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カンガルー → 中沢新一 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

カンガルー → 中沢新一のページです。

カンガルー → 中沢新一

 
最近、最も愉快だったニュースは
人間とカンガルーの遺伝子に
同型配列が数多く共有されていて、
それによりカンガルーと人間が当初、同じ種で
大昔、それが分化したのだ、
というオーストラリアの研究チームの発見。
ミクシィのニュースでみた。

しかもその分化は大昔、
現在の中国大陸で起こり、
カンガルーはその後、北上、
シベリアからアラスカに至り、
今度はアメリカ大陸をずっと南下、
ついにはオセアニアに幽閉されて
有袋類として種を画定した云々。
じつに壮大なロマンだなあ。

人類の起源をアフリカ発祥とずっと信じているのだけど
その通説とこの新説がどう折り合うのかも不明ではある。

このニュースを聞きまず考えるのが
人間の妊娠期間の長さと、
有袋類が腹の袋で未熟な赤ん坊をずっと育て、
これが一種、妊娠期間の長さに
相当しているだろうという事実。
つまり有袋の子育ては長期妊娠の転化なのではないか。
たぶん現在の人間と有袋類の共通項となると
ほとんどこの点にしか見出せない。

すると、まかりまちがえば腹の袋で赤子を育てる
人類の亜種が存在していたかもしれないし、
同時に人語を操る高知能のカンガルーも
成立していたかもしれない。
そんなカンガルーをイメージしようとして浮んできたのが、
往年の山上たつひこの「八丈島のキョン」だった。
そこまで考え、
オーストラリアの生物進化研究チームのこの学説が
眉唾ものなんじゃねえか、と嬉しい疑心ももたげてくる。

そういえば馬と鹿の顔を僕は許すが、
羊、山羊、カンガルー、麒麟、駱駝の顔は結構許しがたい。
山羊はキリスト教では淫猥の象徴だが、
眼のあいだが開き、淫猥と魯鈍が化合した
異教異端の趣があったりするからだ。
ただし眼のあいだの開きは恐らく警戒の必要から生じた
視野の拡大のための進化で
たぶんそれらの草食獣は馬と同じく一様に
後方をふくめた三百度くらいの視野をもつのではないか。

ただし草食獣とある種の人間類型の類同なら
一般生活のなかで人も通常におもうだろう。
マルチェロ・マストロヤンニを
草食獣型名男優の代表と考えていたこともあった。
彼の胸毛は獣的というだけでは足りない。
草食獣的と呼ぶにふさわしい「やさしさ」があるのだった。

しかし問題は
人間とカンガルーという特異で限定的な組み合わせが
学説で証明された(されようとしている)点だ。
ともあれ、猿でも犬でも、
人間と同じ配列をふくむ遺伝子をもつ例は皆無なのだそう。
この点で、やはり自分の足許がぐらつく。

僕はぴょんぴょん地上高くジャンプして
大地や街を移動してゆく夢をよく見るが、
これは自分に残存するカンガルー遺伝子の
なせるわざなのかもしれない。



中沢新一の新著『狩猟と編み籠』を読み始める。
まだ百頁段階での感想だが、
例のごとく絢爛で、脱領域的な宗教理論。
例のごとくニューエイジ臭もぷんぷん。

ところが今回は、彼の最近の「対称性人類学」を
「映画学」に結びつけるという
新たな方向性も明瞭に加わった。
ドゥルーズ『シネマ』に示唆されたと冒頭にあるが、
事が、かつて僕が専門にした映画だけに、
中沢の本にして初めて違和感もある。

中沢さんのいう「イメージ」の定位が
宗教と映画で混在となって、論の運びに
終始、すっきりしない澱がたまってゆくのだ。

僕の考えでは映画の本質はふたつある。
「そのままを写すカメラの機能」。
「そうした撮影単位が編集で、別文脈を形成し、
詩的なイメージ連鎖としか呼べないものを出来すること」。

