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是枝裕和・真実 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

是枝裕和・真実のページです。

是枝裕和・真実

 
 
【是枝裕和監督・脚本・編集『真実』】
 
是枝裕和監督の、フランスで撮られ、イーサン・ホーク以外はフランス人俳優が起用され、フランス人スタッフが体制を固めた『真実』(仏題「ラ・ヴェリテ」)の出来の完璧さに度肝を抜かれた。これは日本映画の国際的な「事件」だろう。同様の条件で先に黒沢清監督が『ダゲレオタイプの女』をすでに撮っているが、仏スタッフの意見を容れエスタブリッシュメント・ショットを入れるなどして自ら特有の映像リズムとは別の組成を強いられた黒沢作品にたいして、この是枝作品は文芸映画の語り口の黄金比のようなもの、つまり「普遍」に達している。しかも全体の立ち姿が繊細で、じつに味わいぶかいのだ。大人の風格がある。ベルトラン・タヴェルニエ的な系列でいえば、フランス映画の最高峰に達している。何しろ脚本が練られ、彫りが美しいのだ。
 
主演の大女優=ファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、秘書、料理人兼パートナー、愛犬とともに暮らすパリ市内の、「城のような」ともいえる宏壮な館が舞台の中心だが、その外景、室内、食卓、厨房、階段、寝台などが場面ごとに適宜召喚され、精彩に富んだ、しかも静かな室内シーンの連続がまず基本にある。さらには窓越しに出現する来訪者二組が局面を一新する。くわえて、ファビエンヌは映画の現在で、意に染まぬ(じつは高齢になって科白憶えに苦労している点がその不快感の一端をなしているし、プライドに反してそこで彼女は主役ではないのも不快事だ)映画をスタジオ撮影中で、そのジャンルが時間と身体をめぐるチープな未来SFだという設定から、そこでは質感のちがう高低差ある人工空間が宏壮な館内と対比的に現れる。もちろんスタジオへの移動過程や、ファビエンヌの犬の散歩シーン、朝の外食シーンも組み込まれる。ともあれ作品空間は限定的で、けれども刺繍が適切だから空間変遷が「飽きさせない」。驚くべきは、俳優の歩行を中心にした運動がかたどる「動線」、それに対応するカメラ運動が、前のシーンをべつのかたちで更新するように展開されてゆくことだろう。
 
たとえば一旦辞意を表明し、孫の世話を田舎でするため隠居生活を決意、館を出ていった秘書の老人をふたたび業務に戻そうと用意された「シナリオ」(書き手はあとで説明する)を使い、ファビエンヌが彼と交渉する経緯は意外なシンコペーション感覚を伴う。会食でファビエンヌは必要な話題を切り出さない。会食が終わり皆とレストランを出ると、夜の路上で楽団がノスタルジックな音楽を演奏していて、会食した面々は自然にダンスに興じる。そのあと、小さなカフェでファビエンヌが秘書と話すと、長年の秘書業務を務めたその老人は、ファビエンヌのことばはその癖から娘リュミール=ジュリエット・ビノシュの「シナリオ」によるものと即座に見抜く。そのあとで会食者全員が三々五々、夜道の歩を進める姿が縦構図の後退移動でしめされる。シーン間のこれら動・静、方向性の異なる交錯がさりげなく組み込まれる語りの成熟に驚愕したのだった。是枝監督といえば、これまで主題系とカメラワークを作為的に結びつける「やりすぎ」がトレードマークだったのに、撮影とドラマが安定的に溶け合い、一種の中庸美が獲得されている。撮影はパトリス・シェロー作品などのエリック・ゴーティエだった。大体からして作品の1stショット、秋の気配を深める庭の大木を中心に庭全体を俯瞰気味に捉えるロングショットは、画面の右端に宏壮な館をわずかに取り込む構図選択が不如意だとおもっていたら、樹々の隙間の奥行に電車が走る「解決」をやがてもちだす。それで端倪すべからざる撮影という意識が最初からあったのだった。
 
