下村幸子・人生をしまう時間
【下村幸子監督・撮影『人生をしまう時間〔とき〕』
わたしは幸か不幸か肉親の死をこれまで見取ったことがなく、現実の死や死に顔や死体への免疫がない。だから在宅の終末期医療の実際を多様なケースから追っていき、死の隠蔽をおこなわなかった下村幸子監督・撮影のこのNHKエンタープライズのドキュメンタリー『人生をしまう時間〔とき〕』に深甚な衝撃を受けた。ほとんどボカシを使わないこの作品は、医師の往診に繰り返し同行してゆくのだが、老齢の裸体、死の兆候を撮ることまでも、着実に撮影対象、その家族から同意を得ていて、ドキュメンタリーの金科玉条=「密着」の基本を成し遂げているのだ。終末期医療を在宅で受けている人びとは、その病状や減退に普遍的な共通性があるにせよ、家庭状況、家族構成、経済状態が千差万別で、その多様性は家庭空間の多様性と相即している。しかも医師と治療対象者、あるいは家族とのやりとりがユーモラスかつ適確に抜かれることで、次第に治療対象者に対して、おそらく「人間的」と言っていい「同調」までもが形成されてゆくのだ。やたらと明るい、しかも自嘲で人を笑わせる85歳の老女、103歳になっても少女的貞淑を忘れない美老女、子宮頚がんが悪化して痛みに苦しむ52歳の女性、盲目の娘を案じる死の兆候の著しい百日柿の生る家の84歳の老人--忘れがたい人びとは目白押しで、しかも彼らは年齢とともに実名までテロップされる。なぜか。映像に捉えられることは、すなわち列聖なのだ。作中、マザー・テレサの「死を待つ人々の家」の様相がわずかに点綴されるが、無名性の死から有名性の死への昇格を映像は敬虔に意図していると言ってもいい。注意をもって作品を振り返るなら、作品は徐々に組成を変化させている。テロップにより間接的・事後的に叙述されていた治療対象者の死が徐々に直截的に描かれるようになり、終盤は死に顔の実際の連打となる。死にゆく者の肌の異様な美的緊張は、最近の劇映画ではミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』のエマニュエル・リヴァにあったが、わたしは死にゆく者の肌と、瘦せ衰えて露わになった骨格に厳粛な崇敬を抱かざるを得なかった。その上で、死がもたらす不可逆性にわななくような 衝動を覚えたのだった。作中、最後に捉えられる死は、先に記した百日柿の生る家の老人だった。その老人のために盲目の娘が作ったうどんが「世界一哀しいうどん」なのは間違いない。しかもその老人は徐々に呼吸の弱まってゆく緩慢な死を迎えつつあり、盲目の娘は父親の喉に手をやって、喉仏のわずかな上下運動の停止=死の瞬間を、添い寝する自らのからだに刻印しようとしている。盲目だからこそ死は触覚上の事件として転位されるのだが、相互の身体の近さが愛着的であり、哀切なのだ。映画は慎ましくその瞬間を家屋の外から待機している。おそらくケータイを通じての発声なのだろう、盲目の娘の、少女のような声での実況中継が響いてくる。そうして「停まりました」の発語。やがて再びカメラが家屋に入る。盲目の娘の顔は晴れ晴れとし、父親、親戚、医療従事者への感謝しか語らない。自らの手によった死亡時刻の記録者が実の娘だったことを医師が寿ぐ。泣かない者はいないだろう。いつか庭に匂い出した百日柿の実が、それがまるで世界自体であるかのように余韻を放っている。老人は高所恐怖症の医師のために自ら梯子を操って、去年のように柿をもいであげることを約束していたのだった。それが残った。医師のことを書くのを忘れていた。埼玉県新座あたりにある堀の内病院で在宅の終末期医療に従事する医師ふたりに焦点が当てられる。ひとりは80歳の小堀鴎一郎。東大の名外科医として活躍ののち、終末期医療に関わり始めた彼は知る人ぞ知る森鴎外の孫で、患者にユーモアを忘れない人格者だ。彼の叡智は不必要に過度なケアをせず、死の法則を絶えず冷静に見通していること。自らが80歳の老人だという再帰性が、このドキュメンタリーの普遍性を微妙に強化させている。もうひとりの医師は国際医療機関で働いてきた博愛のひと、56歳の堀越洋一。宗教性と連絡する彼の真摯な働き方にも感銘を受けた。ともあれこの作品は終盤での死に顔の連打に打ちのめされる。打ちのめされた上で、人間の死の普遍の相への還元が起こり、最終的には終末期在宅ケアの意義を感じさせる多重構造をもっている。それゆえに話題になるだろう。8月21日、東京渋谷の映画美学校試写室で鑑賞。9月21日より東京渋谷のシアター・イメージフォーラムでロードショー公開ののち、全国で順次公開される。