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花束みたいな恋をした ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

花束みたいな恋をしたのページです。

花束みたいな恋をした



普遍的な同齢学生男女の出会いを描けば恋愛映画だし、別れを描けばそれも恋愛映画となる。ところが出会いと別れ双方を等分に精密に描くとそれは、運命論映画、時間論映画となる。ふだんあまり意識しなかったそんな真理を土井裕泰監督『花束みたいな恋をした』でふたたび思い知らされた。どんなシーンもすべて振り返ればありきたりなのに、すべてが不可逆性を帯びて見える。崇高な張り詰めが事後証明される。この映画の終結に涙する若い女性が多いのは思い当たる自分の人生があるのかもしれないが、厳粛になる、というのが正しい鑑賞後の感慨ではないか。主役男女、菅田将暉と有村架純の2015年から2020年までの物語。高い偏差値でサブカル好きの二人がことごとく嗜好が同じと気づき、自分たちが似ていると感動するのが恋の発端だった。穂村弘、長嶋有、市川春子、「たべるのがおそい」、小川洋子、クーリンチェ少年殺人事件、エトセトラ、エトセトラ… それにしてもSMAP消滅はこの世代の不如意に大きな影を落としたのだなあ。
 
 
脚本は坂元裕二。ぼくはもともと坂元脚本が大好きで、それはトリビアに対するアフォリズムにどうでもいいのに膝を打つような真理が籠められているためで、しかもそうしたアフォリズムが作品に散乱しながら、ドラマが意外性も含めきちんと進んでゆくから凄いのだ。そこにリアルな社会批評性すら上乗りする。しかも俳優に着実な芝居どころを作る。ユーモアもある。今回の坂元裕二はなぜ若い男女が恋仲になり、それがやがて破局するか、そこに大学卒業後のダンピングと勤め先の価値体系と多忙とすれ違いがどう関わるかをするどく剔抉している。とりわけ犠牲感のつよい菅田将暉が哀しい。だから相手の有村架純も哀しい。ところが脚本が坂元だから、ディテールはありきたりのまま、その細部性の精度までもがキラキラしているのだ。固有名詞の数知れなさは何か作品の切迫に拍車をかける。それと、この映画は入不二基義の運命論哲学と高く親和している。偶然と必然に見分けのない物語はすべてそうなのだが。
 
 
真夜中の甲州街道の押しボタン式横断歩道での初キスシーンが胸を打つ。だが別れの決定打となる夜のファミレスシーンがさらにすごい。そこで清原果耶が登場し、菅田有村二人が涙にくれることになる。冒頭に書いたが、その別れが出会いの現実性に遡行し、反復という要素を巻き込んで、作劇が運命論化することになったのだ。ところがオイディプス王ではなく、誰もが経験する範囲内でそれが起こるのに注意。かつて夫婦で千歳烏山にすんでいたから、京王沿線舞台のこの映画がとても胸に迫った。その場所にいること、が主題でもあったので、なおさらだ。土井裕泰監督は着実に勘所を押さえながら、しかもスピードの弛まない素晴らしい演出を、場所の指標提出とともにおこなっている。半分くらいの場所がわかった。地理的緻密。満席がうなずける傑作だった。主役男女のナレーションが時差を伴って相次ぎ出現するのは、『君の名は。』のナレーション唱和への批判が籠められているかもしれない。
  
  
建国記念日、札幌シネマフロンティア14時45分の回を鑑賞。口コミ動員のみならず、リピーターも押し寄せているという
 
 

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2021年02月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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