撮影のかたどる有機性につき語数が過ぎたかもしれない。だがこのように撮影を整理すれば、あとは作品のドラマにつき端的に語りうる。発端は「真実」のタイトルで自伝本をあらわしたファビエンヌへの著者インタビュー。館の客間でおこなわれている。「天国に行ったら、最初に言うことばは?」というインタビュアーの質問が宙に浮くのものちの伏線だ。その渦中にニューヨークから、ファビエンヌの娘・リュミール=ジュリエット・ビノシュ、その夫で、やがてさほど売れず、ずっと主演作を待望していると判明してゆくTV俳優のハンク=イーサン・ホーク(彼だけがフランス語をほとんど解さないが、そのとぼけた味わいが得難い)、そして二人のあいだにできた現在7歳の娘シャルロット(英・仏のバイリンガル、この子役が作品の幸運の女神の代表だった――祖母ファビエンヌの度胸と機転と演技力を遺伝子的に受け継いでいることをのち厭味なく自然に発露してくるし、可愛いのだ)がやってくる。名目は母・ファビエンヌの出版祝いだが、依頼してもとぼけられて伝記本のゲラを見せてくれなかったリュミールは、逸早い内容確認の必要を迫られていた。来訪の当夜に長時間かけて読むと案の定、内容はファビエンヌの都合のいいことばかりが虚偽を交えて列挙されるだけで、とりわけ家庭を中心にした不都合事はすべて「なかったこと」にされていた。リュミールは憤慨する。
 
こう書くと、信田さよ子が主フィールドとする「母娘葛藤」が主題のようだが、印象と内実は特異だ。何しろ母ファビエンヌは数々の演技賞を獲得した威風堂々、派手な大輪の花と呼ぶべき大女優で、恫喝もきくし、毒舌だし虚言も弄するし、しかも磊落でアバウトで粗忽で繊細という派手な複雑さをちりばめた要約不能の怪物。とうぜんここには、いまだに「美人」のドヌーヴとは異なっても『歩いても 歩いても』などの樹木希林の面影が重ねられるだろう。一方いまはシナリオライターになっている娘リュミールは常識家で堅実でしかも鋭い洞察力をもっているから対照的なのだが、母娘に珍しいその凸凹がやりとりに一種リズミックな躍動を呼び出すから、ときに涙を交えても、葛藤が決して陰湿にならない。どちらも瞬時の恢復装置をもっているのだ。この設定が見事だった。恢復が主題なのだから。
 
しかもここで、作中に一度も実像として登場しない死者「サラ」がさらに干渉してくる。作中、徐々にサラの領分が判明してゆく。往年、ファビエンヌと娘リュミールの住むこの館には、サラもいた。そのサラをリュミールは「おばさん」と現在も呼んでいるが、ならば彼女はファビエンヌの妹なのだろうか。サラも女優で、実は資質に恵まれていて、たぶんその篤実な演技はスター性のつよいファビエンヌの演技と好対照だったはずなのだが、ひとつの役柄をファビエンヌと争い、ファビエンヌの卑劣で捨て身な工作もあって役柄を奪われてしまう。ファビエンヌはその役柄で栄誉ある賞を受けた。リュミールの記憶では失意を保ったまま、のちサラは死ぬのだ。夫を追い出し、家庭を顧みないファビエンヌの代わりに、孤独で繊細なリュミールの世話をしたのはサラのほうだった。学芸会で『オズの魔法使』が上演され、ライオン役をやったリュミールを励ましたサラ。魔法使いがヒロインの絵本を添い寝の床で眠るまで読んでくれたサラ。サラに関わる記憶は、リュミールのなかでやさしく切なく浄化されていて、それが現実の母ファビエンヌのガサツとはちがう耀きを湛えている。サラはいまだにリュミールの感情の避難所だった。
 
