今泉力哉・街の上で
今泉力哉、やっぱりめちゃくちゃ面白いや。ただし、その面白さを具体的に語るのはすごく至難だったりする。劇中、人と人との関わりの日常性がまず巧まずに差し出された上で、その展開に常軌から少し外れる小さな綻びや間があったりする。そこが観察者側のくすくす笑いの微妙なポイントになるのだが、実はそういったポイントが作中に数知れず、映画を観ながらにして、ディテールの素晴らしさがすでに記憶容量を超え、繰り返すが、映画を観ながらにして、この映画を再見したいという、ありえない欲望に悶々とさせられたりすることにもなる。観ながらにして再見したいと思ったのは、下北沢を徹底的に舞台にした(魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』の記憶とも二重写しとなった)この今泉力哉監督『街の上で』の前では、サブカル固有名詞が乱発された坂元裕二脚本、土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』があった、今年は。
冒頭、若葉竜也の青が恋人だった穂志もえかの雪に浮気された上に、理不尽にも別れを切り出され、さらにしかもその浮気相手の名前を絶対に言いたくないの一点張りで、それに対して青が雪とは「絶対に別れない」と宣言、このときに雪がその対応策を語る流れとなるが、二人の応酬が常識から外れているし、雪の示す最終的な対応策の内容自体がこれまた異様だったりする。どういうか、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれているような「収まらない」感じ。そうして受けた奇異な感触は、それらの1秒後にはすべて笑いに転化している。人間の滑稽さを軸足にしてしか、人間愛はありえないという真っ当な言い方もありうるが、人間二人を包んでさざなみを描いている空気そのものが可笑しいと語ったほうが実はいいのかもしれない。
惹かれたディテールを語り出すとめちゃくちゃ長い書き物になってしまうので、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれて嬉しくなったシーンをいくつか書きとどめておくことにする。ライブハウスでマヒトゥ・ザ・ピーポーの弾き語りを見た後、青=若葉竜也が、ロビーで見知らぬ別の女の客(カレン)にタバコを所望され、青がない、と返事をおずおずすると、女が逆方向の見知らぬ男客にタバコを「2本」所望、その男が2本を「メンソールだけど」と女に差し出すと、一本を自ら咥え、もう一本を青に渡すが、女が友だちに気づきその場を離れ、マッチもライターもズボンのポケットに入れていないタバコを咥えたままの青がその場に立ち尽くしている。これも割り算の余り。
あるいは、美大系の女子大生、町子(萩原みのり)に青が古着屋で働く間暇に読書している姿の良さを見初められ、映画出演を依頼されるが、極度のあがり症で、古書店の店員・田辺(古川琴音)を古着屋に引き入れてその読書姿のリハーサルをしてもうまく姿が軟化できず、見かねた田辺が代わりに青の持っていた赤いカバーの書籍『金沢の女の子』を拝借して試しに読書ポーズをとってみるとぴったりハマるのだが、その田辺のポーズも物語の必要性からして余りとしか言いようがない。
あるいは映画の撮影本番、テイクを重ねても読書ポーズの提示に失敗しつづけた青がなぜか「あした撮休」の中間慰労会にいて「余り」気味に居心地の悪さを強いられていると、衣裳スタッフの「城定」イハ=中田青渚に助け舟を出され、やがては出演者控え室と見えていたが実はイハの自宅マンションだったその部屋で恋バナが始まり、青がいまだに雪への執着が解けない苦衷を語った後に、ひょんなことから青にとっては雪が初めての女で、つまりそのときには童貞で、雪の満足を導けず、AVを見て勉強して、と言われ、実際勉強に励もうとすると出演しているモデルが常に意に沿わず、それでフーゾクで体験を構築しようとして、で、そのときのフーゾクのお姉さんのやさしいみちびきに、雪よりももしかすると好意を抱いたかもしれないと思った後日、ラーメン屋・珉亭でそのお姉さん(村上由規乃)とぐうぜん出くわして、ふと目が合って微笑を交わしたなどと青はイハに語ったはずなのだが、そのときの珉亭を舞台にした、村上の半身がこちらを振り返る一瞬のインサートショットがやっぱり豊か極まりない余りなのだった。
余りといえば、ゲスト出演し、俳優経験者の記号を振りまくことで一件落着だったはずの成田凌の、その後の設定がすべて贅沢で笑える余りだし、朝の路上で俳優4者による疑心暗鬼と大人げない言い合いという非常に奇妙なクライマックスに出現する自転車もその後の役割付与からして余りだし、あるいは、イハの住まいにいるとき、イハが映画に使う白布を確かめたいからと青に言い、お茶のコップが並ぶテーブルの上に、青に片方の端を持ってもらって白布を拡げたとき、その白布自体がレフ板効果を持ってイハの顔を明かりさせたのだが、そのショットの崇高な美しさもドラマのストーリーのどこにも帰属しない点で、これまた却って忘れられなくなる余りなのだった。
総じていえば、映画の全体はそういった余りに溢れ返って、作品構造の脱中心性をしるしづけ、しかも作中のすべての偶有性の感触がどう設計されているかを考えさせ、結局、今泉演出の緻密さ、それと共同脚本の大橋裕之の企みの斬新さに、観ながらにして、掴まれまくることになる。これは、観たことのない映画だ。各シーンの連結が一見弱く、しかもそこに現実的な伏線が張られ、その回収の手わざそのものに下北沢というか世界そのものがなつかしく現れるという点では、そう、前例のない映画なのだ。それでいて角度は異なるとはいえ、映画とはディテールだけだという宣言性では、この『街の上で』はおなじ今泉の奇蹟的傑作『愛がなんだ』を方法論的にもスタッフ的にも俳優的にも継いでいた。
この映画で眼が眩む理由は他にもある。主たる4女優すべてが良いのだ。まさにそれは過剰に属することだった。ところが、先程記したように、メンソールタバコの女も、珉亭にいた回想のフーゾクのお姉さんも、さらにいうなら恋人の告白用の服選びに意に添わぬ助言をする女も、魚喃キリコ聖地詣の当事者と案内者の女たちもともに良いのだ。なんという、余りに満ち溢れた映画だったのだろう。幸福にならずにはいられない。
5月2日、札幌狸小路のサツゲキにて鑑賞