中川龍太郎監督・脚本『静かな雨』
Netflix新作に『静かな雨』が入ったので観た。監督脚本の中川龍太郎は、まだ30歳そこそこだが凄い才能だ。画面の静謐、フレーミングの目立たないが確実にある妙技、人物の説明を最小限に抑えることで、静かに刻まれる俳優の表情変化にこそ注視させる誘引力、作品全体に漂う画像変化の音楽性、とりわけ俳優の声のすべてが観客の耳介から心臓にまで静かに届き素晴らしい。日本映画黄金期の美質を満身に渡らせていて、脱帽のほかなかった。
たぶん宮下奈都の原作小説自体が秀逸なはずだ。衛藤美彩は鯛焼き屋台をひとり若い身空で切り盛りするこよみを演ずる。清楚美だが、その口調には相手構わず踏み込むフランクな強気もある。このヒロインが事故で一日単位の短期記憶しか持続しないハンデキャップを負う。彼女を間近にケアするために、鯛焼き屋の常連の大学の研究生、作中ユキさんと呼ばれる仲野太賀が自分の家に住まわせる(必然的にそうなる電話番号メモを根拠にした自然な作劇が素晴らしい)。彼はひとり暮らしで、やがて明らかになりだすその家の内部は旧さと落ち着きを湛え、その室内性、窓からの日々のひかりが質感とリズムを蓄積させてくる。成瀬の『山の音』のようだ。しかも家の細部が何を散りばめているか、その哀れさ、加えてその哀れさの肯定が作品のクライマックスになる。ユキさんのブロッコリー嫌いが見事な挿話をつくる。
原作小説にもともと喩というかアレゴリーを照応させる戦略があるのではないか。その呼吸を察して映画オリジナルで語られる、ユキさんの研究室の指導教授でんでんが語る、60年間つけてきた日記を焼き、その翌日からまた淡々と新たに日々の日記をつけだした男の話。幼少期にこよみがペットにしていたリスボンという呼び名の栗鼠が好物の胡桃を貯食する顚末の哀しさ(こちらは原作にある)。後者は家中に隠された「ユキさんはブロッコリーがダメ」というメモの哀れさ(またもやメモだ)に合体するし、前者は毎朝起きだしたこよみが台所のユキさんに逐一同じことばと同じ感慨を漏らし、ユキさんがおなじリアクションをすることと照応する。
非小津的な、幾何学的ではない、人間本質的な更新、忘却の反復がそうして仕組まれる。じつはユキさんは脚に障碍があり、その跛行動作も研究室への出勤などで反復的に描写される。記憶障碍でしいられる一日ごとのこよみの認識のタブララサへの反復的書き込みは、ユキさんでは歩行の一歩ごとに書き込まれるものだ(その跛行に抵抗圧として幾たびもあたえられる「階段」の多様な映画性。それがユキさんのひたいへのこよみの接吻をうつくしく誘導する。そこでは階段の外在が身体の動作をつくりあげ、それにより身体の真実層が暴露されてゆく)。だからふたりは釣り合う。しかしその事実に気づいていない。「その一日」のあいだにふたりが性愛に至るか、尾籠な観客の興味はそこに傾くだろうが、作品は至純な共存愛の定着を謙虚に禁欲的に示すのみだ。そこにも黄金期の邦画の余映がある(二人が最終的に恋人同士になったのか否かは俄かに判断できない。そうした不透明性の奥行のために、萩原聖人と、ユキさん=仲野太賀、このふたりへのしおりの態度偏差がじつは描かれている。共存と恋着は異なるという残酷な主題を作品は隠しているかもしれない)。
このことに関わって前置される、しかしただ一回、ユキさんがつい囚われてしまう不満の激情の瞬間は、胸を食い破るほどに痛ましい。そうして観客はこの二人にいつしか感情を移入していた事実に気づく。あるのは緊張と遅効性。だから本作は障碍者夫婦の懸命なつましさを描いた『名もなく貧しく美しく』には似ていない。それと、遅効性はとうぜん時間生起の遅滞とも関連している。忘れがたいタイミングがある。夜雨の降りだす瞬間、満月が見出される瞬間、決定的なドローンショットで山の端から昇る朝日が見出される瞬間など。これらいずれにも「空気」が関わっている。最後にしるした朝日のとき、こよみ、ユキさんがともに川をみつめていることには、『寝ても覚めても』ラストへの意識があるかもしれない。
反復の最小単位は2。本作ではそれを満月が受け持つ(月はその他にも作中しるされるが)。そういう数学的な示唆に加えて、食にも微妙な示唆をもたらす。終わりのほうでユキさんがいう「腸」。それは記憶の別器官としてあり、そこに作中の丹念に手作りされた餡も、鋏で切られる鯛焼きの焦げも、栗鼠の胡桃も、食に彩りを与えるブロッコリーも参与してゆく。その意味の動きに何か崇高な奥行まで感知された。
仲野太賀がいつも良いのはもう周知だろうが、乃木坂46出身の衛藤美彩がこれほどの存在感を湛えるとは予想していなかった。鯛焼き屋台での動作の簡明、それゆえの能産性。とりわけ容貌の整いの冷たさとは違う水準で少女的かつ人間的な「声」がその口から現れてくること自体に動悸してしまった。細いが張りもあり豊かなその声は作品の静謐な諧調のありかたそのものだった。加えて言うなら作中のあらゆる湯気が素晴らしい。それは提示される秀逸な空間に、さらなる余剰を作りあげた。村上淳、三浦透子など周囲の配剤も良い