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三角みづ紀・錯覚しなければ ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

三角みづ紀・錯覚しなければのページです。

三角みづ紀・錯覚しなければ

 
――まずは一句、ひねってみる。

《をみならがつどへば母の疾風(かぜ)湧けり》

たとえそれが少女性であっても
女の集合が過激に巨大化すれば
女性にとっての最大の属性「母性」が
その個別性を超越した次元に現れてくる。
たとえば女たちが臨戦する砦をおもい返してみればいい
(となると、たとえば「ハラジュク」での少女性重畳光景では
まだ何かが馴致され、何かが誤魔化されているわけだ)。

「現れる」ということが大切だ。
世界は、本当は追慕のなかにも予想のなかにもなく
ただどうしようもない――重ね書きすら不能な、
この殺伐たる「現れ」のなかにしかないのだから。
「現れ」という語をしるすここでは僕はアジアをおもっている。

三角みづ紀は新詩集『錯覚しなければ』のあとがきでこうしるした。

こわいこわいと泣くわたしを皆たしなめますが、どうしようもない恐怖はどうしようもない。
こわいこわいと呟きながら詩を書いていて、こわいながらも、確かにこわくない瞬間があります。わたしはそれをみるために、詩を書いているのでしょう。

この同語反復、循環論理は意図的で、
あきらかにこれらの文言を三角は詩として書いている。

――ではなぜ「こわい」のか。
女性性の本義に自分の存在がだんだん迫ってきて、
やがて辿りついてしまう「母」の領域によって
それまで記憶や愛情や空間にしるされていると信じた、
自らの個別性を失ってしまうその予感がこわいのではないかとおもう。
むろん実際に出産などの事実があって
戸籍的な母になることとは、これは関連がない。

「母」とは個別性の浄化(漂白/脱色)概念だ。
それを知るためには、概念自体を累乗化してみれば済む。
「母」「母の母」「母の母の母」「母の母の母の母」――
そう、これは吉田喜重『エロス+虐殺』が提示した思考方法だった。

このように世代架橋要素として「母」を重ねてみると、
次第にそれは、静かで無名な、歴史/世代継承の純粋性をつよめてゆく。
祖母の顔を知る孫はいるが、
曾祖母の顔を知る曾孫はどのていどいるか。
むろん十代前の母の母の母の・・の顔を知る者など
特殊例でないかぎりは皆無だろう。

形象はだんだんと常闇に、「根」に、ちかづいてゆく。
自身の成立要因が深い非知に基づく、という認知も生じる。
この非知を生み出す装置が母胎であって、
女たちはそれをもつ自身の恐怖に――静かにも目覚める。

このような恐怖は即座に時間生産の肯定性へと接木されるはずだが、
むろん時間に顔がないように、
本質的な女たちにも顔がないという恐怖を
繊細な女ならば意識の外に置くわけがない
(男は多く、それを性愛の渦中に予感するだけだ)。

たぶん『オウバアキル』で自身の生や存在の個別性に立脚した
そんな「私詩」を書き、事柄の衝撃度も相まって
一挙に詩壇以外からも話題を集めた三角は、
自己属性の蒸散が詩性への接近法だという自覚をもやがて持ちはじめ、
それでいま本質的な恐怖に包まれだしたのではないだろうか。



三角の思考は「逆転」を経由する。――つよく経由する。

だからたとえば、個別の死が複数の死になり、
自己要因が他者を照らす相補性をも難なく掘り当ててしまう。
冒頭収録、「マッチ売りの少女、その後」から――



冬の日、未明、
街角で少女の遺体が発見された
死因は餓死
凍りついた少女の範囲外にも
恐怖のように
マッチが散乱していた
かすかに薬物の匂いがした
(一聯:中途まで)

掲出した最後の行がパンキッシュなサブカルに親炙し
そのような交友をも組織する三角らしいともいえるだろう。

さて逆転の詩句は二聯中途にある――。

誰も少女を殺せなかったから
故、皆が少女を殺したのだ

不可能性の論理が「逆転により逆転されている」。
気をつけよう。
この現代版マッチ売りの少女(当然「詩人」の隠喩だ)の
本当の死因とはなんだったか。
明示されている「餓死」ではない。
オーバードースでもない。

