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(改行)詩の原理・その後 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

(改行)詩の原理・その後のページです。

(改行)詩の原理・その後

 
※先の日記ののち、
ミクシィ・コメント欄で生じた
三村京子とのやりとりを以下に順番に貼ってゆきます。



【三村京子】

「欠性」の加算の運動が、詩行を推進する力であり、
そうして推し進められた詩篇は時間性そのものとなる、
これが詩性である、ということでしょうか。

「混成」というのは断片が複数、合わさっていることか、
あるいは、
複数のものが合わさったために、
それらが断片性を帯びることになってしまったのか。

「混成」(が縒り合わさった姿?←混成そのものとの違いはありますか)そのものも、
詩性とほとんど同義ということは、
詩を書き進めるために加算されるものが「欠性」だから、ということで
そのように断言できるのでしょうか。

欠性というのが重要になるのはなぜなのでしょうか。
それは近代以降の芸術のありかたと深い関りをもっているように思います。
また、ビートルズやフランク・ザッパの作品の編集性にはどう関係していますか。

現在、存在する地上の万物が断片であるということでしょうか。



【阿部嘉昭】

あなたの注意は
フラグメントに集中しすぎているかもしれません。

フラグメントによって詩行をモンタージュすることはできる。
映画の類推でいうと、
ジガ・ヴェルトフの『カメラをもった男』。
ヴェルトフのその作品は、
空間を鷲づかみにし、なおかつ情動の罅を入れることに成功していて、
たしかに映画史上の大傑作ですが・・・

そう、フラグメント詩というのは
モダニスム詩にもみられた技法です。
ただしそこでは断片の集積=世界の現前、
というのが信仰の段階にとどまっている。
むしろ真の世界は集積によってではなく、
欠性によって明かされるのではないか。
この場合、字数的に散文より少ない詩文が
優位をもつことにもなります。

それと、ヴェルトフ的な詩行加算というのは、
森川雅美『山越』などにもみられるけど、
有効的なものとは到底おもえない。



「混成」は、単純には詩篇が
二原理の明滅/伸縮によって進むということです。
たとえば私性の開陳と「私の視野」、
それだけでも詩を進めることができるのです。
ただ、それではたぶん独善が生じてしまう。

ひとつ新たな視点を出すと、
「しなやかさ」の問題がある。
一詩行内部に確保される「空間」とは
隣接性によらず、単純飛躍にもよらない、
いはぱ関係の親和性をさぐる語同士の連関によって生じますが、
この「しなやかさ」は当然、行をつなぐ原理にも出てくる。
そこでも「空間」が一定の生成感をもって刺繍されてゆく。

この「しなやかさ」が詩集が再読される鍵です。
だから詩篇内部の構造が、
複雑であっても親和的でなければならない。
単純な列挙的大砲撃ちでは「退屈」が生じてしまう。
その一打一打に「空間」がなければ、なおさらだとおもいます。

僕の詩篇に明確な特徴があるとすれば、
この「しなやかさ」の創造が多元的だということではないか。
あなたの言を借りれば断片が文法化され、
しなやかに反りかえり、
しかもそれが作者への強制に閉じず、
一定世界へのやわらかい誘因となること。

ビートルズやザッパの音楽的時間は
たしかにあなたのいうとおり「編集的時間」です。
ただそれだけに終始すれば、
それは美学に奉仕するだけ。
そうではなく、一編集単位に「空間」が仕込まれ、
そうした「空間」が連結連鎖されることで、
一種の身体的多角形が生ずる点こそ肝要なのではないか。

なるほどザッパは往年は頭脳派といわれた。
ただ、絶頂期ザッパは、脳髄的であると同時に
着実に「身体的な音楽」を披露しています。
だから再聴にあたいするのです。

その「空間」には、ザッパの脳髄-身体を幻想することもできる。
僕がザッパにたいしてよくいう「美味しい」も
ここにかかわっているとおもいます。

ビートルズの場合、もっと単純でしょう。
二原理交代、多くて三原理交代という単位が
アルバムに集積されている。
『ラバーソウル』はその集積式に
なおかつ光にあふれた「空間」がある。
あの空間性がすごく聴く者を夢想に誘うのです。

