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大和屋竺・愛欲の罠 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

大和屋竺・愛欲の罠のページです。

大和屋竺・愛欲の罠



8月11日(土)3時の回に、上野公園内の一角座で
大和屋竺監督『愛欲の罠(原題:朝日のようにさわやかに)』を観る。
周知のようにこれは
ずっとフィルムが紛失したといわれてきた「幻の映画」だ。
したがって誰もがもうこの世での鑑賞を断念していたはず。
しかも「天才」大和屋の計4本中最後の監督作品で、
かつ大和屋自身ではなく朋友・田中陽造が
脚本を書いた最初で最後の例外的作品でもある。
肥大した期待を抱え、女房と猛暑のなか会場へ向かった。



田中陽造が大和屋映画の脚本を書いたことについて――

当時、天象儀館を主宰していた大和屋ファンの荒戸源次郎が
大和屋邸詣ののち、制作配給を買ってでて
日活ロマンポルノ枠での公開を決め、
これまで同様の「殺し屋映画」の脚本執筆を大和屋に促がしたが、
何らかの理由でその完成が不可能になり、
演出準備に忙殺される大和屋が
やむなく田中陽造に脚本執筆を託した経緯があった。

そういう事情を知らなければ、田中陽造のこの脚本は
大和屋への愛をつうじ田中が徹底的に「大和屋になって」書き
大和屋にこれを監督しろと突きつけた、
一種の分身性・倒錯性の賜物という、美しい誤解を受けそうだ。
それまでに3本あった大和屋監督作品、並びに
大和屋中心で脚本執筆がなされた鈴木清順『殺しの烙印』からの
細部のパッチワークが明瞭にみられたのだった。



大和屋的な「殺し屋映画」の系譜については
何回か長い原稿を書いたことが僕はあるのだけども
(その決定版が渡辺謙作監督の『ラブドガン』公開を機にした
「われわれは殺されたがっている」=「ユリイカ」04年6月所載か)、
その要諦は大和屋的「殺し屋」が「世界認識者」だということだ。
よって映画の展開が以下のようになる。

〇空港への飛行機の到着のように
無時間性に時間の楔が打ち込まれることにより映画が起動する。

〇世界認識のために対象を殺さねばならぬ
殺し屋(これは先験的に画面に存在する)は
自身の「死の適格」を容認した途端に
おのれをつけ狙う別の殺し屋が自身のダブルとなる、
世界の熾烈さのなかへと即座に編入されてゆく。

〇当然その世界は殺伐としている。
消耗戦のなかで敵を徹底的に待機し、
愛人すらいつしかブルーフィルムのなかに捉えられて
中で拷問を連続的に受けることで世界の本質的無時間性を告知し、
あらゆる音声も木霊して明瞭さを失い、
それによって人形と人間の弁別もまた消滅してゆく。
世界はいつしか腐臭に満ちる――
さまざまな形象の蠅が、その事実を告げる。
世界はそうした黙示によって罅割れ、ベンヤミン型の細片となる。

〇殺し屋たちには自分たちを登用した、
「組織」が前提されていたはずだが、やがて
その「組織」そのものが不可知性の感触を湛えるようになる。
この不可知性のなかで殺し屋世界の序列も瓦解してゆく――
これが映画自体の「破局」と符節を合わせる。



田中陽造による『愛欲の罠』の脚本は
この大和屋が下した厳密な「映画法則」を完全に遂行している。
スラップスティックな軽さが一部、志向されてはいるけれども。
ではその軽さの理由とは何か。

〇この作品の主人公の殺し屋は荒戸源次郎自身で、
「組織」を裏切って遊撃的な殺しを依頼するのも大和屋自身だ。
端的にいって「俳優」大和屋の出番がとても多い。
このことで大和屋が演出の集中力を欠いたきらいがある。

(脚本に田中陽造が噛むと、俳優大和屋が強調されるという法則が
当時とくにあったとはいえないだろうか。
こののち鈴木清順が監督した『木乃伊の恋』では、
オブジェめいた木乃伊役の大和屋が画面に出ずっぱりになる)