ドゥルーズのシネマ考察はここを原点として
映画の「運動イメージ」「時間イメージ」につき
考察を深めながら、
同時に多彩な作品論・監督論を織り上げていったのだけど
中沢さんのアプローチはそういうマニア性を欠いて
映画書としてはすごく退屈な反復にみえる。

映画書から僕は離れていったけど
たしかにいまがチャンスだ。
蓮実重彦の映画論が
映画の産業構造からも無効となりつつあるためだ。

中沢新一はかつてハリウッド版『ゴジラ』論で
誰にも書けないような脱領域的分析をした。
そのセンで書いてくれる映画論なら
狂喜して読むのだけどなあ。
やっぱりポイントはいまだにドゥルーズ/ゴダールか。。。

ま、中沢さんにかんしては
あくまでも百頁段階での中間的感想なんだけど
(そういえばこの本への言及、
ミクシィなどでも見当たらないなあ)。
たしかに胡散臭くて面白い本ではあるんだよね



ということで「胡散臭さ」二題噺の幕、



【その後の自身による書き込み】

風邪の前触れの関節痛のなか
昼寝と録画済TVドラマの鑑賞をしいしい、
中沢『狩猟と編み籠』をいま読了した。

「映画」について食い足りない、という予感は
結局、変わることがなかったなあ。

中沢新一の武器は「類推」。
人間が人間的思考を開始した新石器革命の時代に
人間の思惟領域に類推が舞い込んだとする
中沢さんの自説と、
それは当然のごとく極小極大同型の構造にもなっている。

中沢さんは「類推を武器に」脱領域を開始し、
結局は、人類学、宗教学、脳神経学、経済学、数学等の
同一的アマルガムをつくる。
この本ではそこにさらに映画学、音楽学も混ざった。
思考的完成物はむろん圧倒的で、整理も見事に施され、
人類レベルの
「次なる思考」への導きとなるようにも一見おもえる。

ところが類推による単純化、
単純化による強度化という罠が
そこには同時に潜んでいるのだとおもう。

たとえば「映画」に関わる態度は
「映画」の歴史・シーンをどう見るかを決定する。
類推による同一的全体化はまずいのではないか。
宗教とそれとの相同性を明かすのも方向が逆なのではないか。

個々の映画を不透明な異物と捉え、
そうしておいて、議論展開に
映画シーンの「豊穣な並列」を付帯的に目論む。
そうでないと個別の映画が救抜されないばかりか、
「正しい映画」(それは多様であってよい)も現れてこない。

僕はたとえば映画において現在、
物語が消滅したり類型化するのはなぜかという問題を
よく考えていて、
その思考の補助線のために
東浩紀、北田暁大、鈴木謙介、伊藤剛ラインの所説を
よく利用するのだけど、
中沢さんの「イメージ第三群」では
こうした問題にも決して行き着かないとおもう。

ところで『狩猟と編み笠』はその題名の由来を
エイゼンシュテインの最終的なモンタージュ論、
「無関心な自然ではなく」の一節に負っている。
僕は実は、
この論文をふくむ『エイゼンシュテイン全集第九巻』を
キネ旬在籍時代に編集したので、
中沢さんが最高次の映画把握として
この論文を顕彰してくれる刻々には
眼が潤みそうなほど喜びを感じたのも確かだった。

むろんエイゼンシュテインの映画(編集)談義も
フーガ、ポリフォニー、煉瓦積み、俳句、山水画、絵巻物など
類推による脱領域化によって圧倒的に進行していった。
彼が中沢新一の先駆、眷属なのはいうまでもない。

それにしても、中沢新一の本の効用というのは、
詩を促進されることだとはおもう。
「類推」が原理だから、これは必然的にそうなる。
だから恐るべき快感も伴う。
マラルメには「類推の魔」という詩篇があった。

そういえば第五章で突然、TVについての考察がはじまる。
これが僕には圧倒的だった。
301頁、映画とTVの比較表ならそれを一分ぐらい凝視していた。
これはやはり「天才」でないと書けないものだったね。
書店でぜひ
 

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2008年11月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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