煙草をやめる
喫煙は、
自己愛の、可視的にして最小の自己延長
だ。
それは、見た目にも主観的にも自己を伸縮させる。
そういうものの魔法で生活の軸をつないできた流儀を
いま僕は否定しようとしているのだった
(何と大袈裟な書き出し!)。
禁煙地域が自分の生活空間にふえ、
喫煙可能区域をもとめる諸事万端や
喫煙渦中の自分への他人の視線が面倒なのと、
肺にブラができて気胸寸前、
なにより肺組織が「石灰化」しているという
去年の秋の健康診断の託宣が、
この禁煙決意のひきがねにはなった。
石灰化は中学時代いらいヘビースモーカーだったことのツケ。
――もう四十年ちかくの悪癖なのだ。
今日、立教内の医院に行って、
禁煙治療の相談を受けてきたのだった。
一目で見抜かれた。
煙草への依存が、振舞のうわべだけではなく
存在の芯までをも侵していると。
「難しいですよ」。
相談に乗ってくれた医師は、しかし精神科医だったので
禁煙外来の細かい実際を知らない。
ただし成功例は、徐々に喫煙本数を減らす方策ではなく、
とつぜんパッタリとやめるやりかたに集中していると聞く、といった。
禁煙パッチでも投薬でも
擬似喫煙行為のなかから実際の喫煙を遠ざけてゆくでも、
煙草を「とつぜんやめる」意志だけが成功を導いている、と。
減煙によるニコチンの減少にからだが喘ぐのみではない。
その際の精神上のストレスにどう対処するかで
身体の構えを、従前とは百八十度替えなければならない
――だからここに必要な「意志」とは
自分の躯をこれまでの生とはちがう新しいかたちで再支配する
そんな精神活動にも匹敵する――そういうことだったようだ。
相手が精神科医だったので
僕はこれまで気になっていた質問をぶつける。
禁煙が鬱病を惹起することがありうるでしょうか。
というのも「禁煙、気をつけたほうがいいよ。
アメリカでは禁煙薬の作用で自殺者が続発しているらしいから」
と以前、小池昌代さんがいっていたからだ。
医師はいう、「ありうるでしょうね」。
「何しろ依存対象の喪失という点では、
家族でも家屋でも恋人でも仕事でも煙草でもみな同じですから」。
ということは、禁煙はメランコリーの危険を侵しつつ、
心身の大工事を設計すること――僕の場合はそうなるのだった。
結局、医師の精神的処方は、
「さまざまな禁煙方法や禁煙外来を
ネットなどで事前調査したのち
いちばん合ってそうだ、という方法を「とりあえず」確定し、
準備万端にして、なおかつ気軽に
指示されている禁煙方法に挑んでみること」
「いますぐ始めようとしたら逆に失敗する」
「一方法に失敗したら次がある、という心構えを事前につくること」
「実際は悲壮な改革を心身に施そうとしているのに、
そうではない、という逃げ道をあらかじめ設定しておくこと」だった。
喫煙は生活時間の節目に到来する。
起床直後。食後。風呂後。講義後。映画鑑賞後。
ただこれらは苦労すれば省ける。
省きにくいのは、憤怒時の喫煙や
飲酒行為の彩りとしての喫煙だったりする。
さらにとうぜん最も難題なのが、執筆渦中の喫煙。
これをどう廃止するかだということも歴然としている。
往年の、不良少年の自己顕示から、
もっと大きい、自己保全にちかい自己愛へと、
もうとっくに喫煙の効用領域が移っているのだった。
これをたんなる後天的な習慣とは他人にいわせない。
執筆時の僕は、「興奮気質」だろう。脳が過激に興奮している。
その興奮をなだめてくれる喫煙が存在している一方で、
他方、喫煙の持続性が、執筆行為のその場の持続性を下支えする。
喫煙は、執筆の歩く絨毯を敷くのだ。
僕の文章は喫煙の冷却効果と持続励起性の中間に出現しており、
その意味で僕の文章を書く主体はもう僕自身ではなく
喫煙行為だという見立て替えすら可能なのだった。
これは執筆は他人が書いている、という僕の日頃の考えにも馴染む。
想起の行き過ぎを中和するのは僕のばあい
喫煙によるニコチン摂取と、その際に生ずるリズムの遅延だ。
顔から身体全体に煙状のものが補填されてゆき、
そこで生ずるちいさな身体的・仕種的シンコペーションが、
書き物のなかでは生産的な「踏み外し」をする。
あとで自分の文章を見直し、
「あ、ここは煙草が書いたな」と再認できる箇所すらたくさんある。
よく執筆中の喫煙は、機関車における石炭動力にたとえられるが、