で、そうした「空間」と「物質性」に
関連があることを想起してください。
「楽器の音」「声音」にはすごく注意が払われています。



あなたが僕の詩篇と懸命につきあっているのは
よく理解しています。
できれば、都市魚さんのいう「閉じ」が錯覚で、
詩篇はしなやかさによって空間化されている--
そう書いてもほしかったけど(笑)、どうもありがとう



【三村京子】

断片を単位にして、操作的に詩を書こうとするとき
「ヴェルトフ的加算」となってしまい、

その書き方では、作者の身体という要素まで含めた、
「書かれたもの」を立体的に魅惑的に
---つまり「美味しく」、は、生み出さない、ということですね。

空間を生み出す、という、
その作者の(身体という即物的な)存在が基点となって
リアリズム的な次元で、
現実界にたいしても美しい記述が施されている、ということ

これは、ほとんど目の前の現実状況の逼塞を越えていくことの、
実践、挑戦ということになるのかと思います。

リテラシーの低下と、ディスコミュニケーションという
社会全体での問題があり、
既存の文化状況は、その形骸だけが守られて
内部が腐敗しているのかもしれません。
「詩壇」にもとうぜん問題があり、
それをどう変えていくかということが、
阿部先生の、詩も含めて書いていらっしゃることが、
発していることのひとつだと、感じます。
こういった営みは、やはり同業者で隊伍を組んで
取り組んでゆくということしかないのでしょうか。

わたしは歌詞のあり方を考えているということもあって
つい、メロディと一緒に皮膚で理解できるような言葉で作られたものを、
どこかで探してしまいます。

多くの人に好かれて、買ってもらう、ということが
作品作りを続けるために必要と考えます。
それで、
訴えかける対象として
ふつうのひとのふつうの感覚、というのは考えます。
そういうことに付き合っていると、
印象としては、阿部先生の詩は倦厭対象になるかもしれません。

たぶん、この詩篇はしなやかである、
と、いうためには、読み手に、
解釈を超えたレベルでの読解力が必要な詩だと思います。

「閉じ」と感じるのは
詩篇の顔つきが厳しく、
読み手に、
「個」=「孤」としての厳然たる完成度と屹立とを要求するからだと
思います。

「個」が曖昧で無責任なままでも
流れに任せられるようだったのが、ここ30~40年の社会だったのかもしれません
これから、そうはいかない倫理感、道徳性が
社会で求められるべきであるし、そのようになればと思います。

同じようにしなやかに、
空間を組織した詩篇でも、より「好かれやすい」ものはあると思います。
顔つきが、もっとひょうきんなものとか、
書いてくださいませんか・・・
橘上さんみたいなやつなんかどうでしょうか。

しかし先生がそういうのやったらもしや会田誠さんのような感じに、
超悪辣な、悪趣味大全のようになってしまうのか・・・。



【阿部嘉昭】

何か批判されているなあ(笑)。

前提をいっておくと、
言葉と人間は相互疎外的ではなく、
親和的である必要がある。
それで詩的言語には、
いわばそこに入り込む「空間」がもとめられる。
そして一旦、その「空間」に入ったとき、
言葉と言葉が一種の親和力を介して
スパークする姿がみとめられるようになる・・・

三村さんは「リテラシーの低下」
「ディスコミュニケーション」と
問題を摘出する。
楽観的に考えると、「リテラシーの低下」にあらがうのは
言語組織の魅惑です。
謎めいたものに近づき、魅了される。
このとき、「リテラシー」が着々と強化されてゆく。

