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小説改作 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

小説改作のページです。

小説改作

 
立教の授業が先週からはじまっている。
相変わらず月曜は、二限から四限までの三連荘。
四限は「卒論準備演習」で、学生たちの卒業制作のために
何事か演習をおこなうという趣旨だが、
趣旨自体が奇妙で、まるで勝手がつかめない。
とりあえず小説創作の志望者が多いので、
まったく慣れないながら、具体例をしめして
小説心得を伝授する授業になりそうだ。

今日の授業では生徒が提出したくれた試作小説を
僕が添削したものをテキストとして配布することにした。
僕自身、高校時いらい久方ぶりに書いた小説だ。
範をしめすには下手糞すぎるかもしれない。

その前半はほぼ生徒の修辞を改めただけだが、
後半にいたり設定を大きく変えた。
小説の要件が正の抒情性だけではないと考えたためだ。
以下に披露する。

なお、以下、一行アキは原文では改行のみ、
二行アキが原文の一行アキに相当する。



岡崎大輔「春を送る」改作
阿部嘉昭


 桜が舞う。微風がこの髪を揺らす。スカートのなかにも風が通った。花びらが梢から離れる。小刻みに踊り、やがては湿った地へとしずかに吸われてゆく。その間がすごく長く感じられる。帰路、そんな花々のちいさな狼藉に、ずっと眼を奪われていた。夢をみていた。川原に沿った遊歩道。葉桜の季節への移行には、それでも誰もおそれを感じていない。私ひとりを包もうとだけ夕闇が降りてくる。むろんときたま散歩する老夫婦も見受けられたし、ジョギングによってこの薄暗く親密な空間を、無情に裂いて横切る者もいた。

 季節には境がある。それが心情や生活にも切れ目をつくる。高校在学時はそんな意識をとりわけ鋭敏にもっていたとおもう。じっさい春には思い出も多かった。心を傾けていた先輩を見送り、その見返りというように、後輩から唐突に愛も打ち明けられた。心象が周囲によってこそ波風を刻まれた日々。色も音もあった。期待や後悔もあった。けれどそんな新鮮な時のうつろいもいつしか勢いを弱め、不感の味気なさが心をもたげだした。あれらのときからもう五年が経っていた。


 冷えたつま先からゆっくりと湯に入る。躯の痛み、もしくは傷み。それでもユニットの狭い湯船には二年住むうちに慣れた。背丈の低い私に合った短小の設計。同じサイズの浴槽に身を浸しているはずの、隣室のあのひとは、この設計思想にひどく不都合を感じているだろう。

 長い髪を湯のなかに巻き、誰でもない者になろうと、私は潜った。耳に水流と泡のなす音が響く。それらをわずかに裏打ちするように自分の脈拍も聴こえた気がした。脈拍はいずれ弱まって、私はこの湯と区別なく消えるかもしれない。けれども生への希求をまるで私の心ではなく躯がもつように、呼吸が苦しくなって、上体がやがて湯を割って浮上した。しばし自分の愚行に呆然としつつも、私は息を整えていた。すこし苦笑していたかもしれない。

 あ。平穏を取り戻した湯の表面に何かが浮いている。両手ですくいあげると桜の花弁だった。きっと髪についていたのだろう。事実の判明はそんな取り立てるまでもない領域にあっても、それでも私は自分の躯が花びらを分泌した錯覚に迷った。なぜだろう、それで無性に哀しくなった。


 風呂から出て、速くなった血流をそのまま保とうと、私はアルコールを流し込んだ。自分を調整不能の音楽にしたかった。しかし私は即座に全身が聴く耳となった。

 テレビもつけていないので部屋には春夜の静寂があったが、隣室を隔てる壁からは楽しげな声のさざめきが伝わってきたのだった。声は二種ある。時刻はすでに十一時を回っているが傍迷惑という不満が起こらない。色の沈んだ壁が漏洩を期す陰謀の物質であったとしても、いつものことだ、と気にとめない。私もいつものように、その嬌声を肴にして孤独な飲酒をすすめるだけだ。少し経ってまた無音となった。異変の兆候。異変という語がつよいなら、変化のきざし。ふたたび音が漏れ出すと、女のほうの声が、言葉を具体的に刻む気配をもう失くして、むしろ躯のなかの波をそのまま外界に翻訳する、抽象的な揺れとなった。唄われているのに歌の実質のない声。性的快楽か性的病苦か知らないが、掠れ、揺れて満ち干きするあられもない声。きしむ不快な音が伴奏をはじめていた。私は盗聴者の位置に完全に置かれ、酔いを奪われつつ、身をちいさくするしかなかった。ちいさくすることで私の聴覚はしかしするどくなった。

 不快は重なっている、とおもう。せせらぎなら、水の流れと巌の格闘だ。葉桜の最初は、枝にのこった花と、枝に生じた淡い若葉の重奏。それらも一種の重なりだろうが、むしろ私の好きなものだ。かくべつ許容できないのが、忘我によって生じる女の、画柄にしたら蛇身の進みのような喘ぎと、あまりに散文的で等間隔な、寝台の軋みの取り合わせだった。

 隣室のあなたは――清涼王、と名づけようか――賢くはないだろう女を囲っている。ここと同じ間取り、六畳一間とキッチンでの暮らしに安息するその貧しい感性は、王の外見に反する。王の器量は、ただその無心な磊落さにこそあった。しかし善意であふれていることは私の心を慰めない。王がやがて囲うようになった相手の女もそうだった。つくりすぎたと弁明しながら、何かと私の呼び鈴を押し、皿にとりわけた料理を供してくる。はしためのような外見だと驕慢な私はおもうが、はしためなら調理の分量を、見誤ったりもしないだろう。そういうはしためはとりわけ壁に耳があると知っているから、大切な言葉や息も気取られないように発するものだ。相手の女のはしためとは、ならば文字どおり「はしたない女」から生じているのか。

 私が二○六号室に越してきた一昨年の春、清涼王はいまとちがい、清々しい孤独にかがやいていた。壁越しに伝わってくる王の物音はほぼなく、そのあまりのそっけなさに申しひらきするのか、旧い洋楽の音だけをたまに含羞にみちてちいさく響かせてきた。私が越してきたその日は、大きなダンボールを不器用に抱えていた私を、王がすぐさま階段ですくいあげた。階段で出会うような偶然の仲。しかし王は私を差し置き、率先して荷物を運び、部屋内の家具の位置も、引越し業者と一緒に的確に導きだした。それら差配の一々が爽やかだった。これを機に通りで会えば、懇切に、街の見所やここで暮らすコツを洒脱な言葉遣いで伝授してもくれた。遠くで挨拶する以上の隣人だったといっていい。

 私は、このような王が隣に住む、生活の豪奢を信頼した。だが、年齢が均衡していると考えても、恋心をそこに奔らせることはなかった。清涼王の清涼が、私の趣味にはいかにも物足りなかった。


 アルコールがだいぶ回っていたし、聴覚上の出来事でもあったし、猫も恋に狂う春夜だから一切が定かではない。二人で恋の音楽を奏で、春意と沈黙にやわらかくみちていただろう隣室から、夜半をだいぶ過ぎてとつぜん奇妙な物音が聴こえた。ちいさくするどい破砕音。ガラス状の夢がそこで壊れた。それから漏洩の壁をじかに頭蓋か何かで打ちつける鈍く大きな音が数回響いた。このとき私は物音の向こうに混ざっている呻きが、性ではなくただ暴力の様相のみを帯びていると直覚した。

 それきり物音はなくなった。いや、低く殺した嗚咽だけは向こうから響いていたかもしれない。真相を隔てている壁が、窓越し、とおい街灯の反映を受けて、ひとすじ流血するのをまざまざと見たともおもった。私は緊張したままずっと壁をみつめつづけた。私一個がはしためのような身ぶりとなっていたはずだ。

 清涼王がついにその清涼を脱いだ――だとしたらこれはねがってもない瑞兆だ。彼の外見が運命の翳りのみを欠いている点に、ずっと不満だったためだ。彼はついにいま、彼本来の性悪へと変貌を遂げたのではないか。


 翌朝の椿事の報せを愉しみにしつつ、ここ五年間ではじめてたくらむ姿を回復した私は、上がるとき自身とともに風呂の湯からひきあげていた桜の花びらに想起を移した。机のあかりをつける。読みかけの本を、栞紐をたよりにひらくと、花びらは身を乾かしてそこにしずかにあった。

 まじないの効果を考えた私はその花びらを注意ぶかくもって、窓をあけ、ベランダに出る。椿事の夜に似合う、生暖かい風が吹き渡っている。私が指をひらくと、花びらは即座に舞いあがって、春の最も奥底へ消えていった。くるくる、と擬音を発するかのように。私の無音の笑みも、風に巻きつかれ、夜のなかへゆっくりと消えていった。

 春よ、さようなら。――たぶん頭のなかでのみ、私はそう呟いた。
 

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2008年09月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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