賀状原稿
以下に今年の賀状原稿を披露しておきます。そのあとに自解も若干。例年、歌仙を短縮化した、この夫婦付け合いのかたちの、長句短句の鏡反射的なやりとりが「まったくわからん」とお叱りを頂戴するので。
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恭喜發財 庚子元旦
木の葉髪思慕に亜麻色などなきを 嘉
百舌鳥の暮らしやなぜ百の舌 律
人へひとそれだけのこと凍ゆるむ 律
湯疲れし日のはなし間どほく 嘉
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第一句(発句)はわたし。「木の葉髪」とは抜け落ちる髪で、落葉を聯想させることから秋の季語です。亜麻色とは灰がかったきんいろで、美しさを印象させますが、ここでドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が「鳴る」とおもいます。木の葉髪の年齢になって、そんな亜麻色の髪を思慕する資格を失ってしまったというのが第一句の大意ですが、「なきを」という悔いを孕んだくぐもった結語が、祝言を目指す正月の付け合いの発句に適さないだろうとも自覚していました。
第二句(脇句)は女房。木の葉から、そこに住まう百舌鳥へと聯想が生じています。百舌鳥にこの字を当てるのは百舌鳥がいろいろな鳥の鳴き真似をするためですが、何のゆえかはわかっていない。でもその場その場の口舌の徒のような軽やかさ、もっというと軽薄ないい加減さがあるでしょう。発句の嗟嘆に、そんな資質を当てつけて、さっそく流れをめでたい笑いに転化したのです。
第三句は「凍〔いて〕ゆるむ」が季語。冬なのですが、すでに寒さがピークを過ぎ、春が間近という希望が語られます。百舌鳥の百舌には「鳥へ鳥」の関係が内在されていると言えて、それならばと、「人へもひとが配されるだけ」という認識が加わってきます。一見、発句にあった諦念と、情が打越重複するようですが、結婚でも交友でも師弟でも同僚でも「人へひと」だから、それは真の祝とも通じている。そして気候ではなく「人へひと」が配されることだけで、寒気がゆるむという驚くべき楽観が仮構されています。第二、第三の渡りが素晴らしく、わたしはすっかり気圧されてしまいました。
第四句はそんな運びに疲弊してしまったゆえの「湯疲れ」の斡旋です。温泉に当たったとは贅沢なことかもしれません。「間どほく」と連用止めにしたことで、「のちの日が豊富にある」という含みもあるし、「湯疲れ」が「花疲れ」(満開の桜に疲れる)を錯視させることで、第三句に兆していた春を実体化させるような動きももたらすとおもいます。「間遠い」はあいだがあること。第四句の場合はポツリポツリ、訥弁の発語になることをしめしますが、「そうはいっても春にはまだ間遠い」と混ぜ返す茶目っ気も生じるのではないでしょうか。