みんなそれをしてきた--というのは
僕の大学時代までの神話かもしれない。
現在では、効率性がもとめられ、
理解の困難は、それ自体が忌避されてしまう。

媒体論の問題がかかわっています。
僕は実は森川さんと今朝、
マイミクの関係をふたたび切りました。
もう二度とマイミクに戻ることはないでしょう。

彼はミクシィに「作品」を読むことは面倒だ、
そこは挨拶と習作の場でいい、と公言したうえで、
昨日の自分の日記であからさまに僕の日記を揶揄し、
かつ論理矛盾だらけに自分の詩作の優秀さを
神経症的にではあれ、強調したからです。

僕は忌避されようと、ミクシィに「作品」を書く。
そうすると、互いに日記アップをみる僕と森川さんは、
不公平なほどに非対称な関係、ということになります。
おまけに彼は「他人に依存し」「短気を起こす」という
僕のもたない資質まで保持している。

僕は彼を、「世間」の象徴として捉え、
何とか彼を誘導しなければ、
詩--言語環境の変革がありえない、と一時期考えた。
ところが、そんな彼が
ごく数人のマイミクの支援を想定し
卑劣な揶揄を日記行為でしでかしてしまう。

「あ、この非対称性は
相互の性格、善に関する知見の問題であって
矯正不能なのだ」と確認したとき
僕はあっさりと彼とのマイミク関係を切ってしまった。

媒体に「作品」を発表することで
「媒体」属性に変化をもたらすというのは、
メディア論的な講義もまかされることも多い僕にとっては
一種、倫理の基軸になっています。

だから、そこで「より好かれやすい」ものでなくとも、
「作品」が書かれることで、
メディアに一種の騒擾をもたらし、
その基底を振るわせることもできる。
そういう「混成」もあるのです。
これが反論の一個め。

ふたつめ。それは三村さんが自分で吐露してしまっている。
「リテラシー」の問題です。
僕の書くもの、その組成の親和性、という主題を
いわばリクエストしたのに、
三村さんは「好かれにくい」という中間結論を出してしまう。

しかも論理の道筋は「逸脱」によっていて、
否定意見であれ、正しい手続きによっていない。
そこでリテラシーの低さが問わず語りされてしまっている。
そういうポジションで「好かれにくい」と書かれると、
自分の書いているものが親和的だという自覚と照らして、
発語が禁じられてしまうことになる。

僕は具体例示をして自身の擁護をしようとはおもわない。
できますが、それでは逼塞的言辞に陥るからです。
う~ん。

意見を共有できないものにどうやって近づくのか。
「訓育」の気概をもってして、か。
でもそれではいつも同じことの反復になってしまう。

ひとつだけたとえ話。
前期入門演習履修者のひとりが、
あなたの音楽を旧い、と結論づけた。
それにたいし、新旧の区別は価値の基準とならないし、
同時に、結論も間違っていて、それは新しい。
音楽の携行可能性、肉声の前面化、
音楽全体の脱電圧化などの観点から
往年、フォークと呼ばれたものが
フォーク性を堅持したまま楽曲・歌詞の表現力を豊かにし、
「新たな」ジャンルを形成しだしている--
そういう動向に無縁だということが旧い、
とその生徒に反論したと
あなたに伝えたことがあります。

問題は、覆せる言辞が
ディスコミュニケーションによってはびこり、
改定不能となってしまう現在の神経症的な様相です。
ミクシィという媒体に
たとえばあなたが、
まだ自身の音楽を拡充させる機運があると考えるなら、
やはり「混成」によって
場の活性化が図られなければならない、ということでしょう。
『サージェント・ペパー』のように
「要素」のつまった日記の応酬・集積が実現できないものか。。。

発奮を期待します。

ともあれ、出自のちがう言葉を
僕の詩篇にチェックすることから始めるべきでは?