二聯冒頭には
《少女は母親になれなかった/母親のふりさえできなかった》とあり、
「それゆえに」彼女は死んだのではないか。
それは、時間へのつながりを欠いたため、とも敷衍できる。
浮遊のままの浮き草のように世にあれば、
その者は「関係性において」死んでしまう。
その関係性をつくりなしたのは相補的な位置にある他人でもあるから
《誰も少女を殺せなかったから/故、皆が少女を殺したのだ》
という詩句も実は正論理で成立していると注意を払う必要がある。

三角は詩集中、母からの出自を幾度も語ろうとし
母になることを幾度も希求しながら
「現に」「ここに」生まれる自分の衝撃を錯綜的に語りだす。
母から生まれたことと、私が母となることは、時間軸上の相補だが、
ならば時間内のひと雫であるこの私にこそ相補の構図が極限され、
よってこの私は母の産褥の苦痛を映して
存在の継続を「生まれ(/生み)つづけ」なければならない。
「私」は少女ではなく母の形式を借りてでなければ
この産褥の型で崇高に存在できない(私はそうして詩を書く)。

母という
あらゆるこどもたちが抱く
幻影のなかで
わたしたちは立ち回るのだ
わたしたちは母になって
母親になって
それからようやく
紡ぎだす
(「すずな、すずしろ」最終聯)

このときに「私」の個別的単数など
即座に「私」の内在的複数へと変化を遂げるだろう。



大勢のわたし自身のわたしたちが
わたしを囲んで
かごめ
かごめ
を、はじめる
言い当てたわたしを
わたしは食して
もう行かれない場所には
赤い丸をつけるのだった

あなたたち
わたしじゃない
にせものよ
もう少しで
わたしはわたしを取り戻す
でもなにかが
うまいぐあいに
欠落していて
(「うしないつづける」部分)



改行加算には脱論理と曖昧が仕掛けられていて、
こういう三角の詩的修辞に詩作者としての彼女の未来を感じる。
隠されるように忍びこんだ「食して」の修辞の気味悪さ。
これまたフッと入ってくる、「うまいぐあいに」という言葉の自堕落さの戦慄。

この詩篇では「みんな」という、「わたし」の敵対者も定位されているのだが、
その本質がついにつかめないとおもう。
それは論理的にそうなるのだ――なぜなら、「みんな」とは「わたし」であるから。
それで最後の一聯、三角十八番のゾッとするヤクザな修辞が光る。

みんな、泣いていた
わたしは灰になりながら
息ができずに
笑っている



このような前提を置けば、詩集中の白眉詩篇のひとつ、
「悲劇をわたくしは待ち望んでいるのだった」の冒頭聯も理解がゆくだろう。

にんげんが回転して回転して血液になった
その理屈を
母はわたくしに説いた
わたくしは
出刃包丁をスライドさせ
ようやく新聞にまで名前を湿らせた
わたくしは母を拒んだ
その結果、
わたくしは母を孕んだ

「拒んだ/孕んだ」の単純脚韻。しかし事態は熾烈だ。
「母を孕む」というのは認識の逆転ではない。
世代をつないでゆく女性性を
誇示とともに詩的な修辞に包むことでもない。
時間の陣痛の近くに「わたくし」がたえずあるために
「わたくし」が負う倒立的な存在秘儀の形式、だということだ。
「わたくし」が自己抹消を企てても「わたくしのなかの母」がそれを無化する。
それを三角は一旦「悲劇」としるすが、
「悲劇の不可能こそが悲劇」ともたぶん知っていて、
よって悲劇は彼女によって肯定的に待ち望まれる
――そういう幾重もの、(まるでブランショの記述のような)奥行がある。

この詩篇は論理必然として、すごく美しい結句で終わる。
《つまりは//遠くから産声が聞こえる》。
誰の産声?――「わたくしの」/「母の」/「われわれの」、だ。

詩篇「満開の母」でも、結語は「わたくしはいつか/母になる」だった。
繰り返すが、母を生むことと「わたくし」が母になることに
女性性論理ではもはや径庭がない。
こういう認識を導いた三角自身の実母が
たぶん実際に魅惑的なのではないか。
その実母は蒸留された三角の意識のなかでは以下のような姿をしている。
《わたくしの母は/鏡にうつらない》
《わたくしの母は/子供らを切り裂く出刃包丁》
《わたくしの母は/邂逅するには美しい》

