濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』
※以下の文は、濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』をご覧になった方のみお読み下さい。もちろん肝腎な箇所はネタバレ回避してはいます。
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濱口竜介が映画脚本を確定するにあたり、出演者へのリハーサル(エチュード)を繰り返し、科白の「言えなさ」(恥辱域)を確定し、その境界線に俳優たちを刺戟的に近づけることは、すでに濱口自身がその映画演出論で記している。また科白の肉化にあたっては、ジャン・ルノワールの前例に則り、徹底的に本読みで抑揚や感情を欠いた棒読みを促すことも知られている。なぜ棒読みなのか。嘘の感情、造型を排するために、科白の「音」と、等質配分がふさわしい科白の時間的持続性に覚醒してもらった上で、俳優たちに、恥辱を残した「役柄」に真になってもらうステップボードを提供するためだろう。そうした濱口の俳優造型論が、本作ではチェーホフ『ワーニャ伯父さん』の舞台稽古現場を描くことで、再帰的に露呈されているのに、まずは動悸した。濱口の作家的秘密の暴露に当たるためだ。
とても長いアバンタイトルでもある本作第一部で圧倒されるのは、演劇の演出家であり俳優でもある家福=西島秀俊の妻にして、シナリオライターである音=霧島れいかの、異様なシナリオ創作術だろう。彼女はセックスの高揚のなか、憑かれたように(イタコのように)シナリオのストーリーを語り、しかもそれを憶えておらず、翌日、西島に復誦させ、それを基にとったメモからシナリオを具体化してゆくのだ。そこでは恥辱に関わらぬ天啓として、非濱口的なことばの別層が神秘的に出現している。しかも映画の第一部で語られてゆくその物語の内容が映画の入れ子、内在的アレゴリーとしてとても蠱惑に富む。同級生「山賀」に一方的に懸想し、学校を抜け出し、誰もいない山賀の自宅の部屋へ密かに侵入、そこで長い時間を過ごしながら、山賀の痕跡探しとともに、自分の痕跡をも目立たない場所にたえず残してゆく少女。しかもその場所では欲求はあっても、オナニーが自制される。この少女のありかたに、空間上のアレゴリカルな交合の秘蹟を見ないわけにはいかない。
第一部ではそんな妻・霧島れいかと、夫・西島秀俊の決定的な破局の瞬間と思しき場面が出現しながら、西島がそれを「やりすごし」、現状を持続させる不可解な成行きを、美形俳優・高槻=岡田将生へのつよい印象付与とともに沈殿物としてのこす。やがて妻・霧島は急逝する。
濱口が大江崇允とともに仕上げたこの『ドライブ・マイ・カー』の映画脚本は、村上春樹の原作のもっていた物語のポテンシャルを緻密にパッチワークして、3時間の映画性へと枝葉をつけて構造化したもので、観客をまず没入させるのが物語の進展そのものの蠱惑であるのは言うを俟たない。そこに第二部、前言した『ワーニャ伯父さん』の、効率的か非効率的か判別できない本読みシーンがからむ。実現されるべき舞台では多国籍の俳優がオーディションで集められ(この設定は村上原作ではなく濱口オリジナル)、それぞれの母語のまま科白が発声されることが意図されている。本読みでは棒読みのみならず、その発声時間の均質性が厳密化され、俳優たちは自分の科白の終わりに合図として机を小突くなどサインの物音を立てるよう励行を強いられている。共演者の音=声を、物理的抽象的な均質性としてからだに叩き込むことが、つまり相手を「聴く」ことが、「役に自分を差し出す」ことなのだ。時間上のアレゴリカルな交合の秘蹟。その前提から能産的な変化が生まれる瞬間が律儀に待機されている。