日記欄では、改行詩法を普遍的にうまく検討したつもりだったのに、
論点が「ミクシィ的に」ずれだしてしまいましたね。
こういう成行を僕は採りません。
散歩的寄り道の楽しさとぜんぜん似ていないから



【三村京子】

批判したつもりではないんですが、すみません、
「好かれやすい」という書き方が失礼だったかと思います


だから、そこで「より好かれやすい」ものでなくとも、
「作品」が書かれることで、
メディアに一種の騒擾をもたらし、
その基底を振るわせることもできる。
そういう「混成」もあるのです。
これが反論の一個め。

↑この騒擾、充分感じます。
わたしなどは書くことそのものの倫理性に立ち戻らざるをえず、
いまは日記の更新さえできておりません
むろん、それが自分のリテラシーの低さと顔をつきあわせた、
ということなのです。
わたしの省みを導いた、という意味では
ここで具体的に先生のおっしゃる騒擾が効を奏しているということです。
ただし森川さんのことも同じかもしれませんが、
どうしても変える、ということが難しいのでは、と感じることも多いです。

組成の親和性の問題、充分に読めているとはおもいませんが、
「譫/毛」「嘉/膿」と最近2作続けて発表されましたが
とくに前者は、
「深閑とにっぽんの煙草」 「黒鍵三兄弟」
などの奇妙なイメージや、

「漠然とした不安というやつが。」
(と、芥川が嵌めこまれている)
「いずれをいまの酒にする。」
「鬆だらけになったうつしみ、爛々と鬆敵。 」
などのヘンな文が、おかしみを感じさせます。

「嘉/膿」は、初読時に入ってゆけず、
そういうアップされる詩篇は、
いつもそのままにして更新される新しい記事に埋もれてゆきます。
が、サイトの方などで読み直したいと思います。
『頬杖のつきかた』も
通しで読むと、日記のときに読みきれていなかった部分が
鮮やかに感じられたりもし、違って感じられました。
それは、詩集単位で、使われる言葉同士に関連があって
詩篇相互でも意味がスパークしているせいですね。

塞がれている耳にどう語りかけるか。
相手の痛いところをつくと、
相手はへそをまげて、より、殻に閉じこもろうとする、
と、思います。
なので、相手の機嫌も損ねないようにしながら
ではないと、伝わらないのではないか、
という、卑屈さなのか恐怖感なのか、が、常にあります

私は他人を「訓育」はできないから
作品で魅了できれば、という考えもありますが


前期入門演習履修者のひとりが、
あなたの音楽を旧い、と結論づけた。

こういう、抱えている現実はキツイ事態でしかない。

そういう事態を生き抜く、というか
責任をはたすのに、
その出自の違う言葉、のような
「混成」によって組成された、要素のつまった、
ゆえに親和的な言語組織が必要なのだとおっしゃているように思います。

また仕方の無い方向に話がいってしまったかもしれません
今後はこういう言説空間にふさうような
読みと書きこみができるようになりたいとおもいます



【阿部嘉昭】

ミクシィなどは、無資本で「作品」を発表できる、という点で
経済的に恵まれないひとたちの
「公器」的媒体というべきだとおもいます。
「ミクシィ的な抑圧」というのは多々指摘できるのだけど、
状況的には「とても面白い」ととりあえず感じざるをえない。

森川さんが、ミクシィに「作品」を発表されても
面倒臭い、ちゃんと読まない、自分も習作しか書かない、と
僕以外、彼自身のマイミクにも失礼なことを書いてしまったのは、
おそらく自分が同人詩誌のいろいろに作品を発表でき
それらと触れ合えるという「担保」があるためです。

しかしそれは特権意識のさもしい裏返しでしかない。
公平性を欠く。同時に同人詩誌は完全に詩壇にしか流通しないから、
彼の特権意識の基盤もまた脆弱で、
媒体論政策が突き詰められていないとしかいえない。

みょちんが最近、僕のネットアップされたインタビューにつき
注意喚起をしてくれた。
そのなかで「喋ったけれどもアップされなかったこと」を
僕は彼女のコメント欄に書いた。

