ネット時代の生産戦略
無限労働、ということがよくいわれる。
パソコンという文明の利器が登場してそうなったのだ。
たとえば原稿用紙に鉛筆やペンで原稿を書いていた往時なら、
手は物理的・肉体的に疲れ、
時には腱鞘炎にさえなって執筆も否応なく中断した。
それは「疲れすぎて、そろそろヘンな記述がはじまるぞ」
というサインでもあった。
パソコンにはこれがない。
視神経系統に疲労が蓄積されるとはいえ、
感覚的には「疲れないので」「無限に書ける」。
書くのも、原稿用紙よりもまったく速い。
執筆の創造性とは別のところへキーボード叩きが向かった。
おそらく「喋り」のほうへ。
だから書き終わっての孤独感が以前より深まってもいるはずだ。
パソコンでしるした文章は
デザイン技術があれば、レイアウトデザイン的な完成まで見る。
「プロダクツ」が手元に完了形で現れるのだ。
これは原稿用紙が印刷のための第一素材であった往時とはちがうし、
また発送や公開ですら無方向にできるようになった。
「詩人」のみなさんはネット利用にほぼ冷淡だが、
僕にはこれがよくわからない。
同人費をとって、手近な印刷屋に入稿して同人誌を冊子のかたちでつくり、
それを詩壇内部にのみ発送して事足れり、としている。
たとえばSNS上の日記欄がすでに個人誌としての展開なのに、
多くの詩人がそこでは自分の詩作を出し惜しみしている。
ともあれ、「別の展開ができる」ネットという手段が生じて、
同人誌はその存在意義を熾烈に、遡行的に、問われることとなった。
同人が集まっているゆえん、とは何か。
ただ作品の寄せ集めだけでは、編集意識が低すぎて高を括られるだろう。
特集主義が機能しないのは、特集主義雑誌の売行き低調から知れる。
詩人が詩自体に言及する同語反復・再帰性を恥じよ。
同人が集まっているゆえん、とは何か。
そのことで「党派」が擬制され動きが擬制されること。
たぶんいま同人誌にもとめられているのは特集記事ではなく
むろん個々の作品の寄せ集めでもなく、
本当は、同人同士の「共作」ではないかとおもう。
「共作」を誘導しない詩作を、僕は買わない。
評論を誘導しない詩作以上に買わない。
パソコン-ネットによって流通機構を変えること。
いまは本が出版されても本屋に行くひと自体が激減している。
CDがリリースされてもCDショップに行くひと自体が激減している。
つまりは「店売りプロダクツ」が駄目になりつつあるのだ。
たぶんインディ(小規模出版社)基盤ならば、良書でも最大千冊、
CDの名盤でも最大千枚しか売れない暗黒時代がやってくるだろう。
流通が機能不全に陥りだしているのだ。
ところでパソコンの無限労働の可能性によって、
たとえば詩を書くのはすごく肉体的に容易になった。
こないだ廿楽順治さん、小川三郎さんと話していたら
彼らも僕同様、年間に詩集2、3冊分の詩稿が蓄積されるという。
田中宏輔さんならもっと多いだろう。
また音楽も打ち込みと編集ソフトによって音盤製作が容易になった。
三村京子も現在、アルバム3枚分の歌曲を抱えもっている。
彼女が打ち込み機材を揃えれば、
綺麗な音源がさらにスイスイできてゆくことだろう。
アニメですら編集ソフトをダウンロードすることで
少し時間を割けば一ヶ月で10分程度の作品が個人の範囲でできてしまう。
パソコン型無限労働の可能性が、創作の容易さに向けて
切り開かれているのはこういう事例をみても確かなのだが、
実際に出版や盤リリースとなると費用の問題が生じて
量産体制へと移行できない――これがいまの文化の逼塞因となっている。
ネットを信頼するならやはりサイトなのだ、ネット上で機能するのは。
SNSではないとおもう。
たとえば詩書ならその三分の一をサイトアップする。
「全体」を読みたいひとには入金をしてもらい、
オンデマンド出版としてリクエストしてくれた当人に郵送する
(オンデマンド出版は10冊単位から刊行が可能で、
近年、デザインも製本も格段に綺麗になったのは周知のとおり)。
音盤も収録曲中数曲をサイトで試聴可能にし、
リクエスト-入金をけみして相手方にダウンロードしてもらう。
そういう、最終的にコンシューマーにプロダクツが具体的に届く、
「日記」の書き散らかしなんかじゃない、サイトが必要なのだ。
これがあれば年間に詩集3冊であっても
音盤が年間に3枚であっても自己在庫を抱えることなく
無事に「はけてゆく」ことができる。
実際の出版刊行と較べ費用も格安だし、
千冊を3種つくれば勘定は一種を3千冊売ったのと同様にもなる。
むろんサイトは個人立脚だけでは「薄い」。
ある者のサイトと別の者のサイトが融合してゆかなければならないし、
そのための接着剤が「共同創作」になったりもする。
党派性と、共同性を可能にする倫理的基盤がそこにはむろん必要で、
現代型のディスコミュニケーションにとどまってしまう者は、
以後、「生産」すら至難になってゆくだろう。
それと雑誌機能も必要だ。
外部の才能に原稿発注するくらいの度量がほしい。
サイトはそのようにして立ち上げ方がいっさい変わるべきだ。
誰もがこの点で東浩紀の先駆性をいう。
「網状言語」以降、彼は、自身の効率的な定着につとめながら、
同時にサイトをつうじ、才能を数々サポートしてきた。
大澤真幸、斎藤環、北田暁大などの「大物」でまず固めて、
それで伊藤剛なり鈴木謙介なりを
より大向こうに向けてプロデュースしてきたのだった。
東浩紀の場合は、思考力と情報管理力とが不可分になっている。
あるいは思考力と組織力とが不可分になってもいる。
僕に彼ほどの力があったら、
まずは自分のサイトを解体し、
他人のサイトとの合従連衡を繰り返して、
それを雑誌性と同人誌性とソフト産業性の「基地」にするのだけど。
グーグルの提唱するスパム排除と込みの、
ブログライター時代の到来なんてぜんぜん信じない。
広告をクリックさせるだけの「広告的」文章なんて
アメリカ人でない日本人は、実際に「捨てて」いるでしょう?
ネットは生産拠点にならなければ意味も失う。
SNSで「個人性」にとどまり、
書き込みですら他人とコラボできない
閉じたコミュニケーションが横行するにつけ、
夢想するのは、そんなことだった。
(とまあ、以後5年の自己目標を書いた。
コンピュータ技術をもつ学生は今後より大切になる)