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廣木隆一・彼女 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

廣木隆一・彼女のページです。

廣木隆一・彼女

 
 
ネットフリックスの独占配信映画、廣木隆一監督の『彼女』、とても良かった。ドメスティックバイオレンスの夫を殺してもらった女(さとうほなみ)と、その殺した当人の女(水原希子)同士の逃避行なので、大枠はリドリー・スコットの『テルマ&ルイーズ』を髣髴させるのだが、当初予想していたレズビアンカップルの道行ではなかった。現在29歳と説明される水原とさとうの相愛には偏差があって、それが彼女たちと全然似ていない高校時代に設定された子役たち(水原の子役が南沙良、さとうの子役が植村友結)のエピソードを皮切りに語られるとき、運命共同体となるべき女がふたり並んでいるときの揺れや隙間がとても映画的で複雑に映った。「女がふたり並ぶこと」を極められなかった『さよならくちびる』とはぜんぜんちがう。ふたりをたえず風景が囲み、クルマやバイクでの移動によってふたりの背景が流れると、それが偏差と一体化のあいだのゆれとなって、説明しにくい情緒を放ちだす。子役が全然似ていないことはおそらく故意によっており、そういう隙間に、作品は世界をみて、その世界を揺らしていると言えばいいのか。レズビアンとはなんだろう、と観ながらふかく考えを巡らせてゆくことにもなった。たぶんその世界には「念」と「承認」の神秘的な背反がある。
 
展開が偶有性にみちている。それは俳優の出現にも現れた。真木よう子、烏丸せつこ、田中哲司、鈴木杏などは出現してからすこし経って役柄と性格が了解され、水原希子との関わりが濃淡さまざまに判明してゆくのだが、それは世界のディテールを見るときと似ている。子役と成人役が似ていないことと、作品が世界のディテールと似ていることとが相関していると気づくと、これは傑作だという昂奮が高まっていった。最初のノワール感覚にみちた殺人シーンから大胆に裸身を披露する水原希子は、これまでずっと苦手だったが、最終段階以外は実存感覚があって、初めて好きになった。それよりもさらに、これまた大胆に裸身を披露する、しかもレズビアンに「入ってゆく」さとうほなみの表情変化に息を飲んだ。ゲスの極み乙女。のドラマーと言って、イメージが結ばれるだろうか。仏頂面に刻まれる微表情がたえず良い逸材なのだが、その良さが初のレズビアンシーンで水原希子にも逆転的に反射してゆく。本作で最も夢幻的なシーンだ。そうした表情変化と、たとえばタクシー運転手の田中哲司が、逃避行を察し、水原、さとうを送り届けた地方の駅舎の空間性、そこでさらに起こる展開などに感動することになる。変化への感動という点ではすべて統一性があるのだ。子役の植村友結が陸上競技スパイクを万引して、それを追っていった南沙良がスポーツ店の店員たちともどうからむか、あるいは逃避先の別荘の二階からさらに逃げるために水原、さとうのふたりが揃って爽快に飛び降りたとき、そこにさらに鈴木杏がいることで何が上乗せされたのか。作劇の眼目は田中哲司をふくめ、「さらに起こること」にたえず置かれていて、それが世界と同等のひろがりの感触をあたえているのだと気づいた。
 
廣木隆一に関してはその近作を観なかったり観たりしているが、女ふたりが同一空間を占めることの魅惑という点では大傑作『ガールフレンド』と肩を並べ、同乗者ふたりのクルマの走行描写にかぶさる音楽の心地良さでは『ヴァイブレータ』と匹敵する面もあった。神技の撮影が桑原正祀、原作が中村珍、脚本が吉川菜美。吉川の脚本はノンシャランとみえて、じつは精緻を極めている。さりげなさや逆転に記憶の負荷を刻む方法論が貫かれ、局面局面が意想外なのに親和的なのだった。だからいずれ脈絡を忘れてもそのディテールを懐かしくおもいだすだろう
 
 

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2021年04月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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