近藤弘文さんの詩法
わたしからはなれる声の虚が
ひび割れた光が散っていて
膝を抱えた
みあげた子宮の活字は
あかごの籠に
かえせよ
ということが
無の網膜を諳んずるだれかの
破水の墨でひいた暗がりを
刻印するでしょう
雨上がりの空に
やまないんだね
光の膝
あ、蜻蛉
そのとき
のそこに座る
●
上は「SPACE」84号に発表された
近藤弘文さんの「膝を抱えた」、
その助詞をわずかに省略して
シャッフルするように各行を入れ替えたもの。
そのさいには行アキも加えた。
もともと近藤さんのこの詩篇は
ほぼ行がつながっておらず、それゆえ
シャッフル転換をもとめているフシもある。
だから読解にも、
「このように入れ替えてみた」という提示が
あるていど有効なのではないか。
そうおもってこの詩篇の入れ替え案を
自分なりにしるしてみたのだった
(むろんほかにも「解答例」がいろいろ出るだろう)。
行の「立ち」、行の加算を
このように否定したがっている近藤さんが
詩の既存性の何を変改しようとしているのか
それをじかに訊いてみたい気もする。
公平を期して、近藤さんのオリジナル詩篇を以下に。
●
【膝を抱えた】
近藤弘文
そのとき
わたしからはなれる声の虚が
としての雨上がりの空に
ひび割れた光が散っていて
かえせよ
みあげた子宮の活字は
に無の網膜を諳んずるだれかの
膝を抱えた
あ、蜻蛉
破水の墨でひいた暗がりを
はあかごの籠に
を刻印するでしょう
のそこに座る
、ということが
やまないんだね
光の膝
●
シャッフルして入れ替えた仮詩篇は
どことなく杉本真維子の詩風と
通じるものがある、と気づく。
近藤弘文さんの詩法に
シャッフル変換を幻視した僕は、
意図的なシャッフルをして
詩篇が幻惑的な意味をさらに生まないか、
これを試そうともした。
以下、そのための習作をつくってみた。
●
【習作1】
連唱の輪かげに
ちいさくしおれるランドセル
罰は当たる、太鼓のなかに
もう二牛をつなぐ綱も
蝋色の二の腕を縛っていた
数式は欠けたまま黒板に
三角ベースも縮んで
ぼくらの、ケインの
ハモニカの墓、下着ごと
胸の葉がなびいてゆくよ
酔芙蓉のひらく生乾きに
茎人間となって根をさがす
袋かぶりの濡れた菜園
性器より怖いものとして
割れた蝙蝠をズボンから
とりだしたそれが鋏
●
これをシャッフルするとどうなるか。
たとえば、こうなる――
●
【習作2】
数式は欠けたまま黒板に
ぼくらの、ケインの
性器より怖いものとして
罰は当たる、太鼓のなかに
袋かぶりの濡れた菜園
酔芙蓉のひらく生乾きに
三角ベースも縮んで
とりだしたそれが鋏
蝋色の二の腕を縛っていた
ちいさくしおれるランドセル
ハモニカの墓、下着ごと
茎人間となって根をさがす
割れた蝙蝠をズボンから
胸の葉がなびいてゆくよ
もう二牛をつなぐ綱も
連唱の輪かげに
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つくってみて、どっちが面白いか、
わからなくなった(笑)。
詩なんて、いいかげんなものだなあ
(キネ旬用の北野武=ビートたけし論が早く終わり、
DVDも返却したので、こんな遊びをしてみたのでした)