現在、若い世代の環境は
①「商品」②「徴候」③「作品」に囲まれていて、
①には「広告的言辞」、
②には「データベース消費」が対応してゆくが、
③に関しては「描写」が必須になり、
そのこと自体が疎まれている、といったことを書いたのです。

ミクシィでは暗に、
生理的即応が生ずるような日記書きがもとめられる。
そのための利便性をミクシィ資本は追求し、
そこからケータイアクセスをより増やし、広告価値を高めようとする。
これは「資本」だから当然の成行です。

となって「広告的言辞」があふれ、
同時にその早読み傾向は、その最大の果実に
「データベース消費」を置くことしかできなくなる。
これがミクシィの閉塞の実情です。

ところが商業資本によってあたえられた「公器」は、
その利用者によって変貌可能なのです。
いい例が北京オリンピック前のチベット紛争。
中国軍の専横壟断暴力をしめす映像は
報道管制が敷かれていたにもかかわらず、世界中に配信された。
一般人のケータイで撮られた映像が
YouTubeにアクセスされ、続々配信されていったからです。
このような媒体性の拡張がないものか。

ミクシィで問われているのはこういうことです。
このとき自分の言葉の組織内部にある親和性を、
他人の言葉の内部にも「同等に」感じることができるか。
つまり、偏狭な自己優位性を捨象しろ、ということが命題になる。

詩文もまたそういうところに赴きやすい。
となって、「連詩」などの試みが
詩作そのものを賦活する叡智としてクロースアップされてくる。

自分の言葉の組織内部に親和性がないというのは
本当に本当に痛ましいことなのではないか。
また森川さんの話になって恐縮ですが、
彼は『山越』の校正時に、
自分の詩集なのに「なぜか」校正が疲れる、と書いた。
つまり、無意識ではわかっていたのだとおもいます--
自らの詩文の組成に「空間」がなく、
それで親和性が醸成されない、と。

そうした言語にたいする幽体離脱意識というのが
たぶん他人の言葉にも不用意にしか反応できない
彼の資質を規定しているし、
自作の評価をめぐり幾度も逡巡して再帰思考をし、
他人の容喙をもとめる彼の営みにもつながっている。
僕は友情から、それに気づいてもらおうとしたのですが、
けっきょくさまざまな挑発が空振りでした。

この森川さんの事例は「徴候の事例」です。
だから僕は暗に森川さんの(稲川方人も入っている)長篇詩を示し、
そのフィニッシュが決まらないのは現代的病弊としたけれども、
そこには非難の意図をこめなかった。
たぶんそれを彼は誤読し、短気を起こしたのでしょう。
ここでも「リテラシーの低さ」があからさまになっている。

他人の書いたものに、正しい読解が導入されなければ
たとえば僕の詩の演習授業などは即座に壊滅してしまう。
そういう真剣さが実際はどんな局面にももとめられている。

「データベース消費」は記憶・体験のデータベースにたいする電気的反応で、
それは直観的かつスピーディで、
現代社会においてはそれ自身が非難に値するものではない。
ただしそうした反射神経だけに傾斜していって、
いま「作品」が無理解のなかで喘ぎだしているのです。

自分の詩作を「作品」と強弁する意図はないけれども、
僕は「作品」ではまず「物質的」描写を先行させ、
その次にそれを思考し、最後にそれを文脈化してみせた。
少なくとも僕の授業を受けていてマイミクでもある(元)学生たちは、
僕の分析態度に
そういう「励行性」があるのも知っているはずなんだけど、
あなたをふくめ「作品」(僕以外のものであってもいい)にたいし
モチベーションを形成することができなくなっている。

「現代病」ともいうべきこの事態は何か。
たぶん、自分の発語に地上的空間性を自覚できず、
それが疎外として彼(女)自身に反射している、
というのが大きいのではないか。