喫煙の効用は、そんな単純機能ではない、ともいえる。
冒頭、喫煙を、「自己愛の、可視的にして最小の自己延長」と綴った。
この文言中の「可視的」を「体感的」としてもいい。
執筆中の煙草は、「私以外の私」が「ともにある」保証であって、
煙草は無意識のなかでは「もうひとりの自己」にすら昇格している。
喫煙は「ひとりでは書かない」擬制なのだった。
私自身「だけ」から生ずる執筆行為での狭隘な導きを
ちいさな別方向へと転轍してくれる恩寵が、煙草。
執筆において私と煙草は「共依存」になっていて、
本当の執筆者は、私ではなく
むしろこの「共依存」なのだとしてもいい。
しかしたぶん、こういう自意識こそまずいのかもしれない。
僕の知っている、物も書く禁煙成功者たちは、
異口同音に「煙草をあるときから突然、「フッと」やめた」という。
つまり実際は禁煙に成功しているのではなく、
奇術師のように、煙草を意識対象から外すことに成功しているのだ。
彼らはからだのなかのニコチンの減少とも闘っていない。
一種の形而上学で、煙草に自己まで投影してしまった自分には
とてもそのような唐突な「中止」
(それは、エポケー=思考停止、といってもいい)が考えられない。
おまけに。禁煙の本質がやはり「対象喪失」であって、
それはメランコリー要因ともなる、という医師の言葉がやはり気になる。
僕の場合、禁煙は「生活の」リズム、彩り、節目、歯止めを、
あるいは「無為の」リズム、彩り、節目、歯止めを失うことよりさらに
部分的/全体的、内在的/外在的に「自己を失う」ことなのではないか。
存在に根がらみになった生活習慣だ、もう喫煙は是正の対象以上だ。
逆側からいってみるとよい――
禁煙は自己の嗜好癖を失うことではなく
自己愛持続の文明的な一本質(それは執筆に集中的に現れる)を
不可逆的に失う悲劇なのだ、と。
ただ、資本主義の終焉可能性をこのところよく語る僕としては、
禁煙が植民主義的身体、国家帰属的身体の終焉を
告げるものだという「思想」も当然ある。
周知のように煙草は15世紀あたりの西欧列強が
植民地から採りあげ、勝利の旗として拡大した嗜好習俗であり、
国家は煙草の販売独占と煙草税の間接徴収によって
喫煙者をさらに「財政的に」是としてきたのだった。
喫煙者こそがアンシャンレジームに馴致された
「下層の」身体だったといっていい。
それは文芸的ロマンチシズムには関係しない。
そういう身体はもう旧い――「消滅していい」、というのが
現在のネオリベ風土での、「清潔主義」の帰結。
ならば、煙とともに、
この旧い身体も消滅していい、とまで考えてしまうが、
それが自死と再生のどちらを結果するのか、
その分断線がつかめないでいる、というべきなのかもしれない。
いずれにせよ、鬱病発生の危険を侵し、
自分にとっては優雅に感じられた自己愛の型すら変えてまで、
いま僕は、自分の心身に「意志による」大工事を施そうとしている。
ここでの構図は、「心身による心身を対象とした変貌」。
ありうるのだろうか。
自分の靴紐を上に引いて自分の躯をもちあげるようなことは。
同一主客のあいだの自己再帰的干渉は、前論理的である、と
つねづね僕も語っているのだぜ?
ともあれ、外延性の見込まれない孤独な闘いが
今後、一箇月のあいだに僕自身にはしいられることになるだろう。
――とまあ、大袈裟なことを書いてしまったかもしれない(笑)。
書いたな、たしかに。
病院から出て研究室に戻ると、
なんと禁煙自殺説の張本人、小池昌代さんが別件でいた。
僕は今日の学校への来訪目的を彼女に語ったのち、
以上綴った次第を、より端的な言葉でだが彼女に語る。
で、「禁煙が下手をすると自殺につながる」と小池さんがいった、
という話のツボとなって――
小池「え、あたし、そんなヒドいこといったかしら」
阿部「いったってば。だからすごいプレッシャーなんじゃん」
小池「だって阿部さん死んじゃったらやりきれない。
(同じ研究室で)煙い、ってブツブツ怒ったけど、
そんなら別にやめなくていいよー」。
――昌代め。
ということで、こういう個人的な日記末尾の常なのですが、
どなたか、「抜群に効果のある禁煙方法」というのをご存知なら
ぜひ愚生にご教示ねがえないでしょうか。
ご自身、知人の美しい成功例をとりわけ待っています。
なにとぞ書き込みしていただければ
2009年01月18日 編集