この詩集で最も美しいとおもったのは
女たちが三角を基点にかぎりない多数化を遂げる「最後の鈴」だった。
フェミニスム的な疎外論を「見せ消ち」にして詩篇が発動されながら、
女性性由来の肯定性としかいえないものに最終的に行き着く。
《錯覚しなければ》、生きられるのだ。
もちいられる喩「鈴」が「美」を形象させながら
幾重にも意味を深化させてゆく機微をみてもらうため
以下に全篇引用しておこう。



【最後の鈴】


鈴をのみこんだおんなは使い物にならない
捨てるのだ
冬の荒野に
夏の砂漠に
秋の教室に
春だけは勘弁してやった

歩くと
ちりんちりんって鳴くのよ
素敵でしょう
だからみんながわたしのこと妬んでるの
もうすぐ捨てられちゃうんだ
あなたは忘れないで


きれいな手足をしていた
軽やかに舞った
だとすれば
彼女は生きなければならないのではないか

石を投げられた
額が紅く染まった
なにもかもが容認できない
使い物にならないなんて
誰が決めたの

おんなどもの群れが
廃棄され
縦横無尽に彷徨う
ひとりのおんなが
ひとりのおんなの
足を踏み
殴られ
爪をたてられ
ひとりが拡大してみんなになる
無数の鈴が揺られ
残されたものは
半生だけだった

冬の荒野で
夏の砂漠で
秋の教室で
一斉に鈴が奏でられた
涙を流すものも居た
使い物にならなくなった
おんなどもに
残されたものは
半生であり
だとすればやはり
生きなければならないのではないだろうか



三角フォロワーの「ポエム作者」というのは
現在、相当数出現しているとおもうが、
そのひとたちと三角のちがうのは
三角の詩(行/聯)の組成が
勢いにまかせた「私領域」の列挙とは程遠いということだ。

聯のあいだには論理的な罠を仕掛けるような行アキがあって、
なおかつ掲出の最終6行に明らかなように
魅惑的で構えの大きな脱論理が提示されて
それで読者が飲み込まれ、
そうした非知の余韻にこそ詩の本性があるという誘導が起こる。

東京新聞8月23日付夕刊の
三角みづ紀インタビュー(インタビュアー:石井敬)は
三角を適確に読者へと誘導する素晴らしい記事だったが、
見出しは「平易な言葉で深く心に」と大書されている。

三角の用語が平易なのはこの記事の引用部分でも明白だろうが、
修辞が成功裡に進展したときには
語と語の作用力によって詩の本懐ともいえる複雑な化合が起こってくる。
不気味で美しく、洞察力に富み乱暴な――ともいえるような。
このとき三角の詩魂の大きさを称賛するしかなくなる。

それは三角が敬愛すると語る(同インタビュー参照)
金子みすゞや芝木のり子の詩にもたしかにあるものだが、
魂や認知には「いまここの」現代性がもっと「悲劇的に」発酵している。
この点が閑却されてはならない。



化合的=融即的措辞、というものが三角にはいつも萌芽的にある。
今回の詩集で眼にとまったものを以下に拾い上げてこの稿を閉じよう。

《無色の椿がわたしを食べる/一気に飲みこむのではなく/じわりじわり/啄ばむのだ》
(「花売り」部分)

《眼鏡でみようとする世界と/服を着たままはいろうとするお風呂は/均整が保たれているので/寸前で、助かった》
(「破滅の発端はお風呂場にて」部分)

《四季、というものに囚われ/式、というものに惑い/ああ/なんだか死にたくなっちゃったな/満腹になれないんだ》
(「かけぬける、僕らの欲情」)

《蛇行しながらきました/今日のお茶は何にしましょうか》
(「ミシンを売る時」)

《おとうとは/晴れながら降った》
(「家族パズル」)

《このひとごろし!/僕は僕を罵ります/にんげんの飼い方って/牢獄ではないのですか》
(「にんげんの飼い方」)

《わたくしが微塵もないころ/夕日の隣まで叩かれております》
(「夕日の隣まで叩かれております」)
 

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2008年08月28日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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