多言語性という言語の本質以外に、さらなる仕掛けがある。まずはソーニャ役にキャスティングされた韓国のイ・ユナ=パク・ユリム(彼女には天使的に美しい瞬間が連続する)が発声障礙者だという点。したがって彼女は韓国手話で「音なき発声」をするのだが、そのことに、他の俳優の実際の多言語の発声との段差が設けられていない。手話もまた実際的な発声だというニュートラルな見識が貫かれている。
第一部で奇妙な澱を残した著名な美男俳優・高槻=岡田将生はなぜか通常の自分の仕事よりマイナーな、この西島演出の『ワーニャ伯父さん』のオーディションに応募し、しかも西島自身が演ずると目されていた主役ワーニャの役に抜擢される。年齢的にも印象的にも柄に合わないその役に岡田は苦闘し、西島の本読み演出とずっと波長を合わせられないでいる。観客は気づかなければならない。「演技ができないという演技」は、リアリズムを迷宮化させる観客への罠なのだ。虚実皮膜というが、その皮膜の審級を座標化させない別次元がそこに仕込まれる。それに接する驚愕は、アスタ・ニールセンに対してバラージュ・ベーラが称したような、「深度」測定に関わるものにならざるを得ない。しかも岡田は自制が効かない性格的難点を負わされるばかりか、挑発性と苦悩を撒き散らしながら、生前の霧島との浮気の証拠物として、霧島の語った「山賀」に恋する女子の、西島の与り知らない「その後の物語」を仄めかすことになる。彼の動機は悪意ばかりではないように見える。そこでは俳優としてのみならず存在としての発語の真実性が追究されているのではないか。悪役とも捉えられかねないこの難しい役をやり遂げた岡田の演技力はとりわけ称賛に値するものだ。
しかも映画内では岡田の役柄・高槻の真実性にお墨付きを与える役柄もまた称賛に値する。それが西島の運転手役の20代前半の女性・みさき=三浦透子だった。これが第三の仕掛け。演技者でなく、ただ受動的に西島を宿や稽古場に運ぶ運転手の責務を負っているだけに当初見える彼女は、寡黙で無表情と見える。物言いもぶっきらぼう。それは役者でないのに、棒読みを期待される俳優たちの範例にすでになっているかのようだ。生前の霧島が残したカセットテープをクルマのなかで乞われて三浦がかけ、それが励行されるという人工的とも捉えられかねない設定の効果が大きい。霧島は『ワーニャ伯父さん』のワーニャ以外の人物の科白を吹き込み、ワーニャの科白箇所では「間」を開けている。その「間」を利用して、西島がワーニャの科白を車中で実際に発声する。それは科白憶えの域を超え、チェーホフのテキストの時間性を自分の身体に流し込んで自分を保持する営みへと深化しているだろう。それを運転手の三浦は、運転のため前方に注意を払いながら、日ごと聴き続けている。その設定そのものが何か演劇的な可能性を待機させていると感じざるをえない。
西島の『ワーニャ伯父さん』の演出の完成が、こうしてパク・ユリム、岡田将生、三浦透子の三層が複雑に絡んで実現されてゆく構造に、物語の表面的な進展以上の昂奮が生じてくる。なぜならそこでこそ、ことば、発語、感情、真実、存在が輻輳する運動が映画的に起こるためだ。どういうことか整理しよう。
天啓のことばは当初は霧島れいかのシナリオのストーリーだった。ただやがて、俳優による肉化を待望されている、しかもそれが、容易でない個別化をも促すチェーホフのテキストに変わる。ことばを通じてこそ存在が存在になること。ことばはそうして媒介であり、試練なのだが、となるとそこに神聖をみても良いだろう。ところがそれに霧島れいかはセックスも援用した。岡田将生は悪意と苦悩を援用した。それらはともに彷徨者の所業ではないだろうか。