自分の発語に空間性が孕まれていて、
それが自己親和性の根拠になる、ということは大きいです。
これがないと、インスピレーションが連続せず、
「長い発語」も不可能になってしまう
(この「長い発語」をとりあえず確保しようとして、
「2000」という「数値」〔何と神経症的事態!〕に向け、
延々、長篇詩篇内で「自己模倣」を繰り返していった森川さんは、
詩作行為のなかでの「反動」を演じてしまったことになります)。

となって、詩作の面白さが何かがわかってくる。
それは「へんてこりんな言語組織」のもつ統一体で、
同時にそこには「思考の萌芽」が骸骨の瓦礫であったり、
光を発する可能性の集積であったりしながら「畳まれている」。
織り込まれているものの本然の形態としてのgift--
この素晴しさが享受され、流動していかなければなりません。

いまドゥルーズ『シネマ』の読書は
二巻目の200頁強まで来ていますが、
こんなに面白い本はない、とやはりいえます。
ベルクソンを契機にした哲学思考に映画が接続され、
映画自体が哲学されるこの本の結構はたしかに重量級ですが、
すぐに映画の具体性を文が喚起し、
映画性がさまざまに分類され、
しかもその分類がディレッタントの気まぐれに堕さず、
即座に哲学的思考のなかへと再編成されてゆく。
そうしてたとえば「運動」「時間」「イマージュ」にたいし
読者の注意力が研ぎ澄まされるようにもなってゆく。

実はこれに似た本は、たとえば蓮実重彦であっても存在しない。
「織り/折り込まれる」「織り/折り込んでゆく」、
この自己運動の頻度が前代未聞だし、
したがってドゥルーズは主題系列挙という
説話論的サスペンスも採用しない。
思考があふれるまま、書かれるものが生成・変成してゆくままです。
とうぜんこの『シネマ』は分類上は評論に属しますが、
現在にもとめられる詩文の何たるかを解き明かしてもいます。

こういうものに「親和性」の根拠が
もとめられなければならないのです。
何か「詩壇」詩のほとんどは、すごく鈍い感性で、
一般のひととは関係のない場所に向け、書かれすぎているとおもう。



速読を体感的にしいられてしまうミクシィでは、
たとえば僕の型のような詩篇を発表することはすごく不利です。
僕も「煙草をやめる」や
「沢田研二・東京ドームライヴ」のような日記を書くほうが気楽。

ところが「速度にたいする反抗」というのは
たぶんすごく現在的問題を構成する。
僕は詩篇をアップし、一旦はゆっくり読まれることを念願する。
そのうえでそれが速読されていったときに
そこにリズムが再編成されることを立証しようとする。

ドゥルーズは逆。哲学書なのに読み手に
いつも速読(またそれに従った再読)を要求する。
こうして「脱領域」が完遂される。
ドゥルーズの「綜合体」のなかに
いろんなものが「混成」していると気づくには
実は「速読」のほうが体感的に有効なのです。

案外、リテラシーの崩壊とは、
こうした読解速度の選択が
自然にできなくなった点に起因しているのかもしれません。
これなどは、依然、底流をなす教養主義の悪作用か。



苦労して、僕の詩篇を具体的に吟味してくれてありがとう。
詩行一個から詩行の流れに、そしてトータリティへ向かうことが
今後のあなたの課題になるとおもいます
(それは僕以外の詩集にたいしても同じです)。

そのトータリティという点で、
サイトアップされた僕の詩集なら、
可読性も親和力も増すと書いてくれたのも心強かったです

(以上、三村さんの書き込みを契機に
ふだん考えていることを列挙的に開陳しました。
導入剤となった三村さんの言葉に感謝します)



【三村京子】

重量級のコメント、ありがとうございます。
自分や友人のことも思い、また
ふと、「モールス」を思い起こしました。
あの、酒井さんの「瞬発力」と、「脱力系であること」は、
「商品」「徴候」の強いる「読み方」が、
「自分の言葉の組織内部に親和性がない」、
言語に対する幽体離脱を導く状況のなかで、

