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(改行)詩の原理 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

(改行)詩の原理のページです。

(改行)詩の原理

 
「現代詩手帖」一月号に掲載された、
川上未映子の詩篇につき
「なにぬねの?」近藤弘文くんと
一週間ほど前、意見交換をした。
彼の日記のコメント欄には、
おおむね以下のようなことを書いた。

詩の要件:
圧縮・切断。リズム(身体)。
飛躍。再読誘惑性。
言語関連性(組成)自体の提示。
(そのうえで)他分野との間テキスト性。

こう書いて、書き方がまだ乱暴だったなとおもい、
「その後」についてここで書いてみることにする。
便宜上、改行詩を中心に、俎上にのぼせる。



詩が読み手を魅了するとき、
その最小単位は、詩語ではなく一行だ。
詩語使用はむしろ否定されなければならない。
その魅惑のしかたも独特で、
そこで俳句の特性などを考えてしまう。

語配置には隙間があり、
見えない衝突がある。
詩行はそのかぎりで空間を指示する。
またこの空間性の確保されないものは、
「目詰まり詩」として忌避される。

衝突は語の語性自体から生じ
(つまり作者の実人生などメタレベルのものではない)、
したがって論理的な解きほぐしも可能になる。
ここで直観的読解が行き当たらないと
その詩が即座に「難解」の印象を得る。

詩はおおむね修辞密度が適切でない。
指示性のたかい散文にたいし、
組成が過剰だったり、稀薄だったりする。

詩のほうが散文より歴史上、先験的なのだが、
散文が文明内に支配的になって、
詩は散文からの逸脱をとりわけ志すようになった。
詩文は散文よりもその「奇矯性」によって
動悸を導くものでなければならない。
それでないと思考に接続されないだろう。

よって散文脈のみに彩られた詩文は、
詩史理解において欠落的とみなされる。
またそのおおむねに再読誘惑性もない。

現代的詩文は、組成の稀薄さに利点をもつ。
語のもつ余白がつよい意識対象に入っている、といってもいい。
語関係がその空間性によって読み手を魅惑しながら、
語自体にこそいわば余白のアウラが生ずる。
これは語が語であるかぎりの、原型的なものだ。

そのアウラは別の語自体のアウラと融合し、
宇宙性に届こうとする(不可能な試みだが)。
そうなって、当該一行が次行に連結されてゆく。
一行内で融合がやりとげられないためだ
(書き方が大袈裟のようだが、
これを普遍的真理とする詩作者は多いだろう)。

詩行加算は隣接性によらない。
意図的な飛躍にもよらない。
何か、欠落の拡充といったものによる。
こうした欠性の有無の測定が
その詩篇の評価にも有効だろう。

こうした二行単位を眼中に置いた場合、
すべての語が一定の不可知性を孕みながら
喩構造のなかでついに電極化することになる
(短詩型の喩構造を吟味したはずの日本の詩作者には
こうした言葉の事態を慮外とすることができない)。

行は連結されてゆく。
それは「語」の、
あるいは「語がしめした意味・空間」の、単純要請による。
不足が補われようとして
新たな不足が生じてゆくこの様相はたしかに病んでいるが、
そこで空間が拡がる。
同時にこの連結加算そのものに「推進力」も露呈し、
詩行連結は時間性へと着実に変化してゆく。

むろん改行が、詩世界に最も切断を入れるリズム強圧だ。
結果、改行的詩行加算は、
空間、時間、リズムを渾然一体化し、
言語組成の親和的複雑体を表出してゆく
(改行原則に関連するものを他分野で探すとすると、
最も有効なのが、モンタージュ論となるだろう)。

ただこう書いて、まだ指摘が片面的だという危惧もある。
まず詩中の「連辞」が本質的に伸縮自在なことは、
詩の単位を一行とすることを難詰するだろう。

それととくに現在的修辞には哲学的認識がからまる。
そこでは語に詩作者特有のおもいいれが加算され、
結果、語(関係/認識)は強圧にひしゃげたりもする。
読み下してゆく刻々に
事後性に蹂躙された破砕済みの言葉が
読み手の眼前に、脅威として現れてもゆく。
現代的詩篇が恐怖に近づく理由がそこにある。