西島がそこから脱出できたのは、自分と同じ属性をもつ三浦透子と互いの過去をまず確認しあったからだが、このとき三浦透子の寡黙が覆されながら、しかもなおその発声に抑制の続く三浦の特質に気づく必要がある。この語りは、主張しないという意味で本質チェーホフ的なのだ。そう、三浦透子こそを『ワーニャ伯父さん』の出演者として遇すること。三浦透子こそを現実のソーニャだと気づくこと。それは霧島れいかをはじめ物理的に『ワーニャ伯父さん』に登場できない人物たちがその舞台にのぼっていたという追認をももたらすだろう。そうして別次元のチェーホフの戯曲が作品の芯に収まり、それに代わって、作品の描いてきた現実人物たちが寓話のピースの色彩をも帯びてゆく。このことが、この映画に身体的に起用されている俳優たちの恥辱を美しく形成している。むろん「芸術」は三浦透子の表情のように慎ましく、その手当されない頰の傷のように慎ましく、「現実」を包含してゆくしかない。しかしそれらはよく考えれば、ことばという実体の定かでないものの特有性から導かれるしかないのだ。
そう、本作のことばの蔓延はもとより尋常ではなかった。セックスの渦中には霧島れいかに舞い降りたシナリオのストーリーのことばが溢れかえっていた。三浦透子が西島を運ぶクルマには、カセットテープからの霧島の声と西島の応答発声が満ちあふれ、そこにいっとき岡田将生の真率な語りまでもが交錯した。セックスとクルマにことばが不自然に充満している。驚くべきは、すべてのことばが「聴こえ」、観客の胸に入り、胸を打つことだ。本作は一面では領域に映画的に分け入ってゆくクルマの映画だが、そこにことばの映画という倒錯がさらにまぶされている。クルマの速度とことばの多さでいわば存在がかすみ、そのかすみが、チェーホフを筆頭としたことばの神聖なかすみの具体性へと押し上げられるのだ。しかもそのことばの本質は忘れるべきではないが、慎ましさだった。そのために、西島は妻との破局の瞬間をやり過ごしていたのだし、三浦透子は同調と必要が生じるまで自分の過去を語らなかった。現実では「じっくり考える場所」が希求されるしかない。唐突な北海道への舞台の移行は人間的には必然と感じられた。そうして風景が映画的に変化した。このあたりの出し入れは錯綜している。
実際の舞台ではことばと人間の関係はどうだったのか。『ワーニャ伯父さん』の終景、ワーニャを励起するソーニャ役=パク・ユリムの姿が催涙的だった。彼女は成瀬巳喜男の二人物縦構図のように、後ろ、ワーニャの肩越しから、「手話」で諦念を含んだワーニャへの励ましを圧倒的な表情豊かさで語り続けた。本当に語り続けた。むろん手話は聴こえるのではなく、見える必要がある。しかしそのソーニャの語り=手話は前方にいるワーニャには見えない。「前後の」罠が作中に感動的に仕組まれていたことが思い返される。戸外で立ち稽古をしたとき、ワーニャ役=岡田将生と、ソニア・ユアンの演技は観客に向きながら、縦構図の奥の演出家西島に対しては後ろ向きだった。これが前後の罠の発火点。ならば、西島が三浦透子の運転するクルマの後部座席にいるか助手席にいるかにも留意がなされなければならない。「後ろ」にいることは当初は恥辱の色彩を帯びていただろう。それが徐々に変化し、ついには終景のワーニャの肩越しからのソーニャの手話の当事者への見えなさによって、観客(設定上の舞台観客と、メタレベルであるこの映画の観客の双方)の前に神聖化した。慎ましさという礼節を伴って。これが本作の身体の最終相のひとつだった。蠱惑的な物語は、シンプルなことばと身体の図式を同時に描き、そうして二重の感動をもたらしたことになる。「肉化は身体の前後関係を志向する」「それは当事者にとって見えなくとも構わない」「超越性が見ている」「その超越性の位置に観客が置かれる」。これが別次元での本作の結論だった。
8月27日、狸小路サツゲキにて鑑賞