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詩の都市性 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

詩の都市性のページです。

詩の都市性

 
昨日の池袋ジュンク堂イベント、
前田英樹vs吉田文憲対談では、
現代詩の閉塞を破る「外部」として
「自然」が注目され、
それでイベントのきっかけになった
三省堂刊行『生きのびろ、ことば』のうち
花の生命にふと触れ合って詩魂の生ずる
最近の自身の変化を綴った小池昌代さんの文章が
壇上対談で言及されることになった。

このくだりにつき、僕の意見を付け加えておきたい。

僕の考えでは、詩には都市性と自然性の対立があるとおもう。
たとえば西脇順三郎は花の学名から性質まで
植物学者のように詳しく、
しかも「花の名」にはかぎりない崇敬を感じ、それを詩に織り込む。
さながら西脇の詩篇のコーダ部分は
花の名の交響として読む者をふかく魅惑してゆく。

以前の西脇展の図録をみると、
西脇は散歩のまにまに大量の花のスケッチ、
そして押し花帖をのこしていて、
それらは詩集のありようと相補的であるともいえる。
圧巻で、何かいいようのない細部がひしめいているのだ。

「散歩」と書いたが、西脇の詩行の「散歩」は微妙でもある。
たとえば西脇は開花季節に詳しいはずなのに、
一散歩を契機にしているようにみえた長篇詩は、
春の花、夏の花、秋の花・・と季節またがりでつながり、
実現されている詩行の旅が
実は空間ではなく時間軸に伸びているともわかる。

いやその散歩詩は「足」を動機にしていない。
むしろ「聯想」を動機にしているのだった。
となって西脇の内在律動にみちた奇跡的というしかない詩が、
ある種の「都市性」の達成としてこそその正体を現してくる。

季節にまたがる、というのは、ブッキッシュな脳髄の賜物だということ。
そうなって、季語句を、雑句を緩衝にして自在に連接させ、
月の座・花の座をも用意する(とくに挙句前の花の座では
春が象徴的・抽象的な次元でことほがれる)歌仙は、
全体が時間=季節礼讃の円環的巻物であっても
そこに如実に都市的感性が浸されているという理解も生ずる。

小池さんの書く――あるいは前田・吉田対談で
「外部」として待望される「自然」「季節」は、
たとえば往年の「田園」派の独占物ではもうないはずだし、
吉本隆明が『日本語のゆくえ』で現代詩人にないと難詰した「自然」も、
同様の視座で捉えられるべきだろう。

どういうか、「有限性が無限になっている外部を詩に対象化して、
それで詩の方向・世界内定位性を確定しなければ
詩が自家中毒に陥る」ということが示唆されているのではないか。

詩の都市派ということでまず僕が聯想するのがボードレールだ。
ボードレールは、韻文詩、散文詩、評論を通読すると
どんどん印象が都市性へ傾斜してゆく。

韻文詩は「歌」を起源にしていて、
となるとそれは相聞を最大の眼目にした
田園を故郷にもっていたと形式的にはいえるはずだが、
周知のとおりボードレールが娼婦などにおもいえがく恋情は
すでに都市性の刻印を受け、それは善悪の軸で「ひん曲がる」。

となって、ボードレールは都市環境のなかに
逆説的に「自然」を発見していたともいえる。

彼の散文詩集『巴里の憂鬱』には
僕の大好きな「不埒な硝子屋」がある。

リアカーでやっとこさ硝子を運ぶ物売りに
四階の高層から現物を近くでみたいと声をかけ、
細い階段での硝子運びを物売りにしいながら、
結果、一個も気に入る硝子がないとつき返し、
やっと硝子をもってふたたび階下に辿りついた物売りに、
四階の高みから一種の悪意を落下させ、
リアカーに乗る硝子全体を破砕させてしまう詩の主体。

このとき、硝子が詩の主体にとって
かつての詩の「自然」の位置にまで昇格していると
感じたのだった。

都市的環境は視覚に、聴覚に、皮膚感覚に、
素早い点滅や蓄積物をもたらし、
それは性的感興とともに、
一種の怒りといったものまでもを付加する。
体感と環境の齟齬が物理的に窮まってゆくためだ。

ただしそういう詩篇が連続すると都市のリズムがそこに定位され、
詩集全体が都市幻影をつむぎだすようにもなる。

ベンヤミンがスポットを当てるボードレールは
かならずこの点を経緯にしていて、
つまりベンヤミンはボードレールの詩の総体に
パサージュをみている。

この感覚を全面化すると、そこにはごく当たり前に、
混成と「感受性の一律化不能」という符牒にみちた
モダニズム詩も生ずるだろう。
そしてそれは「言葉だけを詩のモチベーションにする」
言語構成主義を席捲させることにもつながる。

都市の本質は「成員の相互弁別性」の弱体化だ。
結果、詩は烈しい競争原理のなかに置かれつつも、
むしろ相互差異をなくしてゆく逆説を描き出すことになる。
現代の詩はそういったものが重なっていって逼塞を生じた。

前田・吉田対談では、
たぶんそうした逼塞を解く「外部」からの恩寵として
今度は「歌」に言及が移されていった。
前田さんは「歌」の本質を暗誦可能性と捉えてもいたようだ。