誰もがひとりの実在人物を想像面に召喚してくるはずだ。カトリーヌ・ドヌーヴの実姉で、交通事故で夭折したフランソワーズ・ドルレアック。トリュフォーの『柔らかい肌』の官能性で一斉を風靡したドルレアックは、しかしドヌーヴの「華」に較べ、より深い注視を必要とする、派手さの面で弱い女優だった。たとえば同じ監督で姉妹が別々に出た二作を較べてみればいい。トリュフォーにドルレアック主演の『柔らかい肌』があれば、ドヌーヴは『暗くなるまでこの恋を』の不評のあと『終電車』で華々しい挽回を果たす。ポランスキーならドヌーヴの不安美が忘れがたい『反撥』にたいしドルレアックの『袋小路』の印象は薄い。ドゥミの『ロシュフォールの恋人たち』でドルレアック、ドヌーヴの夢の共演は実現したが、実際のところ姉妹仲はどうだったのだろうか。本作の「サラ」の暗示は、映画史上の女優姉妹の秘部、禁忌にふれてやまない。是枝監督はそういう脚本で、大胆にもドヌーヴに出演交渉を果たしたのだ。
 
設定は輪をかける。ファビエンヌが「現在」劇中で撮影中の作品のヒロインは、新進にして注目株の女優マノン(=オーディションで選出されたマノン・クラヴェル)で、その彼女はなんと劇中の「サラ」の実娘だった。母親譲りと呼ばれるその演技力は、霊感と創発性に富み、監督や共演者にも働きかけをおこない、本読みでも段違いの没入力をしめす。堂々として美しい。秘書役として撮影所に同行したリュミール自身、マノンにサラの面影をみて、懐かしさも手伝ってすぐに打ち解ける。科白憶えの悪くなっている母ファビエンヌは主演でないのみならず、演技力、存在感でもマノンにたいし劣勢をしいられることになる。しかも撮られている未来SFで主演マノンにたいし課されていたのはこんな設定だった。子供のいるマノンは死病に罹る。病状の深化を食い止めるため、彼女は時間が停止する宇宙船に居場所を移さなければならない。それでも子は恋しい。それで彼女は間歇的に(おそらく十年ごとくらいか)地球に舞い戻り短期間だけ家族と再会する反復生活を選択する。マノンは老化しない。娘のほうは自然摂理にしたがい、次第に老化してゆく。それでやがて娘は老人になり、自分の娘の年齢のような外観のマノンを母と認知しなければならなくなる。記憶どおりの若い母に、老女の姿で娘の心情を切なく吐露する難役がファビエンヌに宛がわれたのだった。
 
当初予定では科白は少なかったこの役をファビエンヌが受けたのは、当然サラとの過去のいきさつがあったゆえだが、彼女の現場でのやりにくさは、マノンの存在が、往年秘していたサラへの劣等感を呼び覚ますためらしいと知れてくる。マノンとは覇気ある演技を真正面から応酬しなければならない。記憶どおりに若い母と哀しみの再会を演ずるためには、ファビエンヌ自らに兆している「老い」を晒すことが必須となるが、ブライドがあって役を深化できないジレンマにある。ところがあるとき撮影中、シュートが始まった瞬間にファビエンヌは足場を乱して倒れてしまう。ところが監督はカットをかけない。やがて老いのしるしをまとったまま立ち上がったファビエンヌは、マノンとの演技のやりとりをつづけ、落涙の表情、心情を見事に実現してゆく。威厳に乗ったドヌーヴとはちがう、ドヌーヴ=ファビエンヌの演技(劇中演技)だった。ただし監督は撮り直しを依頼する。たぶん演技が古く重々しかった。それで演技の尺を80%に詰めてほしいと。これが終幕の伏線になる。このあたりの是枝脚本も冴えている。
 