〇大和屋映画は世界認識=恐怖を観客に注入する、
一種、熾烈な陰謀として常に機能する。
そのためには画面の垂直性(それを渡辺護なら俯瞰構図に変換した)、
魔物のような「美しさ」「瞬間性」「抽象性」、
空間の「つながらなさ」こそが要件となる。
この特性を導くのが、
画面上の全オブジェを意図的「配剤」の抽象関係につくりかえる
実はモノクロの画面なのだった
(当時のピンク映画の商業的要請で
濡れ場画面に「パートカラー」が用いられることはあったが)。

ところがこの映画は日活ロマンポルノの枠組だったので
大和屋監督作品としては初めての全篇カラーとなったはず。
脚本には空間の飛躍が盛り込まれていても、
この単純な「カラー化」によって
画面個々に具体世界からの採取の痕跡がつよまってゆき、
それにより「空間がつながってしまう」弱さを帯びることになった。

大和屋映画は通常はそれがつくられた日付など超越してしまう。
ところがここには新宿など、70年代初頭の空気が散文的に満ちた。
主役荒戸のたたずまいからも時代の風俗的匂いが明瞭に放たれる。
音楽もゆったりとしたロック系で
たとえば山下洋輔のフリージャズのような時代超越感がなかった。



演出にも精度のばらつきがあったとおもう。
以前の3本にみられた「神のごとき」演出がない。
初期3本において華々しい評価を受けた大和屋は
この『愛欲の罠』ののち忽然と映画が撮れなくなってしまうのだが
(荒戸源次郎が幾度もそんな大和屋を励起したのも映画史的事実だ)、
『愛欲の罠』の脚本を朋友・田中に託したことと併せ、
この時点からの大和屋の耳奥に、自らを意気阻喪させる
魔の「トカトントン」が響きはじめたのではないか。
よって『愛欲の罠』は最大の映画演出の潜勢だった大和屋に生じた、
ヤバい分離線を感知すべき意義深い作品でもあったとおもう。



『愛欲の罠』には不可解な物語進行がない。
田中陽造のほうが大和屋竺より「物語」を語りやすいということ。

「組織」の裏切り者・大和屋の指令によって
殺しの達成感のみで殺しを続けてきた荒戸は
殺しの現場を女房・絵沢萌子と通過する姿を見られた失策により
一挙に「狙われる」対象へと変化する。
この絵沢こそが、「組織」にとっては
彼女自身を起点に大和屋-荒戸をつなぐ糸となるのだった。

大和屋からは更なる冷酷な指令が来る――「絵沢を殺せ」。
これを荒戸が実行する(その前後の湿潤化した演出がマズい)。
ここから魔的な画面陰謀がはじまる。
あるとき、荒戸が戯れに自宅窓からみえるゴルフ練習場に向け
銃を構え、照準器内を覗いている。
そのスコープ画面のなかに「死んだはずの」絵沢が姿を現す。
荒戸は深甚な恐怖に包まれることになる。
最初の「ダブル」の痕跡はこの場面にこそ出現したのだった。



さきほど、殺し屋にとって自分を狙う殺し屋は
自分の分身の位置へと居場所を変える、と書いた。
この認識があるからこそ、大和屋映画にはダブルが仕組まれる。
代表作『荒野のダッチワイフ』では
脚韻を踏んだ「ショウ」(港雄一)と「コウ」(山本昌平)の関係が
まさにこのダブル関係の明瞭な反映だった
(本作ではこの二人がスラップスティックな対として登場する)。
そこでは相手を殺すことが自身を殺すことに「昇格」してしまう。

大和屋-田中自身も以後、このダブル同士のように
表現者として相互に意義深い暗闘をはじめたのではないか。
「ダブルは本当に見えるのか」がテーマだった。
最初の達成は田中陽造のほうにやってきた。
彼が脚本を手がけた鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』。
4人の主要人物のうち
必ず3人までしか関係を交わさないこの映画では
不可視の4人目に「ダブル」の気配が生じ、
それが徐々に人物の関係全体に拡大し、
映画の進行自体を蚕食してゆく恐怖の動勢があった。
そうした幻想劇の外側で
三人の道化がそうした劇の進行をスラップスティックに矮小化した。

これは内田百間の恐怖短篇の自由な翻案だったが、
あらかじめ鏡花の『春昼』『春昼後刻』のような幻想味があった。
『ツィゴイネルワイゼン』への評価に後押しされた
荒戸-清順-田中陽造のトリオは結果、念押しするように
鏡花世界をさらにバロック化した『陽炎座』を撮りあげる。

