠馬と結婚式に行く途中の夜の路上で工事渋滞に巻き込まれ、そのとき最初の出会いで失職中だった多部が似合わないヘルメット姿で交通警備誘導をしている「やつし」の様相が画面に最初に捉えられたときの映画性は、さすがに『愛がなんだ』で数々の素晴らしい夜間戸外シーンを連打した今泉力哉の演出だとおもわせる。『愛がなんだ』で捉えられたのは会話ではなく、生態だが、『アイネクライネナハトムジーク』は物語映画だから、会話が「普通に」綴られる。しかしそれではエモーションをもたらすアクションが足りない。遊離したのが三浦がバスを追う疾走シーンだったが、ボクシングの世界戦が挿入され、とりわけ10年後のそれの結果が叙述の飛躍により最初は全貌を現さない点に、現実的な時間考察が感じられた。時間の正体とは遅延なのだ。そして何よりも恒松祐里。この若手女優はやはり黒沢清『散歩する侵略者』で見せたとおりの奇蹟的なアクション主体だった(『凪待ち』も素晴らしかった)。自転車を走らすだけで、仙台駅地下駐輪場を大股で歩くだけで、画面を運動性によって電撃的に躍動させるのだ。いっぽう英雄的行為に一言「好きだ」を蛇足的に言い足して遁走したのち仙台駅前の歩道橋でストリートミュージシャンの演奏を呆然と聴いているクラスメイト萩原利久の周囲を回り込む恒松の歩調はエレガントな少女性に富んで、彼女は「静」の動きでも観客を陶然とさせるのだ。こういう細部が伏線だったり、伏線の結果だったり、時間論的に独立していたりの差異をかたどるから、映画の進展に複雑な魅惑が伴ってゆく。繰り返そう。蓋然性と反復と回帰予感により時間を多重化させることで、時間自体を救済するのが本作の眼目だった。じつはその紋中紋ともいえるやりとりが本作の会話にある。成立背景は記さないが、三浦春馬と多部未華子のあいだで交わされる「ただいま」「おかえり」「おかえり」「ただいま」がそれだ。反復の交差配列になっているそれは、小津『東京物語』での笠智衆の反復発語「癒るよ、癒る、癒るさ」の語尾変化の感動的ニュアンスとも匹敵するだろう。ここに泣けた。反復とは予想に反し、遅延を駆逐するのだ。しかも科白の構成要素は相米『台風クラブ』で中学生男児が「ただいま」「おかえり」を執拗にくりかえしながらドアを蹴る凶暴な名シーンともおなじだった(むろんそこに、張元と篠崎誠の映画題名も盛り込まれている)。商業映画だと侮ってはならない深い細部がこの作品にはこうして見え隠れしている。なお仙台駅前の歩道橋でギター弾き語りを十年一日のごとくおこなって、時間に伏在する無時間性を感動的にあかすストリートミュージシャンは斉藤和義似のこだまたいちが演じている。再帰が主題の本作では当然その名曲は斉藤和義によって書かれていて、それはエンディングロール音楽へと昇華されてゆく。8月5日、狸小路プラザ2.5の札幌試写にて鑑賞。9月20日より全国ロードショー公開される。
2019年08月07日 阿部嘉昭 URL 編集