こう書いてわかるだろう、この是枝映画で現実生活を描かれるドヌーヴ=ファビエンヌと、映画内映画で役柄を演ずる女優ファビエンヌの設定は、複雑にリンクしていると。映画内映画に現れるマノンは往年の姿を終始変えないのだから、それは実在である以上に「記憶」なのだといえる。ひとは自らの記憶が救済されることで自身が救済されるが、ここでは記憶そのものがひとに救済を働きかける媒質になっている。SFたるゆえんだ。この特異な設定により、記憶領域が浮上してくる。この映画の設定でいえば、それが「サラ」なのであり、ドヌーヴ自身の人生的現実でいえば、それがドルレアックなのだ。サラとドルレアックは、このあかるさを湛えた映画のなかであかるい幽霊さながら跳梁している。時間と身体を主題として深部にもつこの映画は具体的には記憶機能の捉え返しを要求している。その要求から、真実が層状に分流しだすのだ。だから女優的虚言も真情吐露もすべて真実だという層状世界のかがやきが喚起される。本作は文芸映画的に申し分ない語り口と展開なのだが、その冒険的な創見は記憶問題の領域に集中している。
 
ところで、記憶の改変をしいられるのは、娘のリュミール=ジュリエット・ビノシュのほうだった。ネタばれになるから詳しくは書かないが、彼女は学芸会のとき実母がどうしていたかを秘書から聞く。ファビエンヌが魔女映画への出演を決めた経緯にあった母情の切なさも、つい聴きだしてしまう。作品の終盤を襲うのは、真情が露呈されて起こる現実の更新というべきものだ。現実の隙間に鳴りひびく電車音。互いに真の演技力を出し合ったマノンとファビエンヌのエール交換。感動の高潮に達し、エンディングかと思うと、是枝脚本の快進撃はさらにつづく。ユーモアに終始したこの映画は笑いで収めなければならない。それで「第二終景」が用意される。これもネタバレを防ぐべく具体的には書かないが、今度は「現実の書き換え」についてファビエンヌがふたつの決意をするのだ。しかも茶目っ気たっぷりに。映画はそれで笑わせて、見事に終わる。ふくみは複雑だ。
 
つけくわえると、筆者はジュリエット・ビノシュがカラックスの映画でアンナ・カリーナの再来といわれ、一斉を風靡したわかい頃から苦手だった。風貌が泥臭いのだ。ところが本作では役柄が彼女の外見と、その演技力もあって見事に一致している。彼女は母親やサラに憧れ、幼年期は女優になることを夢見ていたが、資質を自覚し、その道を断念する。それでも脚本家という映画に近接する仕事を選んだのは、実母やサラへの憧憬を保ちたかったからだろう。その彼女の脚本家としての才能はどうなのかという隠された問題がある。脚本家としての彼女の才能は映画のなかで話題に上ることはない。その脚本力は映画内の「現実」次元でのみ試されるだけだ。ひとつめは先に書いた。秘書仕事をやめ孫の世話の引退生活を選択したとみえた秘書を引き戻すためにどう秘書とやりとりするか――ファビエンヌの依頼でひそかに書かれた「シナリオ」(それをファビエンヌは懸命に憶えた)をファビエンヌは現実とおもわれるように演技したはずだ。ところが科白の書き癖で秘書はリュミール作の「シナリオ」だと見抜いてしまう。
 
ならば、リュミールに脚本家の才能はないのか。いや、あったのだ。その逸話が可愛い。こういう可愛さが実現できたのは、これまでの是枝作品で初めてではないか。将来の夢はなにかとファビエンヌが孫娘シャルロットに問う。作中で天使的な演技力を、しかも笑いを誘ってみせていたお茶目な七歳の巧者シャルロットは、秘密めいて耳打ちするように「女優になりたいの」とファビエンヌに語る。そしてスタジオでの撮影見学体験をくわえ、こういうのだ。「私が女優になった姿を見てもらいたいから、おばあちゃん、宇宙船に乗っていてね」。この一言に「人間的に」ほだされて、「第二終幕」のファビエンヌは上機嫌だったのだ。ところがその上機嫌の裏側にあったシャルロットとリュミールのやりとりで、シャルロットの発語がすべてリュミールの「シナリオ」だったことが判明する。騙し討ち成功。笑った。しかもそれがシャルロットの将来の女優身分を現実化させるようで、時間に魔法が見事にかけられていたのだ。むろんこういうことが「真実」の深い層をつくりあげる。
 
9月4日、狸小路プラザ2.5の試写にて鑑賞。本作は10月11日より全国公開される。
 
 

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2019年09月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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