一方この時期の大和屋竺は
同じ鏡花原作、『星女郎』の映画化を画策していた。
「私を見た者は死ぬ」と宣言する女郎との性愛成就を願う男――
これを中心に見据えた最高の恐怖脚本を大和屋は書き上げていた
(この脚本は高橋洋・井川耕一郎・塩田明彦編の
大和屋脚本集『荒野のダッチワイフ』で、
『愛欲の罠』と同様、その全体を確認することができる)。
荒戸は自分のところでその『星女郎』を
大和屋自身の監督を条件に製作しようと図ったが、
いろいろな不如意が生じ、ついにそれは実現を見ず、
大和屋自身もまた此世の者ではなくなってしまったのだった。



明瞭に画面配剤されたダブルから、不可視のダブルへ――。
『愛欲の罠』でも表現の願望はその点に不明瞭に向かうが、
肝腎などこかで脱臼が生じていた――これを説明しよう。

絵沢萌子は「生きていた」(ここから恐怖が低減する)。
荒戸は絵沢の隠れ場所を「なぜか」突き止めてしまう。
そこに陰謀が露見した大和屋も入り込んでくる。
絵沢はその大和屋の元愛人で、大和屋の操る糸で
「殺し屋人形」荒戸がちゃんと動くかを監視する役柄だった
――そんな種明かしもやってくる(こういう因果ぶくみの整然さが
通常の大和屋映画の特質と離反している)。

以後は荒戸が「組織」から繰り出される殺し屋と次々対決する
単純展開が連続されるだけだ。
ただここで映画の進行は別の恐怖のレールに見事引き戻される。
やってきた殺し屋の異形性が、創意に満ちていたからだった。
そしてこの殺し屋の姿を見たいからこそ
大和屋ファンにとっての「幻の映画」、『愛欲の罠』が
ずっと不可能な欲望の対象となっていたのだった。

殺し屋は大きな女の子の人形を脇に抱えている。
殺意の表明は腹話術によってその人形が語る。
明瞭な「ダブル」関係がそうしてそこで可視化されるのだが、
それが殺し動作と接続されている点が創意なのだった。



前述脚本集『荒野のダッチワイフ』では
殺し屋と見えたほうが実は人形で
人形と見えたほうが殺し屋の本体だという「逆転」が
映画のほぼ終幕で鮮やかに判明する、という印象が生ずる。
実際にその腹話術師-人形と荒戸が最後に対峙したとき
蚊が人形と見えたほうの頬を食う一瞬を見逃さず、
荒戸は窮極的な二者選択の狙撃を正しく遂行する。
この映画的な展開が圧倒的だったのだ。

この作品で殺し屋を演じていたのはガイラ。
そして短躯を生かした気味悪い女装で
惑乱的な人形振りを通していたのが秋山ミチヲだ。
大和屋演出はしかしここで失調している。
発声、腹話の類別が表現されていても
裏からどちらかの背に腕が支えられることで
微笑ましくも、やがては主体-客体に逆転が生じるカラクリが
一瞥にしてバレてしまっていたのだった(笑)。

この殺し屋-人形コンビは3回登場する。
一回目は、前述した絵沢萌子の隠れ家で。
荒戸が恐怖に怯える絵沢-大和屋の別部屋での性交を黙認し
自身は敵の襲撃に備えているあいだに
ふたりの寝室へ侵入した敵に気づかなかった失策をした。
ようやく異様な気配に気づき、寝室に荒戸が近づいてゆくと
ドア越しに荒戸は撃たれ、傷を負い、逃走する
(このようにして大和屋映画では境界幕から
恐怖が一気に「こちら」に飛散してくる)。

以後、殺し屋-人形コンビは大和屋をあっさりと殺し
(これはのちのインサートショットで判明する)、
お馴染みというべきか、絵沢への執拗な「拷問」が開始される。
殺し屋が絵沢に死にいたる挿入を開始するのだが
前言したようにその男根のゾッとする機械性がバレている。
もう死体となった絵沢とのダンスシーンも美しい。
最後は血の池状態となった浴槽――
死んだ絵沢の股間に生け花が挿され死体展示芸術も完成される。



