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豊穣な並列 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

豊穣な並列のページです。

豊穣な並列

 
前回の日記では、中沢新一の新著『狩猟と編み籠』につき
その最終読後感をセルフ書き込みした。
そこで僕は「豊穣な並列」という概念に少し言及した。

たぶん物書きとして僕が成熟したとするなら、
この「豊穣な並列」の機微を掴んだということだろう。
僕の評論は往年、
「ストーリー」を付帯的に産出することを目指していた。
小説を書かない、その意気込みの果てに評論書きがあって
たぶんそんな態度をとっていたのだとおもう。

いまや僕の評論は、物語磁力を弱め、
徹底的な段落並列型になっている。
そうすると字数調整のとき、
段落をすぱん、と落とすなど捌きもラクだ。
等質の重力を各段落にまとわせる。
段落原則は、前段落の終わりからの
「単純な想起」で終始構わない。
おそらくこの筆法は、
ミクシィなどの日記から生まれてきたものだろう。

やがて詩もそうした姿となった。
僕はつぎに出る「現代詩手帖」の展望記事でも
行単位、改行を話題の中心にしたが、
束になってばらけそうでばらけない「行」とは
詩世界での「豊穣な並列」の保証だ。

ところが物語性はそのような低い重力で書いても
原理的に詩から払拭できない。
なぜなら、ある一行を書いた結果として
次の行が終始出来するからで、
そこにはつねに柔らかな「推移」があり、
これらはゆるやかに最終行に向け収束しなければならない。
というか、こうした収束を毎回測るために
個々の詩篇の第一行が始動されるといってもいい。

現代自由詩の改行とはたぶん詩型の明白な形式。
それは短歌俳句の一行棒書き、その完成形を嫉妬し、
未完のまま次の行へつないでゆく形式的反逆だろう。
この未完性の実現のため、
「文」の散文的自足も必然的に壊れてゆく。
散文脈の詩が信じられない理由もそこにある。

不足が足されしかも充足がついに到達しない流れの成行に
なにか「時間」を記述に巻き込む自己法則も生まれる。
それでもその詩篇がある一行で終われるときは、
ずっと加算されていった「不足」が「充足完了」と
深い次元で照りあっているか、
そうしたセルフ・リテラシーでの判断が必要となる。

むろんこうした組成が生じるためには
「豊穣な並列」という意識のほか
詩の各行の措辞を「透明」にする配慮も要る。
透明とは平明ということではない、
それなら散文脈にただ措辞が低落する危惧すらある。
だから語の置換、脱意味化よりも前に、
何かを脱落させ、散文からの不足が戦略されなければならない。
このとき駆動原理となるものがある。音韻だ。

イメージの豊穣を自負するような詩は
現在只今、ただ鬱陶しい。
たぶんそうした詩史算定には立脚の誤りがある。
じつはそこでは人を魅了しない詩が無駄に書かれている。
これは「経済」にその理由を問わねばならない。

僕が連詩演習で教えている学生は縮減を生きているので
イメージの豊穣を目指す愚を犯すことはほとんどしないが、
ただ「透明化」の配慮がまだできていない。
不正確な措辞で、「なんとなく」の雰囲気を書き、
それまであった良い詩行を突然壊す勿体無さまで多く演じる。
詩行の透明性とは
実は熾烈な自己意識との闘いの果てに獲得されるものだから、
結局は自己意識が不足しているという総括にもなるだろう。

自分のためだけに詩を書くと、
自己意識が不足してしまうのだ。
詩はそんな逆説を負う。

現在、自分のサイトにある題名未定句集を受け口に、
できあがっていった句を順次、加算的にアップしている。
一句一句のあいだの行間を僕はよく眺める。
句集はあきらかに「透明な加算」や「豊穣な並列」の産物、
そうした組織体だが、
一句一句のあいだにこそ自分がいる、というこのありようは
詩篇の一行一行の展開ともさらにちがっていて、
それが僕を魅了しているといってもいい。

ところが詩集とちがい、句集の組成がどうあるべきか
それがいまだによくわからない面もある。
章立てが必要なのか、連作は肯定されるのか、
そうしたことがまだよく把握できていないのだった。
これは真剣に、誰かの教示がほしい
 

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2008年11月23日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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