同時に語の起源も計測される。
旧い語、新しい語、超俗的な語、世俗的な語。
旧い語が詩篇に混入する場合は、
語源論を詩自体が想定していることが多いから要注意だが、
それ以外に、それら出自の異なる語(文法)が「混成」し、
そうした「混成」が縒り合わされている姿に
詩性そのものを見ることもできる。

そして、この「混成」を詩の根拠とすると、
詩文と散文の混成もまた、詩的化合物の保証を得るだろう。
川上未映子の詩篇などはこの位置にあった。

逆の面からいってみる。
小説は文明的=文学的=商品的産物だから、
「自身が小説である」とメタメッセージをもつ。
そこから自由なのが実は詩だった。
誤解されがちだが、詩は文学性のなかにはなく、
詩自体のなかに「ただ」ある。
そうなっていない詩は偽物と斥ければいい。

むろん詩作者の人生・教養とも直接関係がない。
その人生・教養はむしろ詩によって切断され、喩化され、
それ自身の謎となって断片的に散らされる。
語関係に元手となった人生が奉仕されるとき、
その詩は人生的だが、しかも人生とは無縁という二重性に輝く。
とりあえず詩は、そんな無関係な二項同士の緊張として
組織されることが多い。

詩の語/行連関は語に意味があることのみならず、
イメージ、音声、不可知性、奥行、空間、自体思考性、
他の何かとの親和性などがあることを
「物質的に」自己組織している。

ということは、詩はそこにどんな絶望的な内容が描かれても
自身をその組成において祝福する幸運が
しるされていることにもなる。
詩の不運とはそうした自己信頼から離れ、
野心や性急さや切迫や
(単純な人生の)切り取りから書かれたものといえるだろう。
詩は感情が書かない。

ところで詩は一行目から読者を歓待する。
そのために有効な手段が美しさや驚愕付与だろう。
これらは実は空間性に関連するものだ。

同時に、詩は加算における時間性を自らの身体にしていて、
そこでも美しさや驚愕が駆動理念となる。

一行目はその後の全行の象徴的漏出なのだった。
一行目はとうぜん全行が書かれていないうちに書かれるのだから
そこにあるのは或る決定的な踏み外しというべきもの。
こうして詩に、才能の問題も付帯しはじめる。

ひるがえって、詩の最終行とは何か。
そこには読まれたことの感謝、
詩行が一定の時間性を連続させたことの
自己祝福がしるされなければならない。
この要請は、詩篇が長篇化すればするほどつよくなる。

近年、「野心的な」長篇詩の上梓が目立つが、
そのおおむねに読者の外界をことほぐ余韻、
つまり「適切な終了」が欠落している。
自分に向けて、書かれすぎたのだ。
これを、現在の詩の一病弊と呼ぶのも間違っていないはずだ。



「実感」を書いた。
なので書かれたものは
もしかすると普遍性が十全でないかもしれない。
ただ僕の詩の自註機能を付帯的にもつとおもう。

日記欄に詩篇をアップすると
僕のばあいコメント欄が沈黙することが多い。
それでも「あしあと」をみると
詩篇は一定数のひとに読まれているとおもう。
それでいいのだ。
僕の詩はコメントするのが面倒なのは自明だから。

個々の詩篇にはむろん特有の「詩想」があり「展開」もあるが、
それらを抽象抽出すると
如上の所見が導き出されるだろう。
せっかちな僕は、自分でそれを書いてみたのだった、
今後アップする詩篇により近づいてもらうために。

こんな文章を書いたのは実は
ドゥルーズ『シネマ』を本腰を入れて読み始めたため。
現在読んでいる「モンタージュ」の章が、
詩論に読めて仕方なく、触発されて、つい上を書いてしまった。

僕が映画から詩に道筋を移す理由もわかるかとおもう
  

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2009年01月22日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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