地上的空間を孕んだ、自己親和性の確固としたことばを生み出している。
自然体の佇まいを歌のなかに定着させることで、
思考の溢れるまま、生成・変成物の生み出されるままの状態を呼び込んでいる。
それを瞬発力によって、その場その時にしかないものへと編み直す。
のだ、と、おもいました。
なぜ脱力のたたずまいがかっこよかったのか、
それが整理されました。

むろん、同様なことを言語だけで行っている阿部先生の詩作も
それを、より原理的に行っているものだとおもいます。
ときに難解に感じることもありますが、
後になっても役立てることのできる計算式(公式)のようなものとして
読んでいきたいと思っています。

それから、媒体の拡張のために
自分の言葉の組織内部の親和性と「同等に」、
他人の言葉の内部にもそれを感じ取る、ということですが、
そこでは言葉への厳密さが要求されます。
厳密、正確でありながら、
多要素の「混成」的な「コミュ」を、つくってゆけるのか
今後考えたいとおもいます。
混成的な、情報工学的な、東大的思考に負けないような。

詩行一個の読みからトータルの読みへと発展するためにも
そういった努力が必要になると思います。



【阿部嘉昭】

そのとおりですね。
モールス酒井泰明さんの例示が
「お、まさにそのとおり」という感慨もあたえ、
論点がすごく精確になったとおもいます。

たしかに、言語組織、
あるいは表現組織に「空間」があるということは
たたずまいとしては、
僕の言葉でいえば「しなやかさ」、
あなたの言葉でいえば「脱力性」があるということです。
それは「余裕」のたたずまいにも似ている。

「余裕」とは、言葉への、人間の関係性への、被読解経験への
一種の自己信頼があるということにもつながり、
親和性とはそこで、書法以上に、生の選択にもなってゆく。

僕は「詩人」という言葉づかいをすごく忌避しますが、
「詩人」のたたずまいというものを感じることはある。
何か生のどこかが「へんてこりん」なもので組成され、
その滑稽感が可愛く、素晴しく映る、というか。
同時に野蛮な力といったものがその躯から湧き上がっている。

そうね、たとえば最初に廿楽順治さんに会ったときなどは
その風貌にまず信頼を寄せてしまった記憶があります。
躯の芯がつよそうだなあ、と。

「へんてこりん」とは何か。
一個は用語の変転にあらわれる。
もう一個は、とくに日本語の特質に関わっていて、
それは70年代詩から気づかれたものです。
つまり「助詞」。
助詞のブレによって語法を破壊的にする、ということです。

ところがそうした助詞の用法拡張は
80年代男性詩の「高度な文学性」のなかでは
なぜか通常性に復帰してしまっている。
ひとつも「破壊」の生まれなかった80年代詩は
それでいま俯瞰するとほぼ退屈にみえるのかもしれない。

ある分類ができます。
先のコメント欄で話題にした詩集は
助詞の用法に発明がひとつもない。

廿楽順治は初期は語尾に工夫を繰り返していたが、
いまは構文の内在関係をしめす助詞の変格に
その興味が移りだしているとみえる。

杉本真維子の目覚しい詩は、助詞による破壊性を更新する。
彼女のやっていることは小さな構えのなかに
80年代詩以上の「破壊」を圧縮し、
同時にそれを自分の「声」でつなぐことだ。

小川三郎の助詞のつかいかたは精確で繊細、
そこで詩行連鎖にあたらしい突破口をひらこうとする。

田中宏輔は助詞による「詩変」の企てを下品なものとして省みず、
詩単位ともいうべき一構文に認識のふるいをかけつづけ、
涼やかな短文連鎖で異世界を清潔につくろうとする。
もしくは口語性をとりいれて、ひたすら「だらだら」しようとする。

近藤弘文は、助詞による破壊性を行頭とか別次元に配置しなおし、
詩行連鎖そのものの自明性を危機に陥れながら、
なおかつ詩行連鎖がぎりぎりで一性をもつ着地点を探求する。