敵から逃れるためどこかの地方都市に荒戸は逃げ、
安娼窟を隠れ家に定め、そこで安田のぞみと懇ろになる。
最初は恐怖のために荒戸はインポテンツに陥っていて、
二人の交接は拷問のような無時間状態に引き伸ばされる。
荒戸はその都市で最初の追っ手との
冗談のような耐久戦に勝ち
(敵から逃れていったはずなのに
逆に敵の懐ろに近づいたという「残酷」もいつもどおり)、
恐怖を克服して、とうとう性的不能状態から脱する。
そこから無時間的な交接場面へと画面が移行する
(このとき、倒立した安田の顔が目玉を剥き、
「人形振り」を披露する細部が素晴らしい。
反面で交接そのものの演出は「おざなり」に近い―笑)。

ところが執拗な「客」が来て、
一旦、そちらにサーヴィスしようと安田が中座するが
30分経過しても帰ってこない。
荒戸が焦れて確認にゆくと、
やはり絵沢同様の死体展示がなされている。
やり手婆さんが客の風体を叙述して、
荒戸は例のコンビの犯行を確信する。

気をつけなければならないのは、
荒戸が最愛の者を「寝とられている」渦中、
その寝所に死の天使がダブルの状態で舞い込む点ではないか。
これは「寝とられること」が即、「その対象を失う」、
魔的な強迫観念の具現化だろう(しかも映画性に富んだ)。
その魔の通過にたいし主体は耳を澄ましてさえいるのだ。
ここに何か、根本的な「不如意」感を覚えるのだが、
この着想の発案者が大和屋竺なのか田中陽造なのか。



以後、映画の結末までについては
三たび出現した殺し屋-人形コンビ、
そのダブル状態の欺瞞を見抜いた荒戸がそれを殲滅し、
誰もいない映画館内でもう形骸となった「組織」の親玉
(山谷初男がそうして唐突に画面登場する)も撃ち、
映写幕の前で『愛欲の罠』の観客自身にたいし
最後に小粋な辞去の挨拶をするとしるすだけでいい。
殺し屋-人形コンビとの最後の対決場面では
完璧に『殺しの烙印』の細部が画面に導入され、
ご丁寧にも「No.1」の話題が出てきもした。



カラー画面というハンデがあっても
やはり大和屋ならではの優れた視覚性があったとおもった箇所を
最後に三つ列挙して、
この長くなってしまった記載を終えておこう。

〇冒頭、青い闇のなか、カメラがゆっくりティルトダウンしてゆく。
ビルの高層の建築現場の様子がシェイプとなって判明する。
構図の余白にスタッフ・キャストクレジットが出る。
この呼吸が素晴らしく、しかも陽光に満ちると
そこが荒戸の最初の狙撃現場となる。
新宿伊勢丹手前のビルディングだった。
それは、若松孝二『新宿キッド』よりあと、
田中登『牝猫たちの夜』と同時の「新宿」を
画面に刻印しているだけでなく、
大和屋「殺し屋映画」を継承し、加山雄三をスナイパーに据えた
堀川弘通『狙撃』への不敵な応接場面でもあった。

〇羽田に着いた外国からの要人を
荒戸が高層の駐車ビルから遠隔狙撃する場面。
クーラーが不調で代わりのクルマが手配される成行Aと
(このとき外国の要人の隣で中川梨絵がトンデモ演技をしている)、
駐車ビルへの正面ロングショットによって
トラックがつづら折り状の坂を刻々上ってゆく様子Bが
平行モンタージュされてゆく。
このBこそがその抽象的な図像反復性によって
のちのエドワード・ヤン的な恐怖場面を見事に予告していた。

〇絵沢を殺したと思い込んだ荒戸が自責の念を払おうと
自宅で乱交パーティをしている。
女の裸体の重畳のなかに荒戸の裸体がある。
このとき、大和屋から電話がかかるのだが
当時の黒い電話機が女の躯それ自体に接続されているような
妖しげな構図がしめされる。
電話は無媒介に「ここ」と「よそ」をつなぐものとして
『荒野のダッチワイフ』でも草木のない荒野の地面と接続され、
結果、地面の下に絡み合う電話線を幻視させた。
その幻視の先がこの場面では見事に女体へと移されていたのだった。

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2007年08月12日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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2009年01月22日 編集












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