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賀状原稿2021 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

賀状原稿2021のページです。

賀状原稿2021

恭喜發財     辛丑元旦
  
  
屠蘇にひそむ味醂の甘みうつくしき  律
井戸うすき世をゆるゝわかみづ  嘉
ユークリッド詣蝸牛天牛きりとつて  嘉
そらうつる田のやうなてのひら  律
  

  
正月も7日を過ぎたので、今年の賀状原稿を公開。上のように、例年相変わらずの夫婦の付け合いを綴った。この形式にずっとしているのは、夫婦間の「挨拶」がそのまま賀状送付者への挨拶につながる一方、当方もいちおう詩を書くものとして、短い文面に機微を盛り込み、鑑賞可能なものをひとに贈与する責務を負うとかんがえるためだ。
  
ふたりの付け合いなので、長句→短句の割り振りは古式に則りABBAの順となる。季節柄発句を新春にし、第四句あたりで春の気配を目論むのが筋かな、となんとなくおもう。気をつけるのは、忌句をしるさないこと。かつて賀状で短詩を披露していたわが友人は、忌句を大胆に織り込んでいたが、言霊主義者には顰蹙を買っていたのではないか(わたしは愉しんだが)。
  
妻の発句「屠蘇にひそむ」は軽い。妻は酒飲みではないが、屠蘇ていどなら唇を濡らせる。伝統的な屠蘇は日本酒と味醂を調合し、甘くする。その甘みが、自らにとって「うつくし」と述懐され、どこかそこに少女的な抒情もたゆたう。「うつくしき」は連体形終止。これが短歌に多いことからも抒情性が強化されている。発句上句の「屠蘇にひそむ」の一音超過はたゆたいを助長しているだろうが、これが第三句上句の大超過音数をのちに喚起する。
  
わたしの脇句は、発句にある「屠蘇」=正月の甘露を、「わかみづ=若水」にずらした。若水は年の始めに井戸より汲む水。飲んで身を引き締める。ただしもう井戸を使う家は少ない。それで多少無理な修辞ながら、「井戸うすき世」と綴った。その井戸水の総体をおもい、世を渉る気配をひそめた。「井戸うすき」は「移動好き」と同音。そこには移動がままならなかった旧年へのおもいがある。
  
それを展開してのわたしの第三句。上句「ユークリッド詣〔もうで〕」はほとんど現代詩の修辞。しかも九音と、大幅な音数超過となった。上句九音でわたしがおもいだすのは、加藤郁乎の大好きな前衛句《遺書にして艶文、王位継承その他無し》。「詣」一語に空間移動を挿し込んでいる。幾何学的なかたちを空間、とりわけ「空」から抜き取る小旅を詠み込んだつもりで、そのことで正月空間からの、第三句なりの転調をしるしている。抜き取った幾何学形は、蝸牛〔かたつむり、まいまい〕の殻の螺旋と、天牛〔カミキリムシ〕の触角だった。「蝸牛」「天牛」ともに中国の呼称だが、このふたつになぜ「牛」の字が用いられるのかは前々からの興味。むろんはじまった丑年に呼応している。
  
妻の第四句は、第三句の「そら」の気配を受けて自分のてのひらをみつめる。あっさりした直喩構造で、水を張った田がてのひらに似ているとしるすのみ。「水田」は夏の季語として明治以後確定したようだが、空の反映のある水田なら、まだ稲ののびていない春だろう。それで、第四句で春という賀状付け合いの要請にこたえられた。第三句「きりとつて」にある手指の伏在が、てのひらの実在に変貌する発想のシンプルさが命。
  
ということで、今年の賀状付け合いは、皮肉の応酬をわずかにふくませるいつもの手法から離れた。時世を顧慮、すこしでも面倒を厭ったかたちだ。全体に微風の抜ける感触があって、気に入っている。

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2021年01月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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