三島有紀子・Red
去年はコロナ禍で劇場に行くマインドが起こらず、多くの映画を観逃した。かつて『繕い裁つ人』に熱狂した三島有紀子監督の『Red』もそのひとつ。DVDを通じてようやく鑑賞した。
島本理生原作。原作は未読だ。特異な時間構成をしている。夜の記録的豪雪のなか新潟の蔵元から東京へと妻夫木聡の運転するクルマに同乗する夏帆の難航が現在時で、そこに回想が順序立てて割り込み、回想時制が徐々に現在時に近づき、作品終わり近くで回想が現在に追いつく。それと、原作と映画版はラストが違うらしく、多義的な描写により、今度は夏帆が運転し妻夫木が助手席に乗るクルマが「赤」のなかに入っていく様相で映画が終わる。黒沢清『予兆・散歩する侵略者』のヒロイン夏帆が『散歩する侵略者』のヒロイン長澤まさみのワンシーンに代入されるような図式となり、本作の脚本に三島有紀子とともに黒沢『クリーピー』の脚本を担当した池田千尋が入っているのが関係しているかとも思う。
作品の構造は過去を掘削し現在時に補給するという大枠だが、この過去ー現在の関係が、表情ー感情の関係と並行している。夏帆の顔がすごいのだ。女優としての夏帆は子役時代の可愛いさを顔全体に残存させながら、眼もとが経年により悲哀を蓄積させた得難いルックスをもつ。眼だけを取り出せば、アフリカ象のような縹渺たる印象をあたえる。本作では夏帆の顔の全体の可愛さ、近づいたときの顔の悲哀につき、それぞれ共演者からの評言が織り込まれていて、本作を夏帆の「顔の映画」として発想したのは間違いない。夏帆は微妙な表情をする。しかも表情は固着させず揺るがせる。結果、ある瞬間のある表情→感情の掘り出しは部分的に決定不能に陥る。この決定不能性の蓄積が存在の魅惑化の実質となるのだ。表情変化を得意とした黄金期の女優にはたとえば高峰秀子などがいるが、高峰秀子は速さで幻惑した。夏帆は揺れと決定不能性の残像により、画面に彗星の残像軌跡を描く。夏帆のほうがさらに映画本質的なのがわかるだろう。もちろん表情で感情を固めないこと、それが最終的に画面の中の存在を遅効的に作り上げることは、俳優尊厳の問題に属する。
表情と感情の二項性は、顔次元に微分化すると眼と口の二項性に換喩される。『Red』は夏帆に関して裸体提示を抑制しながらも、激しい性愛シーンで顔をヌードとして提示する点で衝撃を与える作品だ。とりわけ性愛シーンでの口のさまざまな使用が痛ましく、夏帆の眼の哀しさと実際は二層構造を作る。レヴィナスの顔貌論では顔は一元的に孤独化されているはずだが、三島有紀子は顔を二層的に捉えたことで、俳優ふたりの顔貌の至近化にたえず動悸をもたらす。とりわけ、作品が半分を迎えるやや手前の、夏帆と妻夫木の性愛シーンでの夏帆の顔は過激すぎる様相で要約不能化しつつはげしく揺らめく。とりわけ口が凄みを帯び、ポルノグラフィでも観たことのない強度がある。しかもそれが哀しいほどに美しいのだ。
過去の恋人との再会が性愛に転化するという点では例えば近年『火口のふたり』があったが、そこでは相愛再燃は俳優たちの言葉で説明され、何の驚愕もなかったし、「愛」を病患する俳優表情の崇高さもなかった。ところが『Red』の夏帆は唐突さにより衝撃的な一方、要約不能性の蓄積によって「映画時間」そのものを一切の退屈なしに生産し続ける。夏帆に対する三人の男がいる。まずは過去の恋人で偶然再会し、その導きで同じ設計事務所に勤める同僚となった妻夫木聡。それとやはり同じ建築事務所にいて軽快な漁色家ともいえるおそらく管理職の柄本佑。そして裕福だが内実は沈鬱な家庭をともに営む夫役の間宮祥太朗。それぞれに夏帆の表情生産の形式が異なる。妻夫木との交接で夏帆が崇高に動く顔のヌードを展覧させたことは既述した。その前、社内の飲み会で、柄本佑の企みによって夏帆は二人きりの抜け駆けをしいられるのだが、そのあとの大胆な仕種の選択連続によって表情の色相がカラフルに変化し続けるのにも驚嘆した。そこにも顔と仕種のヌードがあった。間宮祥太朗に対しては表情は抑制されるが、その沈着の表情も美しい。忍耐だけを見て取ってはならないだろう。
表面的には、女性の家庭と仕事の相剋を主題にしているようだが、それを内破するように、表情と感情の相剋、眼と口の相剋、さらには三人の男ごとの顔の分立を夏帆の次元で描くことにより、物語と顔貌の分離不能という映画の本質に迫ったのが本作だ。ところが間宮祥太朗にない聡明さをあてがわれた柄本佑は、「誰かと一緒にいても、一人で生きているような種属」として自分の同僚の夏帆と妻夫木聡を同属化する。妻夫木は作劇上病弊を与えられ、元々の美しさに陰翳が加わる(彼の愛読書は谷崎の『陰翳礼讃』だった)。ところがそれは孤独の美しさなのだ。そこまでならレヴィナス的だろう。ところが夏帆は孤独に、突発、抑制、愛、窓などさらに異次元のものを攪拌させ、孤独から孤独化を差っ引いている。孤独を自体的に救抜しているのだ。
そういえば谷崎で思い出したが、三島有紀子監督の劇場第1作は『刺青・匂ひ月のごとく』だった。大映調というか増村的にエモーションが畸形化した同作にチープながらすでにエロス描写の玄妙があった。散々強調したものの、しかし『Red』の描写主眼はエロスではない。孤独と相剋であるにすぎない。ところがエロスがそこに必然的に付帯してしまう。その結び目を捉えようとして、トラックの下に巻きついて夜の雪空に捲き上る赤い布が思い出され、レナード・コーエンの至上の名曲「ハレルヤ」もそこから綻び出してくるのだった。