どんな「歌」にも往年は確実に「節」があったとおもう。
古事記に挿入された歌謡は国家神話経緯を綴る文字を、
歌の文字というより、節=音楽性で荘厳する効果があったはずだ。

歌の素朴な様子とは前言したように
田園を舞台にした相聞に最もうまくイメージ化ができる。
その歌の段階にあったのは万葉までだろう。
すでに古今・新古今にして、
歌は声ではなく文字芸術に変貌しはじめたのではないか。

歌の初源状態が都市的感性に凌駕され、
歌が都市的リズムを苛烈にまといだした様子は
手近な例ではカントリー・ブルースに見ることができる。
素朴な労働歌・相聞歌だったブルースの初期段階では
リズムは鷹揚さのなかに一定している。

やがてアメリカのruralの様式化にかかわるラグタイムブルースでは
リズムの内在分割がはっきりしだし、
ロバート・ジョンソンのブルース奏法では
ボトルネックであろうとそうでなかろうと
自己暴力として、つまり自己裂開としてリズムが刻まれ始める。

リズムの方向は「自身」。これが都市性の符牒なのだった。
そうなってそれがロックンロール成立の予告となる。
そして現代の詩におけるリズム、歌も
こうした経緯なしに考えることができないとおもう。
これが受け手に転化する。

詩にたいする歌の必要がいわれるのだけど、
感性が不可逆的な都市化をこうむったという「所与」を
現在の詩に等閑することはできない。

前田・吉田対談では、詩の媒体変遷が語られることはなかった。
じつは最も複雑なリズム、内在性の歌を形成するのは、
紙に印刷された詩だろうとおもう。
そこで躍動してくるリズムは眼から身体の根底に訴えられて、
躯を共振とともに分裂にも導くものだ。

都市景観が複雑性を帯びて市民の眼に迫ったようすは、
明治開化期・小林清親の都市画を立証材料にして、
前田愛がすごく精密にドキュメントもしているが、
詩のリズムは音声内在性のみならず、
字配列のリズムをも材料にしていたのだった。
ただしそのリズムは最終的には共感覚へ響く。

では歌はどうなったか。
当然、朴訥なだけの歌というのは
そう演出されなければ現在にもう舞い込んではこない。
歌は産業化され、複製性のなかからしかもう殆ど出現しない。

しかしそうした歌は、聴覚にたいして詩よりも優位性をもつ。
前田英樹が歌の必要の根拠とした、暗誦可能性が
それがどんなに複雑化したにせよ(たとえばJポップ)、つよいためだ。
ただ歌は暗誦容易性をもつにせよ、
像を都市環境同様、複雑に連接し、
結果、身体に吃音・亀裂・分裂など複雑な効果をもたらしてくる。

それが詩の朗読にかつてはともなっていた旋律・リズムを付帯するから
歌詞は強度となって享受者の身体を直撃する。
そう、はじめのほうにしるした「節」もまた
音楽の発展にともなってさらに複雑に音楽化した。
現在、その意味で音楽はもう「混成の痕跡」となっている。

そういった破壊性をも用意する自己愛を転写するのが現在の歌で、
となったときその「歌の富」を現代詩に奪還することもありえる。
いずれにせよ、メディア論・都市論的考察から
詩作も離れることがもうできなくなっている。

簡明な詩が朗読に供されて感興を呼ぶ、という素朴主義から、
とうぜん現代詩は離れなければならないだろう。
詩にはすでに三種がある。
(1)紙に印刷される詩、(2)朗読に付される詩、(3)歌詞。

現代詩の閉塞・難解に顔をしかめ、
詩における「声」の復権を目指し、
結果、(2)の朗読に付される詩のみを顕揚してゆくというのは、
「都市」の成立という歴史を度外視することになる。
それは詩の歴史にとっても「反動」の危険と隣り合っている。
実際すぐれた現代詩はそれが難解に映るものでも
すべてつよい「声」をもっている。

次回、三省堂の詩の本のイベントは1月31日(土)、
同じ池袋ジュンク堂にて小池昌代と藤原安紀子の対談として開かれる。
昨日のイベントでは朗読CDと朗読された詩のカプリングだった
『やさしい現代詩』が俎上にあまり乗らなかったので、
今度のイベントでは詩の朗読可能性を言及するという
修復が図られてゆくだろう。

僕がここに書いた視座で対談が展開されればいい、と望んでいる。
聴覚で理解できる、
「しかもなお」聴き手の身体を「複雑に寸断する」詩が
音楽性・演劇性から離れて存在するか、がテーマにもなるはずだ。

じつは朗読に似合うのは現在の日本語環境では
言葉の指示性の高い小説のほうで、
それすら歌詞のもつ強度と時間性創出に
比肩しえていないというのが実感。
そこで「針の穴を通すような」詩朗読が、
たとえば白石かずこの達成ののちにありえるだろうか。

ひとつだけキツいことを書くと、
『やさしい現代詩』に入っている詩朗読のCDは
この疑問にたいし解答を提示するものにはなっていない。
 

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2009年01月25日 現代詩 トラックバック(0) コメント(0)












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