清原果耶頌
ネットフリックスで、見逃していた藤井道人監督『デイアンドナイト』を観た。海浜の風力発電機が林立する風景をはじめとした秋田の風土感、善悪の選択不可能性を捉えようと青臭く軋む脚本、企画・原案を兼ねた主演・阿部進之介の存在感など、驚くべき美点が満載の映画だったが、やっぱり清原果耶が鮮烈で、また彼女に恋をしてしまった。
で、以下は簡単な清原果耶メモ。
ロングで捉えられた最初では、21世紀生まれの少女の、弱含みの寂寥感に動悸を覚える。ただしその段階の彼女はまだ普遍性の域にある。カメラが近づき、役柄と感情と場面が展開されだすと、やがてその特異性に魅了されてゆくことになる。彼女の顔は大体においてその前髪による隠蔽感が高い。鼻筋は太く、鼻梁が高い。その鼻に顔の中心線が占領されて、両眼間の間隔も広く見える。独特の鼻は、クヒオ大佐を演じた堺雅人を想わせる。なのにどういうか、ファッショナブルなのだ。
とりわけ眼の表情の微差が存在本質として蓄積されてくる。悲哀、憂愁、聡明、いたずらっぽさ、涼しさ、ユーモア、真摯……顔のタブララサにこれだけ豊かな情緒を重ね書きできる女優は稀有だろう。彼女はパランプセストを顔にもつ多重体だが、それはみつめた末におずおずと現れてくる。これこそが彼女の特異性だ。彼女はほかの誰よりも遅れて役柄になり、しかもかたどられた推移が美的に分岐し、要約不能の状態となって、観客を溜息に包み込む。清原果耶は遅効的な時間そのものなのだ。最も記憶本質に近く、記憶されるべき女優。しかもその時間の線型性を裏打ちしているのが声の良さだった。この作品では別名義で野田洋次郎の作った主題歌も唄っているが、そのかぼそく、かつ芳醇な少女性の声も夢のようだった。
テレビドラマでは『透明なゆりかご』に瞠目した。だから発見は人より遅れたかもしれない。『俺の話は長い』での生田斗真などに対する涼しい演技アンサンブルの音楽性に恋をした。重厚なドラマでは存在全体が傷口になりながらも、その隙間から希望を遠望させる。日常的で巧まないドラマでは、身体の周囲という領域に視聴者を目覚めさせる。
『おかえりモネ』、見ようかなあ。朝ドラは『あまちゃん』以外は見たことがないのだけど
*
(ネットフリックスで立て続けに、やっぱり清原果耶目当てで川村泰祐監督『愛唄・約束のナクヒト』を観てしまう。相愛の若い男女がなんと相互に癌で余命幾許もないながら、命を惜しまず太く短く恋の1日を生きてみせるという、あられもないティーンズギャル向けの難病物・泣かせ映画で、テイもなく泣かされてしまったのは、ぼくがユルくなっているためか、清原果耶演じる白血病の少女詩人「伊藤凪」の詩が俗っぽくてそれなりに上出来だからか。相手役の横浜流星は病気設定とはいえ顔色悪すぎかも。一瞬のスキンヘッドが衝撃的な清原果耶さんの、からだの細部のふっくらとした曲線、いいなあ。しかしある意味、伊藤凪はティーンズの間では有名詩人にランクインするだろう。臨終シーンの相互の割愛はナイスチョイス)