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川上弘美・風花 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

川上弘美・風花のページです。

川上弘美・風花

 
昨日は一日中、女房に家のパソコンを占拠された。
なんでも会社の自分のパソコンが
部分故障でネットにつながらなくなり、
急遽、在宅勤務に切り替えた由。
只今の女房の仕事は英語翻訳で、
女房は辞書ではなく辞書サイトを駆使するから
ネットにつながらないと翻訳がもうできないのだそうだ。

そうやって女房にでんと居座られると
ちょこまかした家事のほか何もできなくなる。
で、昨日は買い物などのほかは寝室の万年床のうえで
小説をひたすら読んでいた

(立教での卒論準備演習が実質、小説指導となって、
なんだか、すごく小説モードが高まっているのだった。

ちなみに最近最も感心した小説が、
廣津柳浪『今戸心中』だったりする--
「明治文学全集」は字が細かく
遠近両用眼鏡購入後に読もうとおもっていた。
その眼鏡をかけ読み始めると、
明治20年代の小説パワーが如実に迫ってくる。

江戸の心中物との差異は、
心中に向かうヒロイン=花魁の
近世的価値観では不透明と映る心情が
小説描写の主体となっている点にまさにあるが、
実はそれは小説の内側に隠れている。
また、描写には濃淡もはっきりとあって、
ラストの一文が暗示的なのも明治的な振舞なのだった)。

さて昨日読んだ小説のうち、
川上弘美『風花』につき、若干のメモ風文章を。

最初、短文を無作法に投げ込んだあの『真鶴』と比較し、
文体が弛緩しているとおもった。
やがて気づく、そうではない、と。
愛人をもち在宅時間が減りだした夫によって
夫婦仲が翳りだしたヒロイン「のゆり」の日々を
間歇的に描いてゆくこの小説の文体の鈍さは、
まさにヒロインの子どもっぽさ、晩生、逡巡癖を
そのまま文自体が転写したことによっていた。
この点に気づくと
川上弘美が「たゆたい」を
果敢に文体化しようとしているという感銘も湧く。

「のゆり」は意志表示ができず、感情語彙もない。
瞬間への介入もできない。
性的にも淡白で、しかも家事の反復にのみ溶け込む凡庸な女だ。
その「のゆり」の主観を小説が数多く織りこむのだから
川上の疾走する想像力にたいし、
小説の「いまここ」は必ずたわみ、
「遅滞」を彩ることになる。

読者が「この女、煮え切らない」と苛立つ寸前に
川上のキャラクタライズが「遅れた厚み」をもちだし、
そこに読みが参入してゆくうちに
読者は「のゆり」の白い、植物性の、
存在的寂寥に包み込まれてゆくことになる。

第二章「夏の雨」で、
のゆりが子どものころ、
実母に連れられて不可解な旅行をした回想が入る。
のちその不可解さは父が愛人をつくったゆえ
家庭生活が危機に瀕していた反映だったと
娘も確信することになるのだが。
こんなくだりだ。



 旅行、という言葉の意味も、当時ののゆりにはよくわかっていなかった。
 「りょこう、どこにあるの」一時間ほど電車が走ったあたりで圭子に聞いて、笑われたことを覚えている。
 笑ってから、圭子はすぐにおし黙った。家を出てから、圭子はほとんど口をきいていなかった。
 ねえ、りょこう、どこ。どこ。のゆりはまた聞いた。
 旅行はね、もうここにあるのよ。圭子は答えた。



このちいさなくだりがのちのち効いてくる。
ヒロインのくぐもった、言語化能力のとぼしさによって、
文体の感覚が透明に屈折することとともに、
この「夫をめぐる」恋愛小説は、
あたうかぎりで場所を移動させ、その場その場に
ヒロインや、夫またはそれに代替される人物を散らし
つまりは全体が「旅体」のなかに置かれているのだった。

りょこう、どこにあるの。りょこうは、もうここにある。

現象されるものが、すでに明瞭さを帯びていながら
ヒロインのゆりはその兆候を半ば読み取れない。
「半ば」ということが大切で
川上の描写の眼目は、
いつもその「半ば」を画定するよう抑制され、
その抑制がヒロインの美質形成にも跳ね返るのだが、
ヒロインに寂しさがつきまとうのは、
夫と二人だけの家庭を営んでいても、
それが定着ではなく、
旅程的な移動性をどこかで露呈させてしまい、
万物が「流れ」の様相を帯びて、
その中にヒロインの躯があるからだとわかってくる。

ありていにいうと、万物が旅程のなかにあり、
それぞれの姿も旅装だから、
愛着はそれ自体として切ない--そういうことになる。
人と人がままならないのは、
それぞれの旅程が異なっていて、
対面対峙がかならずねじれの位置を形成するからではないか。

そうなると、この小説の法則は、
「移動」が明示されたときに
何か心情や運命の回収がある、という点に落ち着き、
それが最終的に幸福な成就を結果するかが
サスペンスの主体ともなってゆく
(それはネタバレになるので書かない)。

いずれにせよ、不倫問題が夫の姫路への転勤によって
急に収束しだしたかに感覚した途端、
夫ともに姫路に転居したヒロインが
さらにアパート独居を選択し、
永遠の旅のなかにいる夫婦のねじれの位置が際立ってくる。
この姫路舞台の場面、
それから郡山への夫婦の小旅行のくだりが
小説の中の白眉だった。

不定形なものから定型のかたまりをとりだす。
この小説での読者の作業はいつもそんな様相を帯びる。
たぶんそこに、ヒロインの名、「のゆり」の意味がある。
たとえば「突然のゆりは」と書かれると
視線は「突然の/ゆりは」という仮分節を一旦意識し、
慌てて「突然/のゆりは」と訂正を図る。
小説の冒頭はおよそそんな体験の連続ではないだろうか。
「のゆり」を「のゆり」として分節することが
「のゆり」の実体化と必然的に結びつくのだが、
このときに小説のもつ「旅体」も
付帯的に掴まれるといっていい。

つまりこの仕儀によって「のゆり」はどこかで
実体化の埒外に「流れる」。
その作用にこそ寂寥がわだかまるのだった。

今日の日本小説の問題は
物語の無効性と小説の現前性を拮抗させるという点で
保坂和志が自覚的にその一端を担っている。

川上弘美は、物語を「付帯させる」。
彼女の主眼も物語にはない。
人物のキャラクタライズにもない。
たぶん明瞭に「文体」にある。
小説の主題ごとに文体を卓抜に選択することが
小説の使命・可能性と考える点に、
保坂とは別の、川上の先鋭な小説意識があるだろう。

川上のスタートは実は詩文の小説への導入だった。
初期の「惜夜記」はこんな脱定位的な恐ろしい一文、
つまり詩としかいいようのない一文ではじまった。
《背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった》

こうした詩性を希釈し、散文的延長に耐えること。
そのなかで川上のあからさまな詩性は
日常を描写する際に
死語にちかい稀用語彙を
そっと忍ばせる程度にすら収束してゆくが、
散文はたぶん選択した主人公によって文を変性させ、
その持続を耐える精神にこそ発露される
(つまり何をどう「描写」するかの手前にある自明に
川上はするどい審問を投げかけてゆく)。

だから川上弘美を読むことが、
今日の小説の可能性を測ることに直結するのだとおもう。
小説個々によって、どのように文体が変化しているのか。
それで全冊踏破の必要もあるのだとおもう。

川上弘美は僕と同齢で、世代のポテンシャルもまた
彼女のように優秀な才能から測られなければならないだろう。
 

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2008年11月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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