「何が詩か」書き込みへの返事
昨日の記事「何が詩か」への書き込みにたいする返事を
以下にまとめておきます。
mixi、なにぬねの?両方あります。
★★★
昨日は朝から立教の授業で、
授業後も三角みづ紀、三村京子たちと飲み、
帰宅後はパソコン電源を入れずに寝てしまったため
レスが遅れました。
以下、順番に。
(レオナルドさんへ)
詩的言語と哲学言語の共通性/相互離反性というのは
言語にまつわる永遠の問題ですね。
むろんこれはあだやおそろかに云々できない。
ひとつだけ。
僕は大学時代まで常習化していた詩作から離れ、
以後はおもに映画を分野に、
紹介原稿→批評言語をつむいでゆくという人生を経験しました。
詩作はその最終過程で、ふたたび自分にめぐってきました。
僕の映画評論はだんだん内容的にも思想的にも
いわば「ゴージャズ」になっていったとおもいます。
そこに「詩性」が介在していたからです。
一本の映画から取り出した思考は、
遠点と遠点をぶつけあわせ、スパークを実現するような
傾向を帯び始める。
こうした立脚が根幹にあって、
「例示」もまた詩の聯のように散文性から離れた内部分割性をもち、
その周囲をたとえば形成するストーリー説明も
それ自体、詩文的な圧縮度をもって、
それで僕の映画評論は映画評論プロパーでありつつ、
同時に脱映画評論的でもあったのです。
こうしたものを書き連ねてゆくなかで
僕は思考における詩性、その有効性を刻々確認してゆきました。
映画の真芯を捉えるためには詩的直観が必要だったのです。
僕とほぼ同様のかたちで映画評論に参入した同世代の書き手たちが
自らクリシェと知識誇示のなかに
沈没してゆくのを傍らにしながら、
このときにこそ自分の救命具が詩性だったという、
一種、慄然たる自己確認もしました。
●
リズムは文をつくるときに先験的に躯に刻まれている。
この躍動にひっかかるように、
言葉がそれぞれの遠さを内包しつつ舞い込んでくる。
発想は捕獲に片方では似て、
同時に自己鎮火の注意深さとも境を接してくる。
僕がいうリズムというのは、たぶんこういう内部摩擦的なものです。
おっしゃるとおり、藤村の『若菜集』は
こうしたリズムとは別の音律を自らに組織している。
あれはあれで時代を考えると素晴らしい達成だった気もしますが。
●
詩自体を総論的に考えることと具体的な詩作は
決して分離できない。
モダン以降の詩にはそういう自己再帰性の宿命が取り巻きますね。
一種の苦行。
この苦行性がネット詩の多くにはないのだということもできます。
★★★
(孤穴の孤児さんへ)
詩の自由性の担保、というのは
今後、詩をめぐる視点の重要部分を担うことになるとおもいます。
みながだんだん、この思考領域の有効性に気づきはじめている。
80年代後半から90年代初頭、
高い知性を誇った男性詩はいま振り返ると無残に古びていますが、
みな詩の自由性への楽観があったからだと
一面では結論づけられる。
そこに語彙の共通性があり、
リズムの軽視が上乗せされていた。
それで詩が散文性に最も近接していた。
この点でいうと、当時その傍らで隆盛だった女性詩には
たとえそれがぬるくとも、こうした惨状があまり刻まれていない。
詩の68年以後を語るとき、
これは落としてはならない視点だとおもいます。
なぜ詩はネイションステイツ幻想のもとにあると
相互に「似る」のか。
これもまた考察に値する課題です。
詩に不自由さを課して、そこから逆転を生み出す才能は
そういえば必ず「異人」のポジションを占めている、
ということにもなるのでしょうね。
僕自身は語彙が多く、技法も多彩なので、
ついうっかり「どうにでも書ける自由」を
自分の詩に組織しがちです。
そこから離れるために、自分の書くものの瞬間をどう脱論理化し、
肝心な言葉を消し、語彙に貧しさをまとわせるか、
そういう注意をよくしている。
というか、この「注意」のために
一個の詩篇が浮かび上がってくる、というのが実感です。
ともあれ、いま詩論は別の立脚を企てる必要が出てきていますね
★★★
(猫侍さんへ)
吉本隆明が結論づけた若い詩人たちの「無」には
具体的な世界接続性、世界内意識がなく
自身にのみ閉塞している、
だから詩に必要な「自然」すらそこに現象的に出現していない、
という、
それ自体は確かな認識が貫かれていました。
たんに若い詩人を例外もふくめ
一律で括ったから彼は反発を買っただけです。
それと吉本のこうした詩への認識は
すでに「修辞的現在」の時点から適用でき、
彼の著作活動の内部矛盾も問題になったのだとおもいます
(僕はそのように次に出る「詩と思想」の原稿に書きました)。
詩の自閉。とりわけ詩壇詩の自閉。
「僕はサブカル、ぜんぜんわからないんですよ」が口癖の詩作者が
僕の周囲にいましたが、
サブカルの個々を具体的に知らないというより
その内部構造に
猫侍さんのいう「世界性」が刻印されているというように
想像が及ばない点がとりわけ問題なのではないか、とおもいます。
映画のカッティングのように詩行が組織されるのは、
たぶん世界的な傾向だとおもうし、
詩を音楽に近づけるために意味を縮減するというのなら、
これはもう詩の成立時期(しかしそれはいつか?)
からあった詩法のひとつです。
領域閉鎖的な眼はそうした表現の実質的組成を何も見ようとせず、
類推と転位によって自身の組織替えをもしない。
そういう知性はむろん怠惰だといわざるをえません。
●
詩には詩特有の密度がある。
ただし詩は散文以上の拡散性をまとってもよい。
一篇の詩には一回的な詩法が選択される厳しさがつきまとう。
これが要するに、
「詩のコスモポリタニズム」なのではないでしょうか。
ひとつの日本語特性が世界性に転位できるかの自問がないだけでなく、
詩壇の共通理解に支えられた自己模倣が
結果的に世界性を失わせている例が
詩壇詩にはあまりに多いともおもう。
自己模倣だけでは、詩壇意識以外に
モチベーションが生じない。
詩自体にモチベーションがなくなるとこれは苦しい。
同時に、詩にモチベーションは要らないという自由精神が
同時に出来する必要もある。
だから詩はもしかすると終始「矛盾」の産物なのかもしれません。
となって、詩の不自由さという領域に思考が近づいてもくる。
俳句が短歌とちがい、コスモポリタニズムをもつのはなぜか。
たぶん互いに遠くにある言葉が総合されてスパークを起こす、
この詩法にもともと世界性があるからでしょう。
西脇はこのことを言葉をかえて散々語っていました。
こういう機微なら翻訳可能です。
ただし俳句の音律までは、無理。
いくらシラブル数を五七に調整しても、です。
そして俳句は俳句音律によって
ばらばらでありながらも一本に立つ、という魔法があります。
同じ魔法は短歌にもある。
ところが短歌は俳句の世界認識=言語認識にたいし、
やはり自己発見を契機とする声の文芸だとおもいます。
これはもう完全に翻訳困難。
それで世界性がないと錯覚されているのではないでしょうか。
ただし短歌的なものの今後の世界的蔓延がありえないとはいえない。
ともあれ、猫侍さんの日記は
最近たまに元気がなかったですね。
ただ「詩の本質」を考えていたために
停滞が生じていたとおもうと納得がゆきます。
新詩集、期待しています
★★★
蕃兄へ
ときに詩作の元気をもらうため
CDに接するように
好きな詩集をひもとくことがあります。
このときには詩の技法よりも語彙よりも
内在律を頂戴することが多いです。
ところがよく考えると
「言葉の不自由」、この可能性をもらっているのかもしれません。
詩とはヘンなものです。
だから魅力の源泉です。
伝播するものの質がちがう、ということか
★★★
解酲子兄へ
石川淳ぽくて
ゾワリとしました。
吟じてはゾワリと我を頂戴す 樫