中島悦子は・・・云々

なぜ破壊されゆくものが心を惹くのか。
その破壊のなかに「私」をも組み入れ、
そんな「私」を構文化することで
「私」の記憶や思考や言葉づかいの解体が指向されるのか。
それはみな、どこかで「私」が厭だとおもっているから
とまずはいえてしまうのではないか。

うまく書こうとする詩や、詩壇的野心のある詩には
「私」に関わる奇妙な「温存」があって、
詩壇以外の大方はそれを「大時代的な退屈」としかみない。
いまためしに例示した書き手は
そういう均衡感に富んだ認識をもっていて、
それで言葉のアキレス腱に噛み込む。
それが面白いことに「助詞」なのですね。

酒井さんにもそういう破壊性がある。
あなたのいうとおり、脱力性をつくりながら速い、というのが
彼の二重性タイプの破壊性だということでしょう。
それと彼の歌詞は、モダニズム詩の今日的転回でもある。
これがメロディと歌唱と演奏に乗ってゆく姿は
奇蹟的としか呼べない眺めともなる。

それは詩作者が織り成す「奇妙な手芸」と
何ら眺めの異なるものでもない。
そういうひとたちが、世界の多数性組成への信頼をつくりだす。



このコメントを書く前に、
「連詩大興行」に出されたあなたの新詩篇を読みました。
すごくいい。
僕がここに書いた「破壊」と同じ機微がありました。

自分が何を書いたのかという計測は大切です。
何が自分にとっての「新規」で、
そのことによって自分の思考がどう更新されているのか。
その更新部分は、
自分にとっての「他者」が介在したものではないのか。

そういうものを虚心に眺めたときに
あなたもあなた独自の詩論の確立に向かうのかもしれないね



【阿部嘉昭】

今日(というか昨日)はその後、夕方から
池袋ジュンク堂で開かれた、
三省堂『生きのびろ、ことば』『やさしい現代詩』刊行を記念した
前田英樹さんvs吉田文憲さんのトークイベントに行ってきた。

対談は前田さんの言葉で口火を切る。
現代詩は、詩を書くひとが詩を読むだけの、
ジャーゴンにみちた特殊な文芸領域にいまやなってしまっている。
そこにはもう詩に予定されていた
「外部」がなくなってしまっている、と。

それから対談は美しい方向に進展した。
上記を受け、では外部性とは何か、となって、
自然、歌、といった前田さんにしては意外な信念吐露が続いて、
結果、詩作者の使命とは、
宇宙的な歌・風・呼吸=プネウマを
リズムをつうじて翻訳するものだという結論も出る。
それに応接する吉田さんは、
いろいろな現代詩史からの文献的補強を繰り返し、
対談は前田さんの直観・倫理、
吉田さんの受動・倫理により、
美しさをずっと印象づける見事な流れともなった。

出席メンバー、関係者とその後、打ち上げへ。

前田さんにその席で話したこと。

詩を書くひと=詩を読むひと、
だから詩に外部性が欠落してしまっている、
現代詩は閉域だという立論はそれ自体、正しい。
だが、その図式を温存したまま
閉域性を解く魔法もある。
「詩を書くひとを無限大に増やせばいいのです」。

そう、僕はまあその信念で
授業をやったり、こうした日記/コメントを書いているのだった。
まあ、そのことをこの一連のやりとりの最後にしるしたかった。

そうそう、前田さんと打ち上げの席、
ドゥルーズ『シネマ』の話を畏れ多くもした。
詳細は書かないが、前田さんは訳語が不十分だ、といった。
「イメージ」と「イマージュ」はベルクソンに立脚すればちがう、
「運動イメージ」「時間イメージ」と訳されるのではなく、
「イマージュ=運動」「イマージュ=時間」と訳されなければ
本の根幹が脱落してしまう、とも語っていた。